海の記憶

真花

海の記憶


 一


 メキシコ湾の漁村を背に、ホセは海を見ていた。日焼けした肌に刻まれているのは皺と傷、麦わら帽子の角度を直す。海はいつものように穏やかな水平線を描き、波は形を変えながら行き来を繰り返している。太陽が高い。普段ならとっくに漁に出ている時間だ。海鳥が声もなく視界を横切った。ホセはもっと遠くの海を見ようと目を凝らした。

「おじいちゃん、もう行くよ」

 ホセは振り向かない。横に立つホルヘが急いているのが分かる。

「俺はここで死ぬ」

 ホルヘよりも海に宣言するようにホセは言い捨てた。

「本当に死んじゃうんだから、ダメだよ、僕のためと思って一緒に来てよ」

「俺は漁しか知らない男だ。海から離れてどうしろと言うんだ」

「せめてマスクをして」

 ホルヘから手渡されたマスクをホセはじっと見て、どうせ同じなのに、と思う。ホルヘを見るとマスクをしていた。「分かった」とホセは言ってマスクを付ける。ホルヘは早くこの場所を離れたいのだろう、腰が座らない気配がする。人生がこれからの子供にとってはこの場所にいる危険が俺よりも大きい、ホセは思う、ずっとここにいさせてホルヘがダメになってしまったら、それは悲しい。

「ここにいることが怖いか?」

「当たり前じゃないか。避難指示が出ているんだよ。あとはおじいちゃんだけだよ。早く行こう」

「俺は怖くない」

「だけど」

「でも、お前のために付いて行くよ。さあ、出よう」

 ホセは立ち上がる。高い背の影がくっきりと浮かぶ。ホルヘは頷いて先導する。ホセは後で戻って来ることにした。俺は海と生きて海と死ぬ以外にない。ホルヘを巻き込みたくないから今は一旦引くが、俺の意志を止められるものなんていない、ホセはそう思いながらホルヘの後を付いて村の中央広場まで行った。ホセの家族がバスに乗っているのが見えた。他の一家もいる。どの家族も漁師だ。誰もが村から離れることに葛藤があるのだろう。ここから見えるどの顔も沈痛な色をしている。

「荷物はお母さんがまとめてくれたから大丈夫だから」

「そうか」

 バスの乗降口に見知らぬ男性が立っている。運転手かな。近付くと表情なく声をかけて来た。

「バスに乗って。もうじきに出発するよ」

 ホセはホルヘの隣の席に座った。あちこちの席でそれぞれの家族が何かを話している。

「ホルヘ、俺は漁師だ」

「分かってる。世界で一番の漁師だってことも」

「お前はヘミングウェイの『老人と海』を読んだことがあるか?」

「ない。だけどタイトルは知ってる」

「老いた漁師が大物の魚を捕まえて、帰り道にサメにその魚を全部喰われちまって、港に着いたときには骨になってるって話なんだが、俺はあの小説が大好きなんだ」

「どうして?」

「あの話はキューバが舞台だってことになっているけど、きっと本当はうちの村が舞台なんだ。それで、俺もいつかそんな漁をしたいと思っていた」

「食べられちゃったら意味ないじゃん」

「俺は食べさせない。俺ならな。何せ」

「世界一の漁師だから」

「そうだ」

 ホセは口元だけ笑う。

「僕はもう漁師にはなれない。僕だって、すごい漁をすることが夢だったんだよ。学校の他の子達はサッカー選手になるとか先生になるとか言っていたけど、僕は漁師になりたかった。でも、もう叶わない」

「本当にもう海には行けないのかな」

「いつか誰かが治してくれるかも知れない。そうしたらまた海に出られる。でも、いつになるのか分からない」

「気にせずに行っちゃダメかな」

「ダメだよ。おじいちゃん、まさか戻ることを考えてないよね? 絶対戻っちゃダメだからね」

 真っ直ぐに見詰めるホルヘの瞳に嘘は欠片もなく、幼さが持つ純真さにホセは、困ったな、と思う。だが、きれいな嘘をつくことは老獪さの一つだと自らを納得させる。

「戻らないよ。大丈夫。俺だって頭がおかしくはなりたくない」

 ホルヘはホッとした顔をする。

 バスが出発する。二人は話を切り上げて、窓の外の村を見る。もう二度とここに戻って来ることはない。人生の多くを過ごした村。海ほどではない。啜り泣く声がいくつか聞こえる。ホセは泣かなかった。ホルヘも泣かなかった。バスは村を出て、別の村を通過した。その村も捨てられていた。海に近いと言う判断なのだろう。二つ目の村は変わった様子はなかったが通過した。近隣の村で生活することになると予測していたが外れた。一番近くの街までバスは走った。中くらいの大きさのホテルに全員が宿泊することになった。その際に政府の役人と名乗る男から説明があった。

「緊急のことなので、移住先を決めるまでの間はこのホテルで生活して下さい。ホテル代は国が持ちます。朝と晩の食事は出ます。それ以外のルームサービスなどは自腹になります。移住先の選定が済んだ時点で順次移住して頂きます」

 ホセの部屋はシングルだった。他の家族は大体二人部屋だった。日中に特にやることもないのでテレビばかり見ていたが、どの局も海が危険な場所になったことについての報道で持ち切りだった。曰く、影響を受けたのは十億人とも二十億人ともなり、株価はとんでもないことになり、この事態を起こしたのがたった一人の人間だと言う。

「お前の釣った魚は確かにでかいな。でも人をおかしくするものなんて価値はない。俺が釣る魚は人の腹を満たすんだ。どっちが偉いかは明白だろう」

 テレビに言い放ってから、ホセは魚を釣りに行くことに決めた。朝食を終えると、外に出るとホルヘに言い残してタクシーで自分の村まで行こうとした。だがタクシーの運転手が海を恐れて一つ前の村までしか運転しなかったので、そこからは村にあった自転車を漕いで行った。思った程の時間はかからなかったが、全く人間のいない村は不気味だった。自分の村も同じことになっていた。ホセは数日前に海を見ていた場所に陣取った。目に映る海は見慣れたものだった。ここが人をおかしくする場所に変性していると言うことが信じられない。だが、言われてみればおかしくなって漁に出られなくなった奴が何人もいた。俺もそうなるのだろうか。ホセは思いながら、鋭い笑みを浮かべる。だとしても、海のために死ぬなら本望だ。

「『老人と海』より大物を釣ってみせる」

 ホセは餌を取りに行き、漁船にガソリンを満たし、食料を十分に積んで、出発した。

 海には他に誰もいなかった。沖に向かって進んで行く。太陽が殴るように照り付ける。

 順調な航海だった。大物は釣れなかったが、獲物を得て帰港することが出来た。

 毎日、漁をして生きた。これまでと同じに。

 物忘れが出て、急速に進行した。なるほどこれがそうか。ホセは思うのだけどその思ったことを覚えていられなくて、また同じことを思う。それでも体に染み付いた漁の仕方は忘れない。毎日海に出る。

