夢幻領域

吉野屋桜子

前編 わたしとおとうと

 当時、ピンクレディーの曲が大流行り。小学校の教室や廊下でも真似をして歌ったり踊ったりと女子だけでなく男子まで楽しそうだったのを覚えている。


 家にはテレビもないので流行りの曲も良く知らない。皆のおしゃべりにもついていけない。

 楽しそうな光景も、自分たちには全く関係のない次元の世界なのだった。


 昭和52年、季節は夏の終わり、まとわりつくような暑さと、雨の日の記憶。その日も雨でそこらじゅうじめじめとしていた。子供ながらに汗の匂いが気になり、弟と二人で誰もいない夜の公園の水道を使い身体を洗うのも常だった。

 洗剤がないので汚れた服もただ水で洗うだけ。弱い握力で水を絞り家に持って帰って狭いベランダの古びた物干しに干す程度の事だ。


 ゴミ捨て場で拾って帰った錆びた椅子を置いていた。錆びた鉄の匂いと変色した鉄の粉が手についた記憶。

手をこすってもしつこく残る臭いの残滓。


 洗濯物を物干し竿に干すには身長が足りず、目についた粗大ごみの山の中から探し出した逸品。時折、ギシリと軋む音がした。


 家の水道を使えば、母親から殴られる。そんな日常だった。優しかった母の記憶は薄れ、顔を歪ませ私と弟を怒鳴る面へと記憶が塗り替えられるのは早かったと思う。


 今日は雨降り。小学校が終わると二人で母親と一緒に住んでいるアパートの近くにある橋の下で雨宿りをしている。家には帰りたくても帰れない理由があった。


「おねえちゃん。おうちにかえりたくない」


「そうだね、帰ったらあいつがまた家にいるかもしれないし」


 最近、母親が新しい男をつれて来た。


 そいつは暴力をふるう悪い男だった。最近はいつも夕方になると家に来るようになってしまった。大きくなってから知ったけど、『ヒモ』と呼ばれるような種類の男だったようだ。


 二日前に目が合っただけで弟が暴力をふるわれた。助けようとした私も張り飛ばされた。


 何かしたわけでもないのに、顔を見ただけでもうっぷん晴らしに殴ってくるのだ。


 あいつがいるときにはアパートに近づかない方が安全だという事は分かり切っていたが、他に住む場所もない。


 弟はあれから足を引きずっている。学校で保健室に連れていって、先生にしっぷをしてもらった。替えのしっぷだと言って先生は袋に入れて持たせてくれた。私の顔の青あざを見て痛ましそうに眼を伏せる。


「しっぷの事は誰にも内緒よ学校で貰った事は言わないでね」


「はい、わかりました」


 私がそう返事をすると、先生は悲しそうな顔で少し笑った。


 保険の先生は他の人に比べればかなり優しかった。


「ごめんね、このくらいの事しかしてあげられなくて」


 だれも助けてはくれない。そんな事はわかっている。近所の大人だって誰も助けてくれない。


 



 私達姉弟は、母親に放置されているので着るものも身体も汚かった。学校でも誰も近くに寄ってこない。父親の事はよく分からない。弟が生まれた位から家に寄り付かなかったようだ。


 まともにご飯を食べられるのは小学校に行く日だけだ。だからどうしても生きるために学校へ行かなくてはいけない。子供ながらにそのことだけは分かっていた。姉弟二人で身を寄せ合ってなんとか生きている。一人だったらどうなっていたか分からない。二人だから生きていられた。


 母親が給食費を払っていないのは知っていたけど、食べ物が貰えないと生きていけない。



 そんな私達を学校は見て見ぬふりをしていた。まともでない私達の母親と話をしようとしても無駄だからだ。この時代はそんな世の中だった。


 明日は土曜日、あさっては日曜日。こっそりとどこかのゴミを漁るしかないかもしれない。


 何か食べ物を貰える所を探さないといけない。


 時々パン屋さんに行くとパン屋のおばあさんがパンの耳を袋に入れて渡してくれたけど、もう死んじゃったらしい。


 いつも『可哀そうにねえ』と言ってはこっそり裏口からパンの耳の入った袋をくれていた。


 やさしいおばあさんだった。



 でも、ある日、私達を見て出て来たのは知らない女の人で、


「お客が嫌がるからもう来ないでくれ」


 と言って手を振った。まるでハエか何かを追い払うような感じで。


 だからもうパンの耳を貰いに行けない。美味しかったのにな、パンの耳。



 ああ、雨が強くなってきた。


 私と弟は、どうしてこんなに幸せじゃないんだろう。


 日が暮れると、よその家の近くからは夕ご飯のいい匂いがする。暗くなると暖かい光が灯る家がうらやましい。



 今は夏なので蚊やブヨに刺されてかゆいけど、外でも二人で身を寄せて寝る事が出来る。


 でも冬になったらどうだろう。どうしたらいいのか小学生の私には思いつく事が出来ななかった。


「おねえちゃん、おばあちゃんのところに行こう」


 弟が突然そう言った。


 この、おばあちゃんというのは、母親のお母さんだ。私では考えもつかなかったことをこうちゃんが教えてくれた。遠い知らない場所で、お金も持っていないのだから行けるはずないと思い込んでいたのだから。弟の言葉にはっとした。


