第4話

 夕食を食べている時、父がいつものように言った。


「龍太、仕事見つかったか?」

「いや、まだ」と僕は言った。


 いつもならそこで父が小言のような戯言のようなよくわからないことを言って、僕がそれに夢遊病者のような意味のない回答を返す。それで終わりだった。しかし今日はそこに祖母が便乗した。


「龍ちゃんも昔はえらかったのにねぇ」


「今はえらくないの?」とでも聞いてみたかったが、今も昔もえらくないのは自分が一番よく知っている。僕は口をつぐんだ。ともあれ、何かしら言わないといけないと思ったが、僕の口からは音のない吐息だけが漏れ、その後、不細工な笑みが形作られた。少し待った後、また祖母は言った。


「頭はいいんだから、なんにでもなれるでしょう」


 頭は良くない。おそらく中学の頃が一番頭が良く、その後は年々馬鹿になっていった。今となっては健全な成人男性とは思えないほどの脳の鈍さを自覚している。思考はたやすく飛び散り、積み重ねることはできない。飛び散った先で発生した波紋を目で追っている間に、霧の中に迷いこみ、結局、もともと何を考えていたのかすら思い出せなくなる。


 僕は沈黙した。誰も何も言わず三秒ほど経った。仕方がないので、僕は「まぁ、ちゃんと仕事は探すよ」とだけ言った。


 その後は、親戚の話になった。祖母には僕以外にも孫が何人かいる。幸か不幸か僕以外の孫はすべて優秀だった。それぞれの去就を詳しく知っているわけではないが、何の失敗もない人生を歩んでいるようだった。

 彼らの輝かしい経歴についてのあれこれを祖母が母に語っているのを僕は聞いていた。母は愛想笑いが上手かった。

 僕は目の前にある焼き魚に集中した。皮をよける。身をほぐし、口に運ぶ。その繰り返しの結果、いつの間にか皿の上にあるのは骨と皮だけになっていた。集中していたはずだが味は思い出せなかった。


 祖母の演説が終わったころに、祖父が、

「龍ちゃんはちゃんと考えとるよ」と、かすれた小さな声で言った。やはり誰も何も返答しなかった。

 僕はちゃんと考えているのだろうか。考える前段階で、ただ悩んで迷っているだけにしか思えなかった。またあの曇天の荒野が見えた。太陽は昇らないし、沈まない。西も東もわからない。道もない。線路もない。そもそも池の中心にある岩から僕は出ることができない。その小さな岩の上で、いくら何を考えてもどこへも行ける気がしなかった。ここには誰もいなかった。


 夜八時ごろ、飲み物を取りに冷蔵庫へむかった。冷蔵庫はダイニングのある一階にも設置されているが、二階にもある。一階にはダイニングの他、応接間や祖父母の部屋があり、二階には父、母、僕の部屋がそれぞれある。二階の冷蔵庫は母の部屋の前にあった。母の部屋のドアは開いていた。僕が冷蔵庫を開けると、部屋の中から母が、

「明日はどこか行くの?」と声をかけてきた。

 その声は熱くも冷たくもなかった。ドアから中をのぞくと、母はビールを飲んでいた。テレビではおもしろくなさそうなバラエティ番組が流れていた。


「明日もハローワークに行ってみる」

「そう……あんたは何がしたいの?」


 一番困る質問だった。何がしたいのかは僕が一番わからないのだ。「何かをしたい」と自分で思うことがほとんどない。最後に何かをしたいと心から思ったのは、多分、十年近く前で、それ以降は常にぼやけた気持ちで生きてきたように思う。周りにただよう曖昧な空気を読み続けているうちに自分の考えは不要と判断されたのか、気づいたときには自分の中に何も残っていなかった。何に対しても反応を返さない死体だけがそこにあった。


「さぁ、したいことはあまり思いつかないから……よくわからない」という中身のない言葉を僕は呟いた。

「何それ。本当に考えてる? 何を考えて生きてるの?」

「考えてはいるけど」と僕は言って、その続きは口から出なかった。

「育て方を間違えたのかしら」と母は言った。僕は「確かに間違えたようだね」と返答したかったが、何も言わずに自分の部屋へと戻った。


 部屋に置いていたウォッカを割らずに一口飲んだ。薬のような妙な臭いがして美味しくはなかった。目を閉じて食道が焼ける痛みとかゆみを味わった。まだ、母の言葉と僕の言葉が黒く重たく喉と心臓の間あたりにひっかかっていた。それは粘り気のある紐で僕のからだに繋がっているようだった。

 もう一口、二口と飲み進める。強い酒精が少しずつ紐を溶かしていった。酩酊する手前で紐はすべて溶けた。母の言葉は、胃のひきつるような痛みをともないながら、腑の底へ落ちていった。


 部屋にある手鏡で顔を見た。酒には強いほうで普段は飲んでも顔色が変わらないが、今日はさすがに飲み過ぎたのか、鏡に映った僕は妙な顔色をしていた。顔全体が赤くなるわけではなく、目の上と下にだけ隈取のような赤い模様ができていた。その赤い帯は横に広がり顔の側面でぼやけて消えていた。


 鏡を置いて、ベッドに寝転がると、天井がまわり始めた。目を閉じ、開けると少し止まるが、また時計回りに動き始めた。まるで、時間は止められないと主張するかのような動きをしていた。


 目が覚めると朝の六時だった。まだ酒が体に残っていた。二日酔いというより、そのまま前日の酔いが続いているような感覚だった。依然として景色はゆっくりと回り出しそうな柔らかさを保持していた。


 二つか三つほど夢を見た。一つは大学時代につきあっていた彼女が出てくる夢だった。彼女の部屋で、僕は床に座っていた。早朝なのか夕方なのか部屋は薄暗かった。彼女はこちらに背を向けて化粧をしていた。角度からして、鏡台には彼女の顔が映っていそうなものだが、どうやっても彼女の顔が見えなかった。

 僕は立ち上がって彼女のもとへ向かおうとしたが、立てない。立ち方を忘れたように、どうあがいても床から体を離すことができなかった。怖くなって彼女に呼びかけたが、声は言葉にならなかった。「うぅ」とうなるような音が出るだけだ。彼女はこちらを見ない。化粧をし続けている。

 最終的に、僕の想像の中で、どんどんと「彼女の顔は恐ろしい何かだ」という想いが膨らんでいき、その恐怖に耐えきれなくなった。逃げるようにして無理やり夢を終わらせた。


 その次に見た夢は、高校時代の夢だった。当時所属していた軽音楽部のメンバーが数人そろっていた。

 学校近くにあるフードコートだった。一つの白いテーブルを囲んで四人が座っている。テーブルの上にはマクドナルドのポテトとシェイクがあるのだが、なぜか一人分の量しかなかった。それはテーブルの中央に置かれていた。誰もそれに手をつけずに、延々と政治の話をしていた。

 今思えば、彼らと政治の話などしたことがない。僕は政治の話などどうでもよく、とてつもなくシェイクを飲みたかった。いつまでたっても誰もそれに手を伸ばさないので、遠慮して僕も飲まない。そのうち、隣のテーブルからやってきた見知らぬ女性が僕達のポテトとシェイクを手に取り一直線にゴミ箱へ向かい捨ててしまった。僕も誰も何も言わず、相変わらず政治の話をしていた。


 それ以外にも何か別の夢を見ていたが、忘れてしまった。

 ここ最近、夢が長く鮮明になってきたように思う。もっとあやふやなころのほうが幸せだった。鮮明になればなるほど、内容をリアルタイムに把握できればできるほど、悪夢に近い色合いが濃くなっていく。僕の中にこびりついた悲観的な思考は夢の中でも自動的に発揮されているようだった。怖いかもしれないという考えが少しでも頭によぎるともうだめだった。どんなに良い夢であろうが、崩壊し、いたるところから恐怖がにじみ出すのであった。


 夢の中でさえ楽観的になれないのであれば、現実世界では推して知るべしだろう。物心つく前はもっと楽観主義だったような気がする。もちろん覚えていないが。いつ、何が起きて悲観主義者になってしまったのだろう。

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