 ついに、操舵の仕方が思い出せなくなった。それは海の上でのことだった。同時に漁の仕方も分からなくなる。自分が今いるところが船の上であることは辛うじて分かる。つまりこのまま干からびるしかないのだと言うことも分かる。ホセは甲板に仰向けに寝転がる。

「俺は漁師として生きて、漁師として死ぬ。だから幸せだ」

 太陽が浮かんでいる。鳥が飛んでいる。あとは真っ青な空。

 ホセは漁をする夢を見た。何度だって漁をした。その永遠のループのまま、ホセは息絶えた。

 船はホセを、今も漁をしているホセを乗せて、海に浮かび続ける。



 二


 空の下縁に桜が芽吹こうとしていた。薄いピンクを遠ざけるように八重子やえこは空の高いところを見ようとしていた。だが、窓から見える空には限界があった。八重子は窓にグッと近付いて、もっと高い空を覗こうとする。窓に触れたところが冷たい。隔てられているのに、春の匂いが伝わって来る気がして、すん、と息を吸った。

徳山とくやまさん、どうぞ」

 飯島いいじま先生の声がして振り返る。ホールには他にも五組の家族が待っていて、単独で来ているのは八重子だけだった。通された小部屋、シャーカッセンに脳のMRIが貼り付けられている。先生の前に座る。

「旦那さんの病状を説明します」

 八重子は「はい」と返事をする。声は震えていた。世界情勢の中、違う病名が告げられるとはとても思えなかった。それでも知らなくてはならない。これからどうするかを決めるためには、知らなくてはならない。

「診断は、海岸認知症です。今世界中で爆発的に罹患者が出ているのでご存じだとは思いますが、旦那さんもそう診断しました」

 やはり。八重子は目を瞑る。胸の中に既に作られていた場所に、海岸認知症を置く。ひと呼吸、馴染むのを待ってから目を開ける。先生はしっかりとした顔をしている。まるで、八重子が崩れることを押し止める役割を負っているのは自分だと構えているかのようだ。

「普通の認知症とどう違うんですか?」

 先生は顔に力を入れてから言葉を発した。

「症状が出始めてから進む速度が全く違います。とにかく早いです。同じように早い経過を辿る認知症も他にもありますが、画像や脳波などの検査で鑑別が可能です。海岸認知症は早いと、数週間で末期的な認知症状態になります。旦那さんの場合は半年でした。次に、罹患する場所。名前の通り、海岸に接していなければ罹患しません。剖検をした場合には脳にシーショアプロテインと言うタンパク質が沈着しています。でもこれは死後にしか見ることは出来ません。出る症状はアルツハイマー型認知症とほぼ同じです」

 先生は要所で手を縦に振って、空間に言葉を留めるような動きをする。

「どう、なるんでしょう」

「旦那さんはすでに末期的な状態です。遠からず食べることも出来なくなるでしょう。……徳山さん。今日一番話をしたかったのはここです。延命処置を希望されますか?」

「延命、ですか」

「具体的には、一つ目が、鼻から管を入れたり、中心静脈カテーテルと言う太い点滴を首や足の付け根から入れたりして、栄養を強制的に入れるかどうかです。次に、今後、急に心臓が止まったりしたときに、この病院で出来る範囲の処置にするか、救急病院に搬送するか。こっちはですね、心臓が停止している状態で見付かった時点で救命は現実的じゃありません。三つ目が、その状態で心臓マッサージや気管内挿管と言う呼吸のためのチューブを入れるとか、そう言う現場での処置を希望されるかです。それぞれ、自然に任せると言う方法もありますし、そちらを選ばれる方は多いです。もちろん、チューブを入れなくても、そのときに可能な処置はします。どうでしょうか?」

「夫はかねてから延命はやめてくれと言っていました。だから、その三つとも、自然に任せて下さい」

「分かりました。では、その旨のところに丸を付けて、サインをお願いします」

 出された紙に八重子は記入する。

「ありがとうございます」

「どれくらい生きますでしょうか?」

「正確には分からないですが、一ヶ月程だと思います」

「そうですか」

 八重子の声がブイを押し込んだように沈む。

「会って行かれますか?」

「はい。……うつらないんですよね?」

「それは大丈夫です。ですが、逆に外から別の感染症を持ち込むことを防止するために、マスクは付けて下さい」


 八重子は夫のベッドサイドに通された。

「徳山さん、奥さんですよ」

 先生が八重子の夫にかけた声に、夫は不思議な形の雲でも見たかのような焦点の定まらない顔をする。

「ああ」

 八重子が夫の顔の近くに座ると、先生は、私はこれで、と去って行った。部屋は六人部屋でカーテンで仕切られている。空気が生暖かくて微かに糞尿の匂いが混じっている。

良介りょうすけ、八重子よ。分かる? 分かるでしょう?」

「ああ」

 良介の返事には何の感情も込もっていない。八重子の声は手応えなく通過して行く。良介の瞳は濁り、表情を作るべき筋肉が機能を果たしていないように見える。ベッドから起き上がることも、八重子の顔を見ることもなく、ただ転がっている。投げかけられた声に曖昧に反応をするばかり。

「ここでがんばっているのね」

 良介は応えない。八重子は良介の手を握る。八重子が知っている手よりも一回り大きかった。むくんでいる。握り返しては来ない。

「外では桜が咲き始めているのよ。良介も好きだった、毎年花見に行ったね。大体いつも混んでいて大変だったけど」

「ああ」

「さっき、延命処置はしないって紙にサインしたわ。良介もいつもそうするべきだって、延命なんて人間のすることじゃないって、言っていたから。生き物としてちゃんと死にたいって言っていたから。……でも、流行り病で死ぬのって、寿命なのかな。私には分からないよ」

 良介は天井の方に何かを見付けたように視線を泳がせる。その緩んだ瞳が、急にはっきりする。それは半年前までの良介の顔だった。咄嗟に八重子の口から「良介」と声が漏れる。

「私よ、八重子よ」

 良介が八重子の目を見る。

「八重子」

「気が付いたのね」

 八重子の手に力が込もる。良介はゆっくりと一回瞬きをする。

「八重子。俺はもうダメだ。延命はいらない。愛してる」

 もう一度瞬きをした良介の眼はまた弛緩したものに戻っていた。呼びかけても、何をしても、良介は戻って来ない。八重子は手を離した。

「良介。さようなら」

 八重子はその場を離れた。これから何度、良介のところに通おうとも二度と良介と会えることはないと確信していた。ナースステーションに寄り、帰ることを伝えた。看護師はにこやかに対応した。絶望が腐って落ちることを待つだけのこの場所だから、笑顔が必要なのだろうと八重子は思ったが、自分の表情を同じように作ることは出来なかった。

