第6話
六月も半ばになり、梅雨らしい天気が続いていた。この日の朝はひさしぶりに、雨も雲もなかった。
夏に近づくと勝手に起床時間が早まる体質で、最近はだいたい五時に目が覚めるようになった。今日はことさら早く、時計を見るとまだ四時だった。
早朝、誰もいない時間帯に近所の公民館へ散歩するのが好きだった。起きてすぐ適当に顔を洗い、着替え、静かに家のドアを開けた。家族にも他人にも誰にもとがめられない自由を感じられる時間である。
家から徒歩一、二分ほどの場所にわりと大きな池があり、その横に、豆腐のような白く四角い建物――公民館があった。この公民館は地区の集まりなどで利用される。僕も子供の頃は季節ごとの行事で子供達の集まりに参加していた。集まりといっても少子化の影響で小学一年生から六年生まで合わせて十人程度だった。十年以上前の時点でそれだから、今はもっと少なくなっているだろう。
公民館の入口前には小さな広場があり、夏休みになるとここでラジオ体操をしたりもする。公民館の裏手側には水路があり、その水路は池につながっている。
僕は公民館の入口につながる三段だけの階段に腰をおろした。建物だけでなく階段もつるつるの白だった。足元に蟻が二匹いた。彼らは僕におびえることなく靴の周りを行ったり来たりしていた。
時計を見ると四時ニ十分だった。見渡す限り誰もいなかった。あるのは池と田んぼと山、そして遠くに点在するいくつかの家だった。日の出の気配はあるもののまだ世界全体が夜の延長線上にあった。夜を極限まで薄めた、灰色と青色に満たされていた。空の青と山の緑と池の灰色が空気に溶けだしてまざりあっていた。重苦しい見た目とは反対に清浄な匂いがしている。
小鳥の鳴き声が遠くから聞こえる。姿は見えない。虫もいる。鈴のような声をした虫。ラジオのノイズみたいな声を出す虫。それをかき消すようにカエルたちが騒いでいる。ギロのように響くアマガエル。あまりにも低くあまりにもうるさいウシガエル。それらすべてを引き裂くように巨大な怪鳥のような鳴き声が聞こえた。サギだろうか。このあたりで体の大きな鳥はサギくらいしか思い当たらなかった。
池で魚が飛び跳ねる音がした。石を投げこんだような音だったが、僕以外に誰もいないのでおそらく魚だろうと思う。
煙草に火をつけた。この時間にここで吸う煙草は格別のうまさがあった。梅雨のため空気に充満している湿気と、あたりからただよってくる草花の匂いが煙草の煙と混じりあいえも言われぬうまさがあった。
もともと小食なこともあり食に興味がわかない。酒も酔いたいから飲んでいるだけであり、そこまでうまいと思えない。そんな中、この煙だけは確実にうまかった。体を壊すだけの、栄養のない煙。ゆるやかに命を奪うもの。今すぐ殺してくれてもいいのだが、そこまでの力は持っていないらしい。眠るようにして、消えるようにしてここで命が尽きたらどれだけ幸せなことか。
煙のような考えを頭のなかで持て余していると、視界の隅、池の向こう側で何かが動いた気がした。このあたりは老人が多いため、朝はやくから散歩する人もたまにいる。しかし目をこらしてみても誰もいなかった。たしかに白い服を見た気がしたが勘違いだったろうか。
数秒か数十秒か、じっと同じ場所あたりを見つめていた。
池の向こう側は背の高い草が生えていたりするのでその裏に隠れているだけかもしれない。いつの間にか煙草の灰はフィルターまでたどり着いていた。もったいないと思いながらアスファルトにこすりつけて火を消した後、地面のひび割れに吸い殻を押しこんだ。ひび割れからは雑草が青々と生えていた。
二本目の煙草に火をつけ、一口二口深く煙を吸いこんだ。頭を再起動した。
もう一度池の向こう側を見た。さきほどよりさらに視界が悪くなっていた。
池から霧が立ちのぼっている。まるで池全体が温泉にでもなってしまったかのようにどんどんと霧が出てきた。それは恐ろしい勢いで、僕が煙草を半分吸い終わるころには池を乗り越えてあたり一面を包みこんでいた。朝の青は霧の白にかき消されていた。
この小さな村をかこむようにしてそびえ立つ山々からも、いつのまにか霧が立ちのぼっていた。雲が死んでしまったかのように力なく山に垂れ下がっていた。村全体がひんやりとした白い煙に沈んでいた。
いつの間にか、あれだけうるさかった虫や鳥やカエルたちも鳴きやんで静まり返っていた。僕をふくめて皆が息を潜めていた。何かが起こっている。
僕が何かトリガーを引いたのだろうか。それともあやまちを犯したのだろうか。さきほど地面のひび割れに吸い殻を押しこんだのがいけなかったのだろうか。美しい自然の中で煙草なんてものを吸ったのがいけなかったのだろうか。この村において異物のような立場になってしまった僕がここに存在すること自体が許されていないのだろうか?
僕は落ち着くために、あえてゆっくりと煙草を吸いきった。そして吸い殻をまた地面のひび割れに押しこんだ。
三本目の煙草に火をつけるか否か、迷っているうちに霧は晴れ、いつの間にか東の山から朝日が差していた。やはり池の向こうには人影がなかった。
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