 だいぶ前に母親に連れられて遠い田舎に行った事がある。山の中の一軒家という感じの少し遠い所だった。どうして弟がおばあちゃんの事をおぼえているのかとも思ったけど。だっておばあちゃんの所に弟が行った事はないんじゃないかな?

もしかすると、小さいときにまだ今より母親らしかったおかあさんから何か聞いた事があったのかも知れない。


 私の記憶の中のおばあちゃんは、ごはんをいっぱい食べさせてくれて、


『またおいで』


 と言ってくれたのを覚えている。それはまだ母親が優しかった頃だ。


 お母さんと呼ぶ私の声には甘い幸せな響きが混じっていたし確かに一緒にいる事が幸せだったのだから。


 今は、そんなことない。しねばいいのにって、いつも思っている。


 『いやなやつらは、みんなしんじゃえばいいのに・・・』


 大人の暴力や眼差しが怖い。そして、それを上回る憎しみが私の心を取り巻いて行った。


 どこかで弟と二人、痛い目やお腹が減るような目に遇わずに暮らせていけますように。


 心の中ではいつも繰り返し念じていた。


 人は追いつめられると、自分より幸せそうに見える人までも自分のような不幸に陥れてやりたくなるものなのだと、幼くして体感的に知った。不公平だと、この当時知らない言葉だったけど、むかむかとどこからともなく登ってくるどす黒い気持ちの正体はそれだった。



 田舎での幸せな記憶は、数少ない私の中の優しい記憶だ。


 遠い場所だったけど、確かその住所は家の古い冷蔵庫に母親が磁石で留めていたのを知っていた。母親はその古い紙きれの存在もわすれているのかもしれない。


 いつも冷蔵庫には食べ物はなく、あの男用に母親が入れているビールの瓶が二本あるだけ。



 おばあちゃんの家の場所がわかる紙を持って行って、JRのおじさんに聞いたらわかるかもしれない。でもお金をどうしよう。


 そうだ、お金は、あいつが家に来ると、脱いだズボンと一緒に投げている財布に入っている。


 いつも家に来て服を脱ぐと母親と奥の部屋に入って暫く出てはこない。私達はそのたびに外に追い出される。


「おばあちゃんの住所と、お金を取りに帰ろう。見つかったら殺されるかもしれないから、こうちゃんはここで待ってて」


 私は弟にそう言った。弟は男に酷い目にあった時から具合が悪そうだったのだ。


「え、僕もいっしょにいく」


 不安そうにこうちゃんは声を震わせた。


「だめ。もし見つかったら殺されるかもしれない。こうちゃんは足をケガしてるからここで待ってて。わたしが必ずとってくるから、おねえちゃんはいつも嘘は言わないでしょ?」


「う、うん」


 弟は涙ぐみながら、頷いた。そうだ、嘘ばかりつく母親とは違うんだ。私がこうちゃんを守らないと!弟の悲しみや痛みは全部私のものだったし、弟もそうだと思っている。私がいなければ弟もどうなるかわからない。


「絶対、すぐにむかえに来てね」


「わかった」


 力強く頷くと私はザーザーと降り出した雨の中に走り出した。


 アパートに着くと雨を払いこっそり玄関のドアを開ける。汚くて狭いコンクリートの床には水だまりが出来る。


 やつぱり男が来ていた。大きくて汚い靴があっちこっちを向いて投げ出されている。


 そっと土足のまま部屋にあがり短い廊下を伺うと、脱ぎ散らかった服が見えた。蛇のうろこみないな模様の財布も見える。


 はみ出ている紙のお金だけを抜いて、冷蔵庫に行き、おばあちゃんの住所が書かれた紙を剥がした。


 奥の壁がドンと鳴って、身体がビクッとしたけど、いつもの様に二人の変な声が聞こえて、気づかれない様にそっと玄関まで戻った。


 人のお金を盗むのは悪い事だ。そんなの分かっている。でもどうしようもない。


 玄関に引っかけていた古い学校用の手提げ袋に変色した乾いたタオルを三枚突っ込み、弟のいる橋の下へと急いだ。


「おねえちゃん!」


 弟が飛びついて来た。


「こうちゃん、やったよ。おばあちゃんの家に行こう!」


「うん!」








 あれから30分以上歩いてJRの駅に行った。改札のところにいるおじさんに住所を見せて切符をどう買うのか教えてもらった。駅の『きよすく』でおにぎりとゆで卵、菓子パンとお茶を買った。どうにもお腹が空いていたのだ。


 もう暗くなっていたけど、「一時間位でその駅に着くから、そこからタクシーに乗ったらいいよ」と教えてもらった。


 おばあちゃんの家に行くのだというと、私達の身なりや様子を見て何か思ったのか、とても親切に教えてくれたJRのおじさんは、駅の事務所に入って戻ってくると、お菓子の入った袋をくれた。


「これでも食べて、気を付けて行くんだよ」


「うん、おじさん、ありがとう」


 雨に濡れていた弟の身体と頭をタオルで拭いてやり、自分の身体も拭いた。濡れているけど暑いからすぐ乾きそうだ。


 ガタンゴトンと揺れる電車と扇風機が回り生暖かい風が吹く中、弟がうつらうつらとしはじめた。


 駅につくまで眠ったらだめだと思い気を張っていたけど、いつの間にか私も眠っていたようだ。


 「お嬢ちゃん、駅についたよ」


 車掌さんが目の前に立っていた。どうやらあのJRのおじさんが、車掌さんに降りる駅を伝えてくれていたようだった。


 弟と二人でお礼を言って駅に降りると、小さい駅だけどちゃんとタクシーが降り口に停まっていた。


 住所の紙を見せて、残りのお札を見せ、これで足りるか聞くと。


「ああ、〇〇さんの家だね。大丈夫足りるよ」


 タクシーの運転手さんはそう言った。白髪のやさしそうなおじいさんだった。


「おねえちゃんよかったね」


「うん、よかった」


 とてもほっとした。こんなに簡単におばあちゃんの所に行けるのなら、もっと早く行けばよかった。


 弟が痛そうにしている足をみながらそう思った。


 それから、やっぱり眠くなって二人でいつの間にか寝ていたようだ。


 運転手さんに起こされて目を開けると、暗闇の中明かりの灯る藁ぶき屋根の家があった。


「おばあちゃんちだ!」


 弟が喜んで声を出した。


 お金を払ってタクシーを降りると、車の音に気付いたおばあちゃんが外に出てきた。


「おやまあ、えみちゃんとこうちゃんだね!どうしたんだい?」


 おばあちゃんはびっくりしていた。


 

 家に入り、お風呂に入り、母親が子供の頃に着ていた古着を出してもらい着替えた。


 そして、疲れていたので布団を敷いてもらうと直ぐに寝てしまったのだった。


 朝起きるとおばあちゃんは朝ごはんを食べさせてくれた。


 温かいおみそ汁と里芋の煮物。ひじきの佃煮。目玉焼き。美味しかった。こうちゃんはご飯をお代わりした。


「二人ともここで暮らしたらいいからね」


 その時はなんとも思わなかったけど、おばあちゃんは学校の事もなんにも言わなかった。でもそれで良かった。


 おばあちゃんは何故か他の事も何も聞かなかったけど、そう言ってくれたのでそれで良かった。安心したら涙がこぼれていて、それをおばあちゃんがきれいなタオルで拭いてくれた。


 おばあちゃんの家の周りは山で囲まれている。こうちゃんと二人で探検すると言うと、おばあちゃんがまずは三人ですぐ近くにあるシイタケを取りに行こうと言ってくれたのでそうすることにした。


 シイタケのがヒノキの影に並べられている。籠を手に持って山の中に入る時におばあちゃんが言った。


「ほら地面を見てごらん。草や木に隠れて見えにくいけどヒノキ林に行くまでには沢山穴が開いているところがある。中には深い穴があるんだよ」


「おばあちゃん、どうして穴があるの?」


「山の中には水が流れていて、長い時間をかけて水が通った場所にはだんだん地下に空洞が出来て、そのうちに穴になっちまうんだよ」


 私が聞くとおばあちゃんはそう教えてくれた。


「危ないね」


「そうだよ。だから穴がある所には赤いテープを巻いた棒を立てているからね。そこは通っちゃだめだ」


 確かに、気を付けて見てみると所々にそんな棒が立っている。ちょっと見ただけでは分からないけど。


「分かった、気を付けるね」


 私が返事をすると、こうちゃんもうんうんと頷いた。おばあちゃんの家の暮らしは幸せだった。ずっとここで三人で暮らしていけたらいいと願う程に。

 

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