 駐車場で車に乗り、かつては良介が運転をしていた席で声を上げて泣いた。



 三


 玄関が開く音に龍之介りゅうのすけが反応する。佐知子さちこの腕の中からするりと降りて、ダイニングを出て行く。佐知子も龍之介の後に付いて玄関に向かう。実家を出ても戻ってくれば景色はいつもと変わらない。それは懐かしさよりも繋がりを佐知子に感じさせた。だが、龍之介にとっては知らない家で、何度会っていても両親に馴染むまでに一時間はかかる。人見知りのくせに来訪者が来ると確かめたがる。

 玄関には叔父が立っていた。恐る恐る近付こうとしつつ、離れようともする龍之介を見て微笑みながら靴を脱いでいた。佐知子が来たことを察知して、龍之介は撤退を決め、佐知子はひょいと抱き上げる。叔父がコートを脱ぐ、ずいぶん痩せた。体のどこかに悪いものでもあるのかも知れない。だけどそんなことを佐知子は訊けない。どこまでも本音で語り合う部分と、永遠に触れない部分の両方がどの関係にあってもいいと佐知子は思う。叔父が微笑みを佐知子に向ける。

「龍之介は大きくなったね。何歳だっけ?」

「二歳になったよ。龍之介、覚えてる? 直春なおはる叔父さんだよ」

「なおはる?」

 龍之介はじっと直春を覗く。

「まあ、覚えてなくても仕方ないよ。小さかったからね。こんなだった」

 直春は両手で二十センチくらいの幅を作る。佐知子が笑って、そんなちっちゃくないよ、と言うのを、龍之介は黙って聞いていた。

「そりゃそうか」

 直春はダイニングに向かい、佐知子も倣う。テーブルに就く。いつも同じ席に座る。佐知子の脳裏に五年前にこの場所で、直春と話したことが過ぎる。だが、今はもう思い出す必要もないことだから、違うことを考えようと訂正する。直春も同じなのだろうか、黙っている。付けっ放しのテレビからニュースが流れている。

『海岸認知症の患者数は国内で十万人を突破し、なお増加の一途を辿っています。しかし、沿岸部だけの発症であるために、内陸部ではこれまでと同じように初詣が各地でされています。各地の神社、お寺の様子を中継でお繋ぎします』

 画面が切り替わって知らない神社に人が大量に並んでいる様子が映される。それは例年と同じだし、もしかしたらそれ以上の賑わいかも知れない。佐知子達が毎年初詣をする神田明神もきっと同じくらい盛況なのだろう。去年もそうだったが、幼い子供を連れて混み合う初詣に行くことに佐知子は気持ちが沈むことを抑えられなかった。商売をやっているのは実家であって佐知子ではないのだから、わざわざ人混みの激しい日を選ばなくてもいいのではないか。佐知子の憂鬱と考えが小さな吐息になって漏れる。

「佐知子は、海岸認知症、どう思う?」

 直春がテレビを見ながらまるで独り言のように言った。

「怖いよ。もう海には近付けない。でも、海にさえ行かなければ何の影響もないから、対策出来るところは怖くない」

「人類から海が奪われた、のかな」

「どうだろう。物流の人達は防護服着てやってるみたいだし、完全防備で海を見に行くツアーとかもあるよ。不謹慎だけど」

「それは特殊な例だよ。殆どの人からは海はもう関係のないところになった」

「そうだね。新しい時代になったのは間違いないと思う。忌まわしい変化だけど」

「どうして海岸認知症になるか、知ってる?」

「テレビとネットの知識だけど、突如謎のタンパク質が海で発生して、それを吸い込み続けると発症するってあったよ。どうして?」

 龍之介が床に降りる。うろうろ歩く。

「つまり天災だと言うことだよね。……もしこれが人災だったらって考えたことはある? 俺はある」

「前のパンデミックのときも陰謀説に近い、そういう噂はあったよね。今回もある。でもあまり信憑性はないかな。流石に規模が大き過ぎる。あったとしてもどっかの国の研究機関が作ったくらいかな」

「そうだね。それくらいのことが起きている。くれぐれも佐知子は海に行かないように。……龍之介は『海を知らない世代』になるんだね」

 テレビからはCMが流れている。何かを買えだの、これはいいだの、もしくは社名の連呼と言った美しさに乏しいものばかりだが、大震災のときにはCMすら流れなかったことを考えると、今回の災害がこの国にとって部分的である証明のようだと、佐知子は思った。祖母がダイニングに来て、両親と兄が降りて来て、主に直春と挨拶をする。二台の車に別れて乗って、神田明神に向かう。佐知子は兄の運転する車に直春と龍之介と乗った。

 兄が直春に話しかける。

「調子はどうですか?」

「絶好調だよ。俊春としはるはどうだい?」

「体調はいいですけど、商売の方は低空飛行ですよ。まぁ、墜落していないだけいいですけど」

 佐知子が割って入る。

「恋愛でいいことあったって、ママから聞いたよ」

「あー。うん。いい人見付けたよ。来年には一緒に初詣に行けると思う」

 直春は手を叩く。

「それは今年一番の朗報じゃないか」

「今年は始まったばっかりですよ」

「二人ともベタ過ぎ」

 佐知子の一言に一同笑う。龍之介がポカンとしている。

 例年車を停める穴場の駐車場に到着して、十分程歩いたら神田明神がある。長蛇の列の尻尾にくっつくように並ぶ。じっくりと信心を試すような速度で列は進み、だけどちゃんと進み、ついに参拝する。佐知子は龍之介の安全と健康、自分の同じものを願った。願いごとは煮詰まれば欲の塊だ。欲には二種類あって、自分の力が届くものと届かないもの。何十年も神頼みをしていれば自然と、力の届かないものを願うようになる。つまり、確率的な不幸の回避だ。手を合わせながらそこまで考えて、佐知子は、今の考えはなしでお願いします、と参拝をしめた。目を開けてから、世界の安定と平和、海のタンパク質がなくなることを願わなかったことに気付いた。

 全員の参拝が終わって、お守りや破魔矢、お札を買いにまた並ぶ。さっき程ではない。買い揃えたら、踵を返して自宅に戻る。おせちを食べる。皆酒を飲むが、佐知子と直春だけは飲まなかった。近況の報告もろくにせず、他愛のない話が延々と続く。佐知子はこの弛緩し切った時間が苦手だった。きっと直春もそうなのだろう。二人だけどこか座りの悪い顔をしている。酔った皆はお構いなしに喋り、食べる。静かにおせちを口に運んでいた直春がすっと立ち上がる。

