春に狂（くる）う

エピローグ

「じゃ、これで、さよならだね。先輩（せんぱい）」

　朝になって、ホテル料金は室内（しつない）精算機（せいさんき）で支払（しはら）い済（ず）みだ。彼女は既（すで）に着替（きが）えを終（お）えている。私はと言えば、まだベッドに突（つ）っ伏（ぷ）していた。腰（こし）が泥（どろ）の中に漬（つ）かっているような感覚で、今は動（うご）けそうにない。

「ええ、気（き）を付（つ）けて家に帰って。車に轢（ひ）かれたりしないでね」

　大笑（おおわら）いされた。こういう小言（こごと）みたいな事を言ってしまうのが、私の職業病（しょくぎょうびょう）なのだろう。

「気が向いたら私も、先輩と同じ職場に行くかも。期待しないで待ってて。それまで、クビになったりしないでよ？」

「約束は、できないわね」

　本当に自分の将来が見えなかったので、そう言うしか無（な）い。彼女は優（やさ）しく微笑（ほほえ）むと、動けない私の前まで来て、跪（ひざまず）いて微笑（ほほえみ）と同じく優（やさ）しいキスをしてくれた。そして彼女が、私の耳元（みみもと）で囁（ささや）く。

「じゃあ縁（えん）があったら、またね。先（・）生（・）」

　振り返らずに彼女は部屋を出た。これは私の方が、捨（す）てられたのだろう。どうであれ、また四月が来る。私にも彼女にも、新しい始まりの季節が待っているのだ。

　入学式が今年も終（お）わった。中高（ちゅうこう）一貫（いっかん）の女子校、そこが私の職場だ。そして職場は私も、そして私の母親も通（かよ）っていた母校（ぼこう）である。母親も私も、教師（きょうし）という職業を選（えら）んでいた。

　学生時代に知ったのだが、母校（ぼこう）は女子同士の恋愛が盛（さか）んで、そして教員と生徒が秘密（ひみつ）裏（り）に付き合う事も珍（めずら）しくなかった。私の初体験は相手が女性教師で、褒（ほ）められた関係ではないが、私の中では素敵な思い出として記憶されている。

　少し私は母校（ぼこう）に馴染（なじ）みすぎたようで、気が付けば、この職場の生徒しか愛せなくなっていた。私は早くに離婚（りこん）した母親を思う。母は夫を心から愛する事ができなかったのだろうか。私と母は似ているのかも知れないと今は思う。

『人と人は分（わ）かり合（あ）えない』と私は思っていた。しかし今は、少し母親の事を理解できた気がする。だから何だと言われれば、上手（うま）く答えられないのだが。

　私は三月にラブホテルで別（わか）れた少女を思う。今の私は、もっと深く彼女を知りたかったと思っている。もっと互（たが）いに、分（わ）かり合（あ）いたい。そうやって一対（いちたい）一（いち）の関係を深（ふか）めていく行為（こうい）が、愛と呼ぶものなのかも知れなかった。

　今年も多くの新入生が来た。私は彼女達に、手を出さずに居（い）られるだろうか。校庭（こうてい）の桜（さくら）に目が行く。風で花弁（はなびら）が舞（ま）って、その一片（ひとひら）、一片（ひとひら）が可憐（かれん）な少女達のように見える。春の風は心地（ここち）よくて、陶然（とうぜん）と私は瞳（ひとみ）を閉（と）じた。