第10話

 七月に入り晴れの日が増えたなと思っていたら、梅雨が明けていた。

 今年の梅雨は短いそうだが、毎年いつ梅雨入りし、明けるのか覚えていない。五月に夏のような日が続いて、そのまま夏になるのかと思えば雨の日が増え気温が下がる。寒がっているうちに梅雨入りし、暑さが恋しくなるころには梅雨明けする。

 雨の日は煙草がうまい。それゆえ雨は嫌いではない。梅雨が短いのは少し残念だった。


 深夜一時。煙草を吸いたくなり家の近くにある公民館へ向かった。この時間にもなるとさすがに村を出歩いている人間は僕の他にいなかった。それでも物好きな人がここまでやってくるかもしれないので、見つかりやすい公民館の入口側ではなく裏側へと回った。


 表の入口には非常灯がついていたが、裏に電灯はない。それでもかなり明るい。月が丸かった。満月かそうでなくとも前後一日というところだろう。

 公民館の周りを囲むようにアスファルトで舗装された領域があり、その向こうは荒れた畑――というより草むらだった。持ち主がいるのかどうかわからない。この村も年々人が少なくなり、農業に携わる人も減っているらしい。生い茂る雑草は月に照らされている。枯れた白やみずみずしい緑に発色していた。草の中からは虫の鳴き声がうるさいほどに聞こえていた。


 草むらの少し向こうには農具倉庫があり、倉庫の横には農作業用トラクターが静かに待機していた。トラクターにはブルーシートがかけられている。

 草むらを越えたところに数件の家が見える。黒い影でできた家。屋根瓦だけが白くうねり、夜の海で揺れる波のようだった。その家々のさらに向こうは山だった。山は黒く沈んでいた。太陽を直視することができないのと同じで、暗さを極めた影の山を見つめ続けることはやめたほうがよさそうな気がした。


 煙草に火をつけた。知らず緊張していた体と心が緩んだ。体と心の隙間に煙が入りこんでいくようだった。缶コーヒーを開けた。一口飲む。頭が痛くなるほど甘い。甘さの裏で存在を主張する金属臭が癖になる。缶コーヒー単体で飲むことはあまりないし好きではないが、なぜか煙草とは合う。

ひとしきり煙を味わったところでまた夜の闇が気になり始めた。


 公民館の裏からは池が見えない。池につながる水路はよく見えた。水路の水は月の光をゆるやかに運んでいた。風もないのに小刻みに波紋を描いている。雨が降ったわけでもないのに妙に空気が水を含んでいると思ったが、この水路から水気が立ち上っているのかもしれない。何にせよ湿度が高い日に吸う煙草が、僕は好きだった。


 水路は小さな丸いトンネルに繋がっている。トンネルの向こうは池である。トンネルは、暗かった。黒い穴だった。


 僕はうまく唾を飲みこめず喉を鳴らした。邪気でも払うかのように大きく咳払いをし、缶コーヒーを一口飲んだ。トンネルは五メートルほどの長さを持っている。その先に池がある。それだけだ。黒い穴の先には池がある。それだけだ。予想外のものは何もない。にもかかわらず、僕は確かに恐怖していた。煙草を吸うのも忘れるほどだった。


 黒い穴――何か見てはいけないもののような気がしてならなかった。じわじわとその穴のふちから黒い霞が湧き出ているのを幻視した。黒い太陽を幻視した。


 僕はそっとしゃがみこみ、煙草を地面に押し付けた。入念に火を消した。足元のコンクリートがひび割れていた。この村はどこもかしこもひび割れている。吸い殻をひび割れに突っこんで。黒い穴のほうを見ないようにしてゆっくりと立ち上がり、家のほうへ歩きだした。

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