「俺はそろそろ帰るよ」

 祖母が「もっとゆっくりしていけばいいのに」と言う。

「やらなきゃいけないことがあるから」

「正月なのに?」

「色々忙しいんだよ。でも、ここに今日来れて皆と話せてよかった」

 玄関には佐知子と龍之介だけが見送りに行った。コートを羽織る直春に佐知子が声をかける。

「私は遺せたよ」

 佐知子は龍之介の頭を撫でる。龍之介は直春を見ている。

「俺はもうちょっとかな。結果はきっと分かるようにするよ」

「じゃあ、またね」

「またね。龍之介もまたね」

「バイバイ」と龍之介は小さな掌を振る。

 直春は出て行った。佐知子達は皆のいる場所、家族の正月に戻った。



 四


 自宅に戻った直春はきれいに片付いた部屋を一回りして、机の引き出しを開けた。そこを開けたことに思い当たる理由はなかった。だが、開けてみて、呼ばれたのだと言うことに気が付く。自らの遺すことを完遂させるための明日を前に、もう一度出会っておくべきものがそこには入っていた。――佐知子からの手紙だ。

 直春は机に就いて、手紙を手に取る。消印には四年前の日付が押されていた。便箋を広げると、角の強い文字が並んでいる。


『直春おじさん


 ご無沙汰しています。

 一年前に話した話を覚えていますか? 当然覚えていると思います。私にとって大事な問題であるのと同じだけ、おじさんにとっても大事な問題だと思うから。

 私を取り巻く環境は一年間で殆ど変わっていません。きっと受動的では環境は変わらない。もし変わるときが来るとすればそれは事件とか事故なのだと思います。つまり、自分で事件を起こさなくてはいけないのです。

 外から来る事件との一番の違いは、自分が何を起こしたいかを選べることだと思います。

 私は看護師の仕事には満足しています。日常生活にも満足しています。

 あの日と欲しいものは変わっていません。一年間行動に移さなかったのは、まだ自分のどこかに外から事件のように幸運が舞い込むんじゃないかと期待していたところがあったからだと思います。でもそんなことは起きませんでした。あと、日常生活に追われて、一番の欲望から目を逸らしていたと言うこともあります。でもそれ以上に、欲望が十分に育っていなかったと言うこともあると思います。一年前のあの日の時点で、自分としては十分に切迫していたと感じていたのですが、一年経ってみるとそれ以上の脈動を感じます。

 私は自分を遺したい。その方法は生物学的にです。

 要するに子供を産みたい。

 あの日と変わっていません。

 他の方法も熟慮しましたが、私が、私の欲望が望んでいるのは、生物学的な遺し方です。

 生き物としての本能に支配されているだけかも知れません。でも、私は別に人間が本能から解き放たれることこそが優秀だとは思っていません。食欲を満たす喜びが何かに劣るとは思いません。

 余談ですが、今私は認知症病棟で勤務しています。ずっと、人間はボケると本能だけになるのだと思っていましたが、実際は本能の行動すら分からなくなります。その現実を目の当たりにしたときの戦慄は忘れられません。このことからも、私は本能が生き物として最底辺にあるものではないと思っています。

 私は子供が産みたい。

 たとえそれが本能の命令だとしても、産みたい。

 今日筆を取ったのはきっと、おじさんにこそこの決意を再び知って欲しかったからだと思います。

 産んでそれでおしまいではないことは考えます。子供に父親がいた方がいいだろうと思いますし、その方が育児もしやすいと思います。両親はとても頼れません。兄が主になっているとは言え、家業の煎餅屋を回すのには両親の力は必要不可欠だからです。だから、夫になる人がいたらいいなとは思います。でもとても打算的な動機だから、なってくれる人が現れるかは分かりません。

 夫になる人を待っていたら、時間ばかりが過ぎてしまうかも知れません。

 それよりは妊娠をすることの現実性を取ります。

 おじさん、私もう三十二歳です。それだけでも焦っていいと思います。周りと比べても仕方ないですけど、バタバタと結婚したり子供を産んだりしています。みんな焦っているのだと思います。

 多分、同じ本能の声によって。

 だから手段を選んでいられないです。色々やってみようと思います。受動的じゃ事件は起きません。自分で事件を起こさなくてはならない。結果がどうなるかは分かりません。だけど、何もしなければ結果は来ません。

 おじさんは動いていますか?

 どっちだったとしても考えがあってのことだと思います。

 だからおじさんがどっちでも、私は動きます。

 きっと結果を見せたいと思います。

 こう宣言出来るのも、あの日話をしたからだと思います。

 ありがとうございます。


 北村きたむら佐知子』


 読み終えると直春は丁寧に便箋を畳んで封筒に戻す。机の引き出しに入れる。大きく一回息をついて、目を閉じた。佐知子と龍之介の顔が浮かぶ。

「俺も」

 はっきりとした声で呟く。

「明日」

 声は直春の前に漂って、いずれ消えた。



 五


 佐知子は直春に手紙を書いた。投函しに行く道の銀杏に行きは気付かなかったが、帰りにはその黄色のカーテンが意識に入った。佐知子は紅葉が部分的な死であるのに美しいことに矛盾を感じて、一人笑う。だったら生は醜いのかも知れない。不自然なのは生の方で、それを継ごうとすることも不自然な、だから醜い行為なのかも知れない。でも、私は醜くても、不恰好でもいいから、命を繋ぎたい。佐知子はそう思いながら銀杏の下を通過した。

 手紙で宣言したことを実行に移すべく、計画を立てる。

 柱は二つ。

 一つは夫になる男性と出会うことを目的とした行動を取ること。

 一つは夫にはならないけど父親になる男性を選定して精子を貰うこと。

 その後の育児のことを考えると一つ目の方がベターだと考えて、結婚相談所、街コン、合コン、マッチングアプリに播種的に参加した。


 バーテンダーがシェイカーを振っている。薄暗い店内に他の客の姿がぼや、と浮かんで見える。ミックスナッツを頬張りつつ、トニックウォーターに口を付ける。約束の時間まではまだある。これから話そうと思っていることについてさっと思いを巡らせて、ため息をつく。バーはどこよりも自然にため息がつける場所だと佐知子は思った。もう一度ついてみた。だが、内容の伴わないため息はただの呼気でしかなかった。

