後編 わたしとおとうと
俺は雨が嫌いだ。気分が暗くなる。
女のアパートに行ってしけこんだ後、激しい雨音は通り過ぎ、シトシトという音を耳が拾う。
うっとうしい雨が去っていったのを感じて、帰り時だと思った。
「雨も止んだし帰るか、」
ゆっくり吸い込み味わい、それから溜息の様に吐き出した紫煙が昇って行く。
狭くて汚い古アパートだった。擦れた畳に敷いた薄い布団じゃ寝る気にもならない。横に転がりタバコを吹かしながら俺はそう言った。
「ええ~、泊まって行けば?」
汗ではりついた髪をかき上げて女は気だるそうに言った。それから洋服を身に着けていく。
冷蔵庫にはビールしかなく、辛うじて付いているエアコンはカタカタとおかしな音を立てて動いている。
俺が来た時にしか付けていないのだと女が笑って言ったのを思い出す。
「こんな狭くてなんもない所でやってらんねえよ。もっとマシな店紹介してやるから、稼いで来いよ」
この女とは行きつけの飲み屋で知り合った。顔立ちと身体が気に入った。だが、金は持っていない。それにアパートに来てみれば子連れで、面倒くさいと思った。俺は子供は嫌いだ。
だからこの間、家に居た子供たちを殴ってやったら、俺が来るのを察して逃げているようになった。それはそれで腹が立つ。鬱憤ばらしにもならない。
どうせならどこかに捨ててくればいいのにと思う。この女も知り合いの風俗に売ればそれなりの金を稼ぐだろう。俺は自分が楽してたのしけりゃそれで良い。世の中で悪い事とされる事はだいたいやって来たが、見た目が優男風なので女が寄ってくる。
服を着ようと、引き戸を開けて外に脱ぎ捨てていた服に目をやると信じがたいものが目に入った。
「あ゛あ゛っ!?」
「何よ?」
女が俺の大声に驚いてこちらを見た。
落ちていたズボンから出ていたパイソン柄の財布だ。それからはみ出していた札が無くなっていた。いつもぐしゃりと詰め込むので札がはみ出ているのを知っている。いつもはみ出ているのが当たり前なのだから、無ければ盗られたという事だ。
「こんのクソガキがあ!盗りやがったなぁ!」
俺は自分の物に手を出されるのが大嫌いだ。怒りが頂点に達して部屋の壁を握った拳で音を立てて殴った。
ここで、俺の財布に手を出す事が出来るのは、この家に出入りするガキしかいない。あんなとるに足らないガキに自分の物が盗られたと思うと脳が沸騰するような怒りを感じた。
見れば濡れた小さな水溜まりが入り口からここへと続いている。間違いない。あいつらにやられたのだ。
「殺してやる!どこ行った?オイっ、あのガキどもどこ行った?」
「はぁ?子供たちがそんな事するわけないじゃん、っギャッ」
間抜けな女の声にむかついた俺はその顔を一発殴った。そのまま髪を掴んで振り回す。
「あいつらどこだ?探して来い。絶対連れてこい!」
女をドアから外に叩き出し、足蹴にした。信じられない者を見るような目で俺を見上げて、殴られた顔を押さえながら這って入り口から手を伸ばし踵の擦り切れたパンプスを取ると、それを履いて足を引きずりながら何処かへ消えて行った。
今まであの女にはあまり暴力をふるった事はなかった。風俗に売るまでは逃げられるのも困る。
だが、腹が立ったのでキレてしまった。まあ仕方ない。務めている店は知っているし、また優しくしてやればまだ大丈夫だろう。俺は怒ると手がつけられないとよく言われるのでなるべく抑えるようにしているが、その反動で時々酷くキレてしまう。確か狂犬と呼ばれた頃があった。
ああいう女は男に依存するタイプだ。俺は見た目が悪くないので、女が直ぐに寄って来る。
そういう女に飴と鞭を使えばどんどん深みにハマって抜け出せなくなり甘い汁が吸える。
暫くして帰って来た女は、子供を連れていなかった。それどころかその夜から子供が帰ってこなかったのだ。
あの小さいガキたちが、行く当てもないのに消えるわけがない。何故だかとにかく気が済まない俺は、どこに隠れたのか教えろと何度も女をあれから殴った。すると口を割った。
もしかしたら田舎の母親の所に逃げたのかもしれないと。最近まで確かにあった実家の住所の紙が無くなっているのだと言った。その実家とは何年も連絡を取っていないのだとも言った。
俺は昔から、虫でも猫でも犬でも、コイツと決めたらとことん痛めつける癖があった。そうする事でアドレナリンが脳みそに分泌されて興奮し快楽を感じる。そういうのは麻薬の様に常習性を持つようだ。
あの生意気なガキどもをめちゃくちゃにしてやらなければ気が済まなかった。
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おばあちゃんの所に来て幾日か過ぎた。
暑くても、いっぱい蚊に刺されても、どんなに蝉の声がうるさくてもぜんぶ幸せだった。
夜は蚊取り線香の香りが漂う暗やみの中で、虫の音を聞きながらこうちゃんとおばあちゃんと並んで寝た。
そのまま、こうちゃんとおばあちゃんと三人でずっとそうして居たかった。
だけど、ある日、唐突にそれは終わる事になったのだ。
いつかの昼間に、おばあちゃんが慌てた様子で外の畑から家に戻って来た。
「二人とも、山に隠れているんだ。馬鹿どもがやって来た!」
尋常でないおばあちゃんの様子に、怖さを感じた私は、おばあちゃんに言われた通りにこうちゃんを連れて山に逃げた。
男の怒鳴り声と、おばあちゃんの声が聞こえたような気がする。
おばあちゃんは大丈夫だろうか?戻っておばあちゃんと一緒に逃げた方が良かったのじゃないだろうか?
「おねえちゃん、こわい」
こうちゃんがしがみ付いてきた。
「だいじょうぶ。二人いっしょだから安心してね」
こうちゃんの手を引きながら、おばあちゃんに教えて貰った道を辿る。赤いテープの付いた棒のある所を避けて通る。あっちこっちに棒があるから気を付けて避ける。
本当は私もとても怖かったけど、こうちゃんをこれ以上怖がらせたくなかったから、怖くないフリをした。
蔓延り生い茂る深い熊笹を掻き分ける。それからよく考えて見つからない様な良さそうな場所に二人で身を潜めた。震えるこうちゃんをぎゅっと抱きしめる。草いきれと山の土の香りに包まれた。
「だいじょうぶ、こうちゃんだいじょうぶだよ」
私のかわいい大切な弟。背中を何度も撫でた。もう、ひどい目に遇わせるものか。
必死でくっついて、こうちゃんが震えているのか、私が震えているのか分からなくなる。
蒸し暑い夏の日の筈なのに、冷たい汗をいく筋も這わせながら・・・
うるさいほどのクマゼミの鳴き声も何もかもが遠ざかって、シンとした真昼の切り離された繭の中に二人で閉じ込められたようだった。
どれだけ経ったのか、おばあちゃんの声がしたような気がした。優しい柔らかい大好きなおばあちゃんの声だった。
「もう、大丈夫だよ。よく頑張ったねえ」
その声にホッとして、固く閉じていた目を緩める。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、キィーーーッ
何故か電車の音が聞こえた気がした。
目を開けると病院のベッドの上だった。あわてて横のベッドを見ると、そこにはこうちゃんが寝ているのが見えて、急に安心するとそのまま気が遠くなっていった。
という記憶は、もう曖昧だ。だいぶ前の事で夢だったのかもしれない。そう思う事もあるくらいだ。
今、私達は成人して二人でアパート暮らしをしていた。
こうちゃんは自動車の部品を作る町工場。私はこの町ではわりと大きい仕出し弁当を作る会社で働いている。
仕出し弁当を作る作業の方は女の人の方が多いけど、事務や営業は男の人が多い。たまにお弁当が余ると貰えることもあるのは嬉しい。
高校を卒業してから就職して、今の所ずっとそこで働いているので、仕事にも慣れたし、同僚の人達とも距離感を上手く保ってやっている方だと思う。でもこの世の中でこうちゃん以外の人は誰も信じていない。
休みの日には近くの図書館に二人で行き、本を沢山借りて来る。一人十冊まで借りられるので嬉しい。
私もこうちゃんも、読書が大好きだった。
私たち姉弟は、親から逃げた日の夜に二人で乗ったJRの終点駅で保護されたらしい。
母親は行方不明で、どこにいるのか分からなかったそうだ。
それから行政の係の人が手続きしてくれたのか、児童養護施設に行くことになった。
なんとか二人とも高校にも行くことが出来た。その施設で18歳までお世話になった。
母親との生活を思えば、施設で不平不足もいう程でなかった。
それどころか、ご飯が毎日食べられて、寝られる場所があるという事は幸せだった。こうちゃんとも一緒だという事が嬉しかった。
就職した仕出し屋さんは寮があったので良かった。こうちゃんより一足先に就職して二人で暮らす準備が出来ると思えば寂しさも和らいだ。
彼が就職してから、会社で紹介して貰った格安アパートに二人で移り住んだ。料金のわりに綺麗だし、大家さんも優しかった。
こうちゃんは私と同じあの日の記憶を持っていた。おばあちゃんの家で食べたおいしい朝ごはんの記憶も同じだった。
でも、他の大人には黙っていた。二人であの時の事を話す時以外は、何も覚えていないという事にした。
他の誰もいわなくてもいいのだ。とても大切なおばあちゃんの家での優しい暮らしの大切な記憶。私達の宝物。それが極限状態で見た幻だったとしてもいい。
最近、警察から連絡が来て知ったのだけど、母親とあの男は祖母の住んでいた母の実家の残る山で何年も前に亡くなっていた。たぶん、私達が保護された頃だろう。
あの辺りの山の開発調査で白骨化した遺体が発見されたらしい。所持品から身元が分かったと言われたが事件性が無く、母の遺骨の引き取りの話が来たけど、断って処分してもらった。
あの夏の日、私とこうちゃんはおばあちゃんの家には行っていないらしい。
電車に乗って終点で保護された時には、二人とも電車の中で横になり熱を出して意識が無かったという。
そして、おばあちゃんはあの日よりも五年以上も前に亡くなっていて、会えるはずが無かったのだ。
残っていたのは藁葺き屋根の崩れかけた廃屋だけだという・・・
====================
私の就職先で、ある同僚の人が連絡なしの無断欠勤を続けた。困った同じ営業の部署の課長さんがアパートを見に行ったそうだ。
だけど部屋に居る気配は無く、連絡もつかず、その人の家族に連絡をとっても居場所がわからなかったそうだ。
結局そのままひと月位経過して家族が警察に捜索届けをだしたらしい。気の毒なようだけど、実は私はほっとしていた。
何故かというと、その人に以前、交際を申し込まれたのを断った事が原因で、暫く付きまとわれていたからだ。
私は弟以外誰も人を信じられないのに、勤め先が同じでも知らない人とはお付き合いとか無理だった。特に何か世話になったりした事もない。
私は会社の中でも若い方だから目立ったのかもしれない。ここでは独身の女性社員は少なく、アルバイトも中年女性が多かった。
弟に相談して遅くなる時には迎えに来てもらうようにして、勤務先でも一人にならない様に注意していた。幸い、弟の働く会社は残業が無く定時で帰れる会社だった。
仕出し弁当は、たまに大口の仕事が急に入る事があったので、遅くなることがあったのだ。
つきまといと言っても、弟と一緒に住んでいるし、仕事場と行きかえりの道で少し離れた場所で見かけたりする事が何度かあった程度だったし、休みの日でも買い物も弟と一緒に行動して貰っていたので危ない事もなかったから良かったと思っている。
そんな事も思い出す事も無くなった頃のこと。
そろそろ図書館に本の返却に行かないといけない事に気づいた。
こうちゃんは近くのスーパーに自転車で買い物に行ってくれている。帰って来たら一緒に本を返しに行こう。
姉思いのとても優しい子だ。性格も穏やかで年のわりに落ち着いていると思う。
静かな目をしていて、笑うと小さい頃のまま可愛さがある。
返却する本を布バッグに入れていると、こうちゃんの使っているカラーボックスの本棚にお尻が当たって上に乗っていた本が数冊下に落ちてしまった。
「あ、大切な本なのに、私ったら何やってるんだか」
こうちゃんが大切にしている村上春樹の本を拾いあげると、その間に挟まっていた紙がはらりと落ちた。
黄ばんで汚れた小さい紙きれだ。
「・・・・」
見てはいけないものを見たような気がして、紙をそっと挟みなおし元に戻した。
蓋をしてあった記憶にヒビが入り、パラパラと粉が舞った様な感覚があった。
あの日、冷蔵庫から剥がして取った紙きれに、似ていた。
その時、ドアに鍵が差し込まれ開いた音がする。
「ただいまぁ」
「あ、おかえり、こうちゃん」
弟の声に我に返って、返事をする。
「姉さんの好きなカスタード入りのたい焼き買って来たよ」
「ありがとう。お茶を淹れるね。あと、今日は本を返しに行かなくちゃ」
「ああ、うん。そうしよう」
何気ない日常の幸せがさっきの私の不安な気持ちを四散させてくれた。
そして嘘の様に溶けて消えた不安は、ニコニコと私を見て笑う弟を見た後、二度と浮上して来なかった。
夢幻領域 吉野屋桜子 @yoshinoya2019
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