戦わずして勝つために

石衣くもん

👔

「逃げるが勝ち」


を座右の銘として過ごしてきたわが人生、およそ二十五年。

 悪口大会の場では、口数少なく困った顔をし、糾弾大会では神妙な面持ちで斜め下を見詰める。意見を求められた時には、自分の前に出た意見に対して、肯定的な補足をして、それが通れば最初の発言者に「流石です」と声をかけ、通らなければ少し残念そうな表情で「でも」を枕詞に、通った意見を肯定する。

 学校でも、サークルでも、バイト先でも家庭でも。ずっとそうやって生きていた平和主義の私、平菜美たいらなみは、今職場で逃げられない状況に立たされていた。



 ことの始まりは、三年前。新卒で入社したこの会社の私が所属する部署には二大派閥がすでにあった。

 課長の外川さん、通称ボスを将とする仕事辛い派と、部長の内山さん、通称キングを将とする意識高い派である。ちなみに通称は、私の心の中でのみ呼ばれている。

 外川さんは仲間になった者には優しく、それ以外には厳しいという縄張り意識の強いボス猿のような存在だった。その所為で、親しい人とおしゃべりするために、自分と親しい人の仕事を親しくない人に振りまくるのである。

 振られた方は堪ったものではないのだが、さらに外川さんの悪癖で、好感度に応じて振る量を変えるというものがあった。

 すなわち、派閥に入って仲良くするか、派閥には入らないものの嫌われないようにするかが対策のポイントなのである。


 一方、内山さんは頭が良すぎるが故、難しい言葉で喋るかつ、そもそも口数が少ない人なので何を考えているのかわかり難い人であった。ただ、その手腕を買われ、まだ三十代と若いのに部長に抜擢されるような優秀な人材でもあった。そして、彼は何事にも全力を尽くせる人だったので、仕事が辛いという意味がわからない、自分ができるのだからお前たちもできるだろう、というある種、王様みたいな人であった。

 内山語録の頻出としては


「結果が出ない努力は努力ではない」

「この数字すら追えないのであれば今後何をしても無駄」

「時間は意識して作るものだ、待っていても浪費するのみ」


などが挙げられる。

 基本的に、寡黙で好き嫌いがわかり難い人ではあるが、必要な仕事に全力を注げる、あるいは、その力を注ぐパフォーマンスが上手い人を評価する傾向にあった。そして、評価した人材には自身が有用だと思った仕事を直接指示するので、外川さんも仕事を振りにくくなるのであった。

 すなわち、意識高く仕事をして派閥にいれてもらうか、派閥には入れなくとも一生懸命仕事をするかが対策のポイントなのである。



 普通に考えれば、部長の内山さんが支持されそうなものだが、課長の外川さんは社歴が長く、彼女に気に入られた人が長く勤める傾向にあるこの部署で、別部署からやってきた年下部長、しかも何を考えているかわかりにくい人について、さらに外川さんに嫌われるのは避けたい。彼につくのは、外川さんには評価してもらえない、仕事ができる人か、そもそも外川さんが嫌いな人かのいずれであったのだが、仕事ができないと見向きされないという難点もあった。

 結果として、内山派に入れない人達が外川派にやられて退職するという不毛極まりない負のスパイラルができあがっていたのだった。

 

 入社一週間で、なんとなくその雰囲気を読み取った新入社員の私は、まず外川さんにそこそこの仕事を振られることになった。これは嫌われているのではなく、新入社員全員に行われる、いわば派閥入りの選抜試験である。

 ここで不満を漏らしたり、仕事が極端に早かったり遅かったりすると、今後、大量に仕事を振られるリストに加わることになる。反対に、仕事がそれなりに早かったり、外川さんの負担を大きくしない程度に「助けてください」と頼ったりするとお気に入りリストに加わることができる。基本的にボスは頼られることが好きなのである。なので、極端に仕事が早い人間は生意気に感じるのか


「こんなの余裕だもんね?」


と、仕事を振るのであった。

 私は振られた仕事を結構早く熟してしまい、危うく


「あら、もう終わったの。ならもっともっとできるわね」


と、仕事を振られるリストに片足を突っ込んだのだが


「もちろんです! 課長が新人に経験を積ませようと仕事を選んでくださっているので、早くお力になれるよう頑張ります!」


なんて溌剌と答えたため


「……頑張りすぎもほどほどにね」


と、無事、難を逃れたのであった。



 一方で、新入社員なりに振られた仕事をバリバリ頑張った結果、ほどなくしてキング内山が


「平さんはもっと大きい仕事をやってみたくないか?」


と打診してきた。

私は大きい仕事はやりたくなかった。なぜなら、しがらみや対立に巻き込まれる可能性が高く、ここでキング派だと思われたら、せっかく思いとどまってくれたボスが大量に仕事を振ってくる可能性があったからだ。

しかし、ここで「やりたくない」と言ってしまうと、今後、キング派の庇護なしのまま、ボス派の機嫌を伺い続けないといけない。これはほぼこの会社で敗北したと同義である。敗北した会社では長く勤めることはできないし、私は戦わずして勝たないといけなかったのだ。


