第11話
数日間、外出せずに過ごした。気まぐれに庭掃除などは手伝ったが敷地から出ることはなかった。貯金も少なくなり、酒も煙草もあまり買えなくなってきたことも外出しない要因だったかもしれない。
我慢していたがやはり酒を飲みたくなり、深夜、キッチンに忍びこんだ。養命酒はもうなくなってしまったので、料理酒を探した。普段料理を手伝うことはなかったので手間取ったがコンロの下にある棚にしまわれていた。銘柄は鬼ころし。味見をした。料理酒というより日本酒として飲まれているものなのでそれなりに美味しかった。コップに注いで部屋に戻った。
ちびちびと鬼ころしを舐めながら、ふと数年前にアルバイトとして働いていたコンビニのことを思い出した。朝のシフトに入っていたので、通勤前のサラリーマンなどが客としてよく来ていた。毎日来る人は毎回買うものが固定なので、何度か接客すると覚えてしまう。
ショートホープを二つだけ買う老人。マーブルチョコとカフェラテを買う女性。二リットルの水だけを買う筋肉質の男性。いろいろといたが、強く印象に残っているのは朝から酒を買う人だ。覚えているだけで二人いた。
一人はスーツを着た五十代くらいの男性で、毎朝新聞と缶チューハイを二本買って出勤していく。どこで飲むのだろうといつも気になっていた。その人は、いつもコンビニにたどり着いた時点で既に酔っているような赤ら顔だった。さすがに心配になったものだが、今でも達者だろうか。
もう一人は六十か七十代くらいの男性で、定年退職済なのかスーツではなくラフな私服でやってくる。毎朝小さなパックの鬼ころしを二つ買っていくのだった。その人もコンビニに来た時点で酒臭く、明らかに酔っているようにふらふらとしていた。鬼ころしを見るとその人のことを思い出す。
僕も飲み過ぎないようにしないとあの人達のようになりそうだなと思い、今日は一杯だけにとどめて晩酌を終えた。
手鏡で自分の顔を確認する。最近習慣になっている。
あえて目以外の部分を先に確認する。
髪、ぐねぐねと黒い。
眉、くっきりと濃い。
鼻、低くも高くもない。
頬、少し痩せこけ始めている。
唇、水分が足りないのかひび割れかけている。
そして、目。
鏡の中の僕と目が合った。奥二重で覇気がない。虹彩は……黒すぎる。黒い穴が開いている。こちらを見ている。僕はすぐに目をそらした。もう一度見た。穴にしか見えなかった。吸い込まれそうな穴だった。僕は奥歯を噛み締めているのに、鏡の中の人はなぜか少し笑っているように見えた。
この顔は僕のものだ。この目も僕のものであるはずだ。本当に? 信じていいのか。見た目は信用ならない。変わったのはその裏にある部分で、表層部分は何も変わっていないのかもしれない。この肉体に隠れている精神や魂とでもいうような存在が、変わってしまったのだ。穴から何かがにじみ出している。夜、寝室の片隅によどむ液体のような暗闇。夜、誰もいない池にたゆたうような暗闇。そういう類の暗闇が、隠すこともできないほど僕の内部に飽和し、虹彩の奥からあふれ出したのだ。黒い太陽のようだった。
つい先日、この穴を見た気がした。池へとつながるあの水路の丸い穴。あの穴とこの穴の向こうに存在するものは似ている。
暗闇に近づきすぎたのかもしれない。そこにあるのは、そこにいるのは僕という存在と切り離された何かで、僕よりももっと大きな空間に広がった存在である気がする。もともと僕の肉体に収まっていた精神が、よどみ、にじみ出し、触れてはいけない部分に触れ、まじりあい、境界があいまいになった。
もっと早く気づいていれば対処のしようがあったのかもしれない。まじりあった部分だけを僕の精神から引きちぎり、分離すれば、何かを失いつつも、後戻りしつつも、元の僕に戻ることができたかもしれない。しかしもう手遅れであると理解している。僕と暗闇との境界はあやふやで、僕は僕の輪郭を定義できない。
思えば昔から自分というものがなかった。物心ついたときには既に自分というものがなかった。物心つく前の僕が誰とどういう取引をしたのか知らないが、その時に、自分というものを差し出すことにしたと思われる。
はっきりとした境界を持たないままでは、この世に存在し続けることはできないのだろう。今、僕が僕の輪郭を再定義したとして、僕のうちの何割が本当の僕なのだろうか。残った何割かは僕と別の何かであり、対話不可能な存在である。
僕の目は、いったいいつからこうなってしまったのだろう。いつ元の目に戻るのか。僕はなんらかの病気に罹患していると仮定して、その病気が治ったところで、この目はこのままである予感がした。一生、自分で自分の目を直視できないのだろうか。いつからか他人の目は直視できないようになっていたが、これで自分を含めて誰の目を見ることもできなくなった。
この穴を見すぎると、取り込まれて、二度と戻れない場所に迷いこむのだろう。
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