 三つ向こうの席に座っている女性客が「ねえ、マスター」とバーテンダーに声をかけた。

「私、海に行きたい」

「そうですか」

「でも、もう冬の足音がうるさい季節なのよね。私が行きたいのは夏の海なの」

「常夏の島はどうです?」

「それも悪くないけど、ごちゃごちゃした千葉の海とかがいいの。海の家とかがあって、浮き輪をした子供がうじゃうじゃいて、バカンスなんて言葉とは程遠い、海水浴」

「待つしか、ないですね」

「そうよね。種になって待つわ」

 女性はそれ切り黙り、バーテンダーも静かになる。私に聞こえたと言うことは、私の話も聞かれると言うことだ。佐知子はそれは嫌だと思う。多田ただ君が来たら、場所を変えよう。盗み見たところ女性は佐知子よりも若くて、美しくて、もっとため息の気配があった。途端に自分が場違いな気がして、腰が座らなくなる。残っていたミックスナッツを一気に頬張り、トニックウォーターを空ける。

「お勘定お願いします」

 店の外に出て、多田に電話をかける。出ない。佐知子は店の前で待つ。空気は冷たかったが、中よりもずっと居心地がよかった。前を通過する人が視線を寄越す。何を言われた訳じゃないけど、立ちんぼと間違われているような気がした。しかも誰も買ってくれない立ちんぼ。……そう言う魅力がなくたって構うものか。佐知子は思う。それでも私は私の欲望を満たすんだ。好奇の目に気付かないように空にある星を見る。

「北村、何で外で立ってるの?」

 多田の声に視線を向ける。

「中じゃ話し辛いことだから、別の場所がいいかなって思って」

「ふぅん。じゃあどこ行く?」

「個室の居酒屋、とか?」

「いいね。俺一箇所知ってるから、空いてるか聞いてみるよ」

 多田は電話をかける。もう一人がいるだけで、空間が安定する。

「空いてるって。行こう」

 多田が歩き出すのに追い付いて、横並びになる。

「北村と会うのって何年振りだっけ?」

「二年くらいかな」

「もうそんなになるんだ。で、最近どうよ?」

「その辺のことを詳しく個室で話したい。多田君は?」

「俺は何もなし。独身街道まっしぐら。仕事は変わらずイラストレーター」

「私は仕事は看護師続けてる」

「順調?」

「うん。多田君は?」

「なんとか食い繋いでるって感じかな。好きなことだけど、もっとお金になって欲しいよ」

 多田は力なく笑う。

「そうだね。好きなものこそちゃんとお金になるべきだよね」

「そう思う?」

「そう言う世界だったら、もっとよくなるよ、きっと」

「現実は違うんだけどね」

 また多田は笑う。佐知子は、この人は現実を変えようとはしていないのだと断定した。

 連れられた個室居酒屋に入る。ここなら話も漏れないだろう。多田がビールを頼もうとするのを制する。

「すっごい真剣な話だから、話が終わるまではしらふでいて欲しいんだけど、ダメ?」

 多田は一瞬困惑の表情になるもすぐにそれを解く。

「いいよ。そのために来たんだから」

「ありがとう」

 注文を済ませる。多田が気持ち身を乗り出す。

「どうしたの?」

「私、子供が欲しいんだ」

 多田は目を瞬かせる。佐知子は続ける。

「それで、婚活した。一年間、結婚相談所も街コンも合コンもマッチングアプリもやって、結論はそこには碌な男がいなかった。いや、私の魅力の問題もあるから相手のせいだけには出来ないことは分かっているよ。だから本当の結論は、惨敗したってこと」

「それは、……お疲れ」

「本当に疲れた。お金も相当かかったし。でもね、私の目的は結婚じゃないの。子供を作ることなの」

「結婚はそのための手段ってことだね」

「そう。で、ここからが本題なんだけど、私、結婚することは諦めた」

「マジで?」

「マジよ。そのステップで止まってたら永遠に子供を作れないから。私って多分、男の人が結婚したいって思う感じじゃないんだと思う。どう?」

 多田は首を捻る。

「どうって、言われても。友達としてずっとガキの頃からいるから、よく分からないよ」

 佐知子は頷く。

「私も多田君の男性的魅力については分からない。……分からない同士だから、頼めることがある」

 多田は凍り付く。

「まさか」

「そのまさかよ」

 佐知子は両手を合わせて頭を下げる。

「私に種、下さい」

「マジか」

「マジよ。種だけで、後の一切は関知しなくていいから。籍も入れない。養育費とかもいらない。その代わり親権を主張しないで欲しい。かかる費用は全て私持ちで、謝礼は二十万円包むよ」

「それって思い付きじゃ……ないよね」

「熟考の末の結論。友達を一人失うリスクがあることも分かって喋ってる。どう?」

「どう、って。そんなすぐには決められないよ」

 多田は顔を真っ赤にしている。

「いつまでもは待てないけど、いつまで待てばいい?」

「……五分」

「え?」

「五分そっとしておいてくれれば結論が出ると思う」

「分かった」

 佐知子は既に結論は出ているのだと思った。だが、二つ返事では付かない格好というのも確かにある。佐知子はウーロン茶を飲みながらおつまみを食べる。多田は視線をあっちこっちに散らしながら、ときに佐知子のことを見て、考える。佐知子は多田を見ずに放っておく。落ち着かないけど、さっきのバー程ではない。

 多田が姿勢を正す。

「五分経った。結論を言う」

「はい」

 多田はゆっくりひと呼吸する。

「謹んで受けさせて貰います。ただし、条件が一つある」

「何?」

「謝礼はいらない。それを貰っちゃったら友達じゃなくなっちゃうから」

「つまり、何をしたとしても、友達のままでいると言うのが条件ってこと?」

 多田は頷く。まだ顔が真っ赤のままだ。佐知子は日が照らすように笑う。

「ありがとう」

「それで、どう言うスケジュールになるの?」

「その前に、セックスをするのと、人工授精とどっちがいい?」

 多田の顔がさらに赤くなる。まともに見ると目がチカチカしそうなくらいだ。

「……セックス」

「よかった。私もそっちがいいと思ってた」

 多田は黙る。

「排卵日の前から後の数日間に、毎日したい。それはハード過ぎる?」

「全然。ただ、仕事の具合を鑑みなくちゃいけなくて、忙しいときだと、会ってセックスだけする、みたいな日もあるかも知れない」

「問題ないよ。むしろ付き合ってくれてありがたい」

「じゃあ、初回はいつになるのかな。言われた通りにやるよ」

「……今日はどう?」

「今日」

 多田の赤さは既にピークに達していてそれ以上は赤くならないが、テーブルの上に置かれた手が拍動に合わせて揺れている。呼吸も早い。佐知子も平静を装っていたが、緊張に体がじんじんとしていた。多田が口を引き結んで「分かった」と言い、佐知子は「ありがとう」と返した。



 六


 チャイムが鳴ったので佐知子は数独をする手を止めた。エントランスのモニターには多田君が落ち着いた顔をして映っている。

「開けるよ」

 オートロックを外していったんテーブルに戻り、数独の盤面を見直す。たった今解いたところから次のロジックを探している最中だったが、そのプロセスをもう一度頭からしなくてはならなかった。次の数字が埋まるより前に、部屋のチャイムが鳴り、玄関まで開けに行く。多田がビニール袋を手から下げて立っていた。佐知子が左手をひょいと挙げる。

「やあ」

「陣中見舞いに来たよ」

「ただの産休だよ」

 多田は花が綻ぶように笑う。

「分かってる。友達として遊びに来た」

 佐知子も笑って、部屋の中に招く。多田がビニール袋から包みを出してテーブルに並べる。

「草団子とみたらし団子。好きでしょ?」

「好き」

「お腹の子も好きかな」

「絶対好きだと思う。だって、多田君も好きじゃない。あと、この子に名前付けたから、これからは名前で呼ぼうよ」

「何て言う名前?」

 佐知子は棚に向かうと一枚の半紙を取り出す。そこには墨で名前が書いてある。

「龍之介」

 二人の声が重なる。佐知子が頷く。多田はもう一度龍之介と言って、「由来は?」と問う。

「芥川じゃないよ。でもじゃあ理由があるかと言うと、語感がいいからに尽きる」

「いいと思う。北村龍之介。かっこいいよ。剣豪みたい」

「早速食べようよ。龍之介が早くくれって蹴ってる」

「今何ヶ月だっけ?」

「八ヶ月後半。もうすぐ生まれるよ」

 二人はテーブルに就いて団子を食べる。美味しいと佐知子が喜ぶ顔を見て多田は朗らかな笑みを浮かべる。

「ああそうだ。知ってるかも知れないけど、結構重要な注意喚起があるんだ」

 多田が団子を頬張るには真剣な表情をする。

「どうしたの?」

「海に近付くな、だよ」

「海? ああ、あのことね」

「そう。最近海沿いに住む人にだけ認知症みたいな症状が出るってのが全世界で報告されてるんだ。今のところ治った人はいない。日に日に患者は増え続けている。だけど、海に関係のないところでは一例も出てない。本当のところは分からないけど、とにかく今は海に行かない方がいい」

「臨月間近で海水浴はしないから、大丈夫」

「ちょっと都市伝説風なところがあるから眉唾な情報も混じっているとは思う。だけど、用心に越したことはないよ。俺も行かないし」

「大丈夫だよ。心配いらない」

「誰かに会えばこの話題だし、テレビも騒ぎ始めてる。これからも情報を集めるから、新しいことが分かり次第伝えるから」

「ありがとう」

 二人はそれから黙って団子を食べる。六本あった団子が全てなくなると、多田はビニールにゴミを詰める。佐知子がそれを見て、「ゴミは置いていっていいよ」と言う。「そっか」と多田は言って、縛ったビニール袋をテーブルの上に置く。

「これからさ」

 多田が改まって話し始める。

「色んなことがあると思うんだ。人生、育児。もし、困ったことがあったら相談してくれよ。友達として出来る限りのことをするから。遠慮なんかいらない。俺はいつだって北村と龍之介の味方だから」

 佐知子は暖かいものでくるまれたような気持ちになった。私達を守ろうとしてくれている。きっとこれは父性の目覚めなのだ。だが、私達の契約は父親になることを許さない。逆に契約があるから全面的に味方になってくれるのかも知れない。多田君が夫になったらと言うことを何度も考えた。ちょっとピンと来ない。体の関係は持ったけれど、やっぱり私にとって多田君は友達なのだ。佐知子は思う。大事な友達だから踏み込めるところがある。触れられないことがある。

 妊娠後期で脳がむくんでいるからかも知れない。佐知子の目から涙が零れた。

「嬉しい。本当に心強い」

「当然だぜ」

「頼る。困ったら一番に頼るね」

「ドンと来い」

 佐知子は多田の胸に飛び込みたかったが、それは友達の一線を超えてしまっているから、我慢した。


 三週間後、佐知子は龍之介を産んだ。医療者のサポートはあったが、気持ちの上では一人で産んだ。もし多田がいてくれたなら、ずっと楽だったのにと何度も思った。だが、二人は夫婦にはならない道を選択した。だからこの仕事は私一人で完遂させなくてはならない。佐知子は幾度もそう結論付けて、自らを鼓舞した。

 母子ともに無事に出産は終わり、佐知子の両親や兄、祖母、そして叔父の直春が祝福のために駆け付けた。名前には賛否両論があり、一族の男子が皆名前の後半に春が付くことを踏襲すべきだと言うのが異論派の主張だった。だが、もう決めた名前だ。佐知子は聞く耳を持たなかった。

 その場で直春が話がある、と皆の注目を集めた。

「俺は大学で准教授をやっている関係で、精度の高い情報が入って来る。海についての話だから聞いて欲しい」

 一同は固唾を飲んで頷く。

「海は本当に危険な場所になっている。近付けば認知症になるリスクが、そこに滞在する時間の分だけ増して行く。認知症になったら治療方法は現在のところはない。海に近付かなければ安全だから、これから危険が解除されるまでは決して海に行ってはいけない。このことを伝えたかった」

 佐知子の兄が反応する。

「じゃあ世の中に流れている噂は、本当だってことなんですね?」

「そうだ」

「みんな、海には近付かない。それくらい守れるよな」

 一同が頷く。直春が全員の顔を順番に見て、最後に佐知子の顔を見た。

「ありがとう。家族だけはどうしても守りたかったんだ」

 佐知子が応じる。

「約束するよ」

 直春は心底ホッとした顔になる。皆が口々に「大丈夫」「守れるよ」と言う中、龍之介が、へあー、と弱い力を振り絞った泣き声を上げる。全員がその声に反応して、笑う。佐知子も、直春も笑った。



 七


 龍之介を抱っこして店内を回る。妊婦や小さな子供がうようよしている。まるで水のないプールみたいだな、と佐知子は思う。

「これなんかどう?」

 多田がガラガラの大きいものを佐知子の前で鳴らす。

「もう持ってるよ。ってか、気を遣わなくていいのに」

 多田はガラガラを戻しながら、小さく微笑む。自分が正しいことをしている確信のある微笑だ。

「サンタクロースが一人多くても問題はないと思う」

 去年は怪獣のぬいぐるみを貰った。龍之介は気に入らず、部屋の隅でずっと遊ばれるのを待っている。

「多田君がそれでいいならいいけど」

「こうしておもちゃを探すのは楽しいよ。龍之介は電車は好きかな? それとも恐竜かな?」

 龍之介はじっと多田の顔を見る。

「ママ」

「ふむ」

 多田が困ったなといった顔をする。それを見て佐知子は龍之介を降ろす。

「自分で選ばせてみようよ」

 広いおもちゃコーナーは概ね年齢分けされている。二歳向けのおもちゃの並びに放たれた龍之介が真っ先に向かったのはアンパンマンのピアノだった。鍵盤をむちゃくちゃに叩いて、ガチャガチャした音を立てる。佐知子が近付こうとするのを多田が制する。「もうちょっと様子を見ようよ」と囁く。龍之介は指一本で一つの音が鳴ることに気付いて、単音を鳴らす。まるで何かの歌を奏でているかのように弾き、また弾き、弾き続ける。多田がまた囁く。

「決まりだね」

 龍之介はまだ弾いている。佐知子はしばらく放っておくことにした。龍之介が弾く音の並びがときどき聞いたことのあるメロディに似たりする。ふと立ち現れて、風に消えるように流れていく。他の子供達はてんで好き勝手に動いていて、それぞれに干渉せず、かと思うとそこに誰もいないかのように横取りをしたりする。龍之介のところには誰も来なかった。

 龍之介には音楽の才能があるのかも知れない。佐知子は思う。音大に行かせるにはどれだけのお金がかかるのだろう。やっぱり龍之介のコンサートを観に行ったら私も緊張するのだろうか。いや、きっとする。きっと絶賛される。でも私は龍之介への賞賛が自分へのものだと勘違いする程愚かじゃない。ヨーロッパを拠点にするのだろうか。そうしたらたくさん会えなくなってしまう――

「北村」

 多田の声に振り向く。子供のように「はい」と応える。

「龍之介は音楽が好きそうだね」

「子守唄、たくさん聞かせたからかな」

「リズム感がいい」

「アンパンマンも好きだから、いっそうあのピアノがいいのかも知れない」

「北村はアンパンマンの正義って何か知ってる?」

 佐知子は少し考える。一つのシーンしか浮かばない。

「悪者成敗のアンパンチじゃないの?」

 多田は、違うんだな、と得意げな笑みを浮かべる。

「飢えている人に食べ物をあげるのが、やなせたかしが言うところの正義なんだって」

「じゃあ普通の人から何かを奪うのは悪ってことになるね」

 龍之介は弾いていて、邪魔をする者はいない。

「巨悪かも知れない話があるんだ」

「何?」

「海の話なんだけど、もう知ってるかも知れないけど、最近いろんなことが分かって来ている」

「そうだね。でもあんまり詳しくは知らない。どっちかと言うと聞かないようにしているのかな、私」

 佐知子は龍之介から視線を移さないまま喋る。

「じゃあ、やめる?」

「ううん。話して。多田君から聞くのならそんなに怖くないから」

 多田は、分かった、とひと呼吸置く。

「シーショアプロテイン、海岸認知症の原因はこのタンパク質と同定された。それで、このタンパク質はやっぱり海から来ていることも分かった。さらに、海のどこから来ているのかがついに分かったんだ。……海にいる細菌が作っていたんだ。どこにでもいる黄色ブドウ球菌の変種で、これが全世界に広がっている」

「細菌なんだ」

「恐ろしいのはここから。その変種、人工的に作られた跡が見付かったんだ」

「どう言うこと?」

「遺伝子の配列の中に、遺伝子工学でよく使われるプラスミドの配列が含まれていて、その中にシーショアプロテインの配列も入っていたんだ」

 佐知子はくっつきそうなくらいに眉を顰める。

「ごめん、読み下して」

「つまり、自然にシーショアプロテインを出す細菌が生まれたんじゃなくて、誰か人間が意図して作ったってこと」

「それって、今の事態を引き起こすために作ったってこと? そう言う細菌を?」

「それか、故意ではなく自然界に逃してしまったか。だとしたら、シーショアプロテインを細菌に作らせる意図が全然分からない。でも、研究者の人の思考が分かるとも思えない」

「どっちにしろ巨悪だね」

「俺達がするべきことは変わらない。自分と、大切な者を守るために、海には近付かない。いいニュースもあるんだ。シーショアプロテインは雨には含まれないこと、地下水にも含まれないことが確認された。海風に乗ってある程度の範囲までは広がるけど、十キロも行けば影響はないことも分かった。北村の家も実家も安全圏だよ」

「どうしてそんなに詳しいの?」

 多田はキュウっと赤くなる。

「北村と龍之介を守るために、ちゃんと知識を付けないといけないと思ったんだ」

 佐知子の胸にとろりと熱いものが流れた。

「ありがとう」

「あと、症例が最初から多かったのがメキシコ湾と千葉で、でももう今は全世界に広がっている。龍之介が大人になるまでに、この災害は終わるのかな。永遠に続くのかな」

 龍之介が戻って来た。顔が膨らんでいるように見える程、興奮していた。佐知子の手を引いて、アンパンマンのピアノの前まで連れて来る。やってみろと言う意味らしい。佐知子は思案して、アンパンマンのマーチを弾いた。龍之介は「ぼくもやる」と言って、真似をして弾こうとするが、弾けない。佐知子も多田も笑う。龍之介は何度も弾こうとするが、弾けない。

「おうちで練習しようか」

 多田が耳元で言うと、龍之介は「いや」と言う。佐知子が「はい、行くよ」と龍之介を抱き上げる。龍之介は嫌がったが、すぐに抱っこの位置に収まって静かになった。多田がピアノの箱を取り、三人はレジに向かう。先に佐知子と龍之介は外に出て、しばらくして袋を持った多田と合流し、帰路に就いた。



 八


 指定された場所は千葉の端だった。

「民家がないですね、この辺りは」

 ハンドルを握る加藤かとうの声に千島ちじまが「そうだね」と応じる。

「本当なんですかね、今回の話」

「本当だったら大スクープだよ。でも、ここのところハズレばっかり引いてるから、それに内容が内容だからちょっと期待は出来ないかな。だとしても、当たりである可能性を信じて俺達は進むしかない」

「そうですね。正月も二日から取材に行くんですから、信じたいです」

「どうして今日なんだろうね。元旦は初詣にでも行ってたのかな」

「世紀の大犯罪者が神様に何をお願いするんですか?」

 千島が、乾いた声で笑う。

「自分でマスコミに公表するような奴だよ。取材がちゃんと来るように願ったんだよ、きっと」

「何局くらい来ますかね?」

「情報はなし。隠し合っているのか、どこも興味がないのか、分からない」

「独占スクープだったら、僕の人生に残るものになりますね」

「俺もな。と言うか人類の歴史に残るよ」

 二人して笑って、それ切り黙る。千島は期待していなかった。加藤もそうだった。沈黙は徒労の予感で塗り潰されていた。息苦しいが窓を開ける訳にはいかない。ここは十分に海に近い。最近は防護服まで着なくても、首から上だけ防護すれば大丈夫だと分かっている。二人分の「防護キャップ」と言われる首から上を守る道具は積んである。だが、それを付けて取材をするのは二人とも初めてだった。理論的に大丈夫だと言われても、何を付けたとしても、海に近付くことに千島には恐怖があった。海の近くにいた結果、海岸認知症になった人の取材をここ数年間嫌と言うほどして来た。書道の課題が「絶望」だったかのように、色々な絶望が並んでいた。伝える人間が必要だし、それがしたいと思って今の仕事をしている。だが、千島は思う、何も出来ないことよりも何もしないでいたことが胸を締め付ける。せめて自分のしていることがこの最悪の事態を終息させる遠因になって欲しいと、願うようになっていた。今日が本物なら、可能性がある。千島の目に光が灯ると、徒労の予感はその光を避けるように散って行った。

「あそこですね」

「誰もいないな」

 小屋が一つ立っている。海からそう遠くない場所だ。プレハブで、住居としてならひと家族以上は住めそうな大きさだ。昨日今日建てられたものではない風合いだが、そこに建っていることに違和感を覚える。千島は違和感の正体を考える。行き着いたのは、小屋の目的が分からないことだった。人があんなところにいる理由が思い当たらない。

 車を停めて、防護キャップを被る。命を賭ける価値のある取材であってくれ。胸の中で念じながら勇気を振り絞ってドアを開ける。見たところは何も変なところはない。この空間にシーショアプロテインが大量に浮いていることが信じられない。加藤がカメラを持ち、千島がマイクを持って小屋に近付いて行く。

「いますかね?」

「流石にいるだろ、本人は。他の取材は来ていないみたいだな」

 小屋のドアをノックする。叩いた音が静かに広がる。どんな人物が出て来るのだろう。千島は取材のときはいつだって出会う人間のことを想ってノックする。だが、今日はそう言ういつもの期待するような感覚とは違う、危険で苦いものに触れる直前の緊張感を伴っていた。もし偽物だったとしても一筋縄では行かない者が現れるだろうし、本物なら尚更だ。固唾を飲んで反応を待つ。

 鍵を開ける音がする。

 音もなくドアが開く。

 開いた向こう側に、防護服を着た中年男性が立っていた。見た目は穏やかそうで、常に逃走経路を意識しなくてはならなそうな人物には見えない。

「取材ですか?」

「そうです」

 所属を伝えると、男性は笑う。親戚の叔父さんが笑っているかのような笑いだ。

「誰も来てくれないかと不安になっていたところでした。さあ、どうぞ」

 中に入ると、大きな培養槽のようなものが五つ並んでいた。その五つは全て動いており、濁った液体で満たされている。他にはよく分からない機材が幾つかと冷蔵庫か冷凍庫が一つと机が一つある。これは本物かも知れない、千島の胸が落ち着かなくなる。男性は続ける。

「ここでも防護キャップは取らないで下さい。シーショアプロテインはかなりの濃度でありますから」

 千島が環境に圧倒される自分を奮い立たせて、男性にマイクを向ける。

「早速お聞きしたいのですが、シーショアプロテインを発生させる黄色ブドウ球菌を作ったのは、あなたですか?」

 男性は口を引き結ぶ。瞳が黒くて、どこまでも黒くて、沈み込んでしまいそうなくらいだ。

「そうです。私がやったと言うことを全世界に伝えて欲しくて、今日、呼びました」

 千島は自分の声音が批判的にならないように胸の中で調整をして発する。

「どう、証明しますか?」

 男性は指を二本立てて見せる。

「二つのもので証明します。一つは同業の専門家に見て貰わないと分からないとは思いますが、実験ノートと資料、例えばシークエンスデータですね、そう言うのを見て貰えば私が作ったと言うことは分かると思います。それと手持ちのストレイン、株ですね、を解析して貰えば、海にいる黄色ブドウ球菌と同じであることが分かると思います」

「もう一つは何でしょう?」

「二つ目は、ここです。この小屋が実行の現場ですので、ここを見て貰えば証明になると思います。これに関しては押さえがあります。ここと全く同じ施設がメキシコにあります」

「専門家が見れば、分かる、実験ノートですね。それと小屋。……この小屋は何をしているんですか?」

 男は嬉しそうに笑う。もしやっていることが予想の通りなら、この笑みは悪魔のものだ。

「ここで黄色ブドウ球菌を培養して、海に流しています」

 千島は脳の血が逆流する感覚にふらつく。

「どうしてそんなことをするんです?」

 辛うじて保つ敬語は、職業でこの場に立っているから可能なものだ。

「世界の海に、シーショアプロテインを撒くためですよ。細菌ですから自己増殖します。一度放てばもう消えることはない。永遠にシーショアプロテインを産生し続けるシステムになります」

「放映すれば必ず逮捕されますけど、いいんですか?」

「さっきも言った通り、私がやったと間違いなく伝えて頂ければ、それでいいんです」

 目の前の男性の行動原理が理解出来ない。こいつは野放しにしてはならない。千島はだからこそ、伝えることに意義があると考えた。

「証明がされるまで、一日はかかります。専門家を捕まえて呼ばなくちゃいけないので。でも私から見て、この小屋は何かを海に撒く以外のためにあるとは考えられません。あなたが本物の愉快犯だったら、そう言う場面を用意するかも知れません。ですが、そう言う気配は感じません。あなたは至って真面目に、私の取材に答えてくれています。だから、独断ですが信じます。証明は今日中を目指します。明日か明後日のトップニュースにします。……カメラに向かってお名前と、何をしたかを言って頂いていいですか?」

 男の前を開け、マイクだけを千島は構える。じっと加藤のカメラが男を捉える。男はゆっくり息をしてから声を出す。

「私は北村直春。シーショアプロテインを作り、世界に撒いたのは私です」

 直春は佐知子に言うときのように、言葉を並べた。



 九


『この手記に求められることは何かを考えた。だが、私は求められることを書こうとは思わない。

 いつまで書けるのかも分からない。だから、大事だと思うことから書いていこうと思う。


 私は北村直春。海にシーショアプロテインを満たした。私はこのタンパク質のことをウミンと呼んでいる。ウミのプロテインの略だ。ウミンは複数の、脳に蓄積して認知機能を障害するタンパク質の構造から私が設計した。オリジナルとも言えるし、既存のものを切り貼りしただけのものとも言える。ウミンを産生する生き物として黄色ブドウ球菌を選んだのは、海に一般的に存在しているからだ。単にタンパク質を大