「そんな、私なんてまだまだですので」

「不必要な謙遜は機会を逃すぞ」


 少し不満げに寄せられた眉根に、慌てずまっすぐ目を見て答える。


「いえ、謙遜ではありません。正当な自己評価です。大きい仕事がどんなものか理解できていない新入社員は、いつか大きい仕事に関わらせていただけるように、まずは基礎を地道に頑張りたいんです」

「……何か困ったことや、挑戦してみたいことがあれば遠慮なく相談しなさい」


 表情はほとんど変わらなかったが、寄せられた眉根が戻ったので及第点だったのだろう。やはりキングは基本的に優しい人のようで


「基礎をやりながら無理して大きい仕事に関わるべきだ!」


までは言わなかった。



 ここで少し自分語りをさせてほしい。

 私は、自分を取り巻く環境が少しでも長く平和であるために労を惜しまない人間であった。苦手なこともあるが、要領は良い方で、求められることを察知し、無理ない範囲で提供する、それが平和を維持するための常套手段であった。

 しかしながら、できないこと、何をやっても戦いが起きてしまうことなんてのは、往々にしてあるものだ。

 そんな時、切り札である「逃げるが勝ち」が発動するのだった。傲慢な考えだとは重々承知しているが、自分の快、不快以上に優先させたいものなんて、この世にないと思っていた。

 学校の派閥だって、サークルだって、バイト先だって、嫌になれば別の環境を用意すればいいのだ。ただし、逃げ時と逃げ方を間違ってしまうと、別の環境を用意するのが難しくなるので、その見極めだけは間違えないようにしていた。

 会社だってそうだ、転職なんて今時珍しくないし、どうしようもなくなったらさくっと辞めて次を目指せばいい。

 そう思いながら、自分の頑張れる範囲で頑張ってきた私は、無事ボスにもキングにも構われる過ぎることなく、穏やかな社会人生活を送っていた。



「新入社員研修をやってほしい」


 キングとボス、珍しく二人揃って呼び出されたので、何事かと思えば業務の打診であった。


「力不足な部分もあると思いますが、ご指導よろしくお願いいたしします」


 自分が受けた新入社員研修に思いを馳せ、手に負えないものではないと判断し、快諾した。二人とも満足そうだったのを今も覚えている。

 思えば、この時にもう少し考えて返事をするべきだったのだ。


 今までだって、サークルやバイト、この会社でだって後輩と接する機会は多々あり、なんら問題なく過ごしていた。しかし、「自分が直接影響を与える存在」と接するのは初めてだった。

 私の受け持ちの新入社員は三名。とにかく一生懸命で少しドジな守屋さん。言葉が足りないところはあるが、気遣い屋の張本くん。そして、私に全幅の信頼を置き、屈託なく懐いている子安さん。

 当然、三人とも成人している立派な大人であるが、この会社でいえば一番弱い存在といっても過言ではない。

 私の仕事は、彼、彼女らをこの会社でやっていけるようになるまで見守ることが含まれていた。時に厳しく、時に一緒に課題に立ち向かい、困難を乗り越えていく。今まで、自己保身のため、チームプレイをしているようで、自分の身の可愛さだけを重んじていた私が、最初は疑似的ではあったが「自分のことより他人のため」に何かをするということを初めて体験したのだった。

 何においても、初めてを捧げた相手には特別な感情を持ってしまうものだ。私は三人が可愛くて仕方なかった。贔屓目だが、三人とも本当にいい子で、打てば響く、そんな彼、彼女らの成長に益々自分も頑張らないといけないと奮起する私の様子に、キングは満足そうだった。ただ、三人を育てることに集中しすぎてした所為で、ボスが少し面白くなさそうなことに、私は気が付かなかったのであった。



「課長、私はおかしいことを言ってますか?」


 普段、おとなしい張本くんが、明らかな怒気を含んで言い寄った相手は外川さんだった。


「ちょっと平さん、あなたどういう新人教育したの? 困るわね」


 ボスは、私に向かって得意げに説教を始めた。恐らく、逃げるならここが最終ポイントだった。そして、結果的に私がボスに戦いを挑む契機でもあった。

 新入社員研修を行いながらも、私は自分の仕事の質は落としたくなかった。その分削られてしまったのが、ボスへの配慮である。

 元々キングは仕事をしっかりしておけば好感度をキープできるので、難しくなかったが、ボスには頼る姿勢を見せつつ、彼女の負担も減らすべく仕事を肩代わりしてあげることが、好感度キープの秘訣であった。その配慮に手が回らなくなり、途端に私はボスにとって生意気な部下になったのである。


 初めは私に仕事を回そうと躍起になったボスだったが、私が仕事を捌きつつキングに


「部長と課長に期待してもらっていると自負して、慣れない新入社員研修に四苦八苦しておりまして、もう少し課長から依頼される通常業務以外を円滑に回せる方法はないでしょうか」


と相談という体で、ボスの悪行を訴えた。キングはボスに直球で


「平さんに雑務は回さないように」


と言い、ますますボスは怒りに燃えてしまった。その怒りを収束できればよかったのだが、私が手を打つ前に、彼女は今度、守屋さんに手を出した。

 自分の厄介な仕事を私がいない時を見計らって、守屋さんに押しつけ、失敗を叱責したのである。もちろん、守屋さんはわからないなりに頑張ったのだが、いかんせんスピードが重視される仕事であったため、私がそれに気が付きフォローに回った時点で失敗は免れず、もう火消するくらいしかできなかった。当然、新入社員に振る仕事ではない。

 目の前で守屋さんの失敗を責めるボスに、今度は私が怒りに燃えた。自分以外のことでこんなに腹立たしく思うのも初めてだった。しかし、私より怒りに燃えた人物がいた。張本くんである。

 張本くんは、守屋さんを助けることもできず、その理不尽を目の当たりにして、どうにか一矢報いたくなったのだろう。勝ち目のないボスへの戦いを挑んだのである。


「外川課長、そもそもこの業務、新入社員の守屋さんに任せるべきではなかったと思います」

「あら、責任逃れをするつもりかしら」

「責任逃れも何も、元々課長宛てに連絡があって、それを放置してて時間が経ってしまっていた案件ですよね、なぜそれが守屋さんの責任になるのでしょうか」


 怒りながらも、感情的に攻めず、淡々と事実を突きつけていく張本くんを、ボスは睨みつけた。それでも張本くんは怯まずに言ったのだ。


「課長、私はおかしいことを言ってますか?」


と。



 ボスの私への説教は止まらなかった。そして私も止めなかった。守屋さんは失敗を責められた時点で泣きそうだったが、自分の所為で私が怒られていることに涙を零していて、ボスの説教の契機となってしまったと張本くんも辛そうな顔をしていた。

 最後の方は私への人格否定だったが、一通り言いたいことが言えたのか、やっと止まったボスの説教に、私は頭を下げて言った。


「申し訳ございませんでした。私の指導不足です。ご指導ありがとうございました」


 顔を上げれば満足そうなボスが


「あなたの手本になれたなら嬉しいわ」


と笑った。

 今までの私なら、百パーここで終わらせて、もしかしたら明日にでも「辞めます」と言ったかもしれない。十中八九、ボスの嫌がらせはこれで止まらないだろうし、味をしめてまた三人にちょっかいを出そうとするだろう。

 そんなことは、許せなかった。


「ですので、こちらはきちんと内山部長に調査の上、報告いたします」

「なんですって」

「私の監督不行届きで、外川課長の案件を失敗させてしまいましたので、その経緯をすべてお話しして、同じ過ちを繰り返さないようにいたします」


 まさか私が言い返してくると思っていなかったボスは一瞬呆気にとられ、すぐに私を睨みつけた。


「不要よ、このことは私から部長に報告します」

「ご安心ください。すでにやりとりのメールから、先方にお送りした資料まで、私が確認し、まとめております」


 始末書も含め、内山部長にお渡ししてまいります、と続けたらボスの顔は真っ青になった。当然だ、張本くんが言った通り、この案件の失敗はすべてボスの放置が原因なのだから。


「責任逃れするつもり!」

「とんでもないです、私の報告書には、私、守屋、先方担当、そして外川課長のやり取りすべて、事実を時系列にまとめておりますので、どなたにどんな責任があるかは、内山部長が判断してくださることでしょう」


 私は動揺しているボスを前に、守屋さんと張本くんにもう一度自分と一緒に「申し訳ございませんでした」と頭を下げさせて、その場から連れ出したのだった。



「平さん、本当に申し訳ありませんでした!」

「私こそ、守ってあげられなくてごめんね」


 泣きながら謝る守屋さんと張本くんに私も謝り返した。あの場に子安さんもいたらしく、立ち去る私たちを追いかけてきて、なぜか一緒に泣いている。


「でも、これから私たち平派は、課長派にいじめられちゃうんでしょうか」


 心配そうにそう言った子安さんに


「大丈夫よ」


と笑いかければ、彼女の顔は明るくなった。


 正直、まったくもって大丈夫ではない。

 部長には事実を報告するが、課長を降格させられる程の失敗ではないし、今回のような明らかなものはないにしても、今後も嫌がらせは続くだろう。

 というかさらっと聞き流したけど、子安さん「平派」って言わなかった? いつの間に平派ができたのか、将は私なのか。新入社員と私だけの派閥って、何それ、よわよわではないか。

 私はキング派でもないし、あからさまな嫌がらせに対してはキングも対処してくれるだろうが、それ以外は今まで通り仕事をこなし、三人をボスの嫌がらせから守り、一人前に育てあげなければならない。想像しただけで頭痛い。

 けれど、私は、三人がいる限りは、この会社から逃げられない。戦わずして、自分だけが勝つために逃げるのではなく、平派の勝ちを目指して戦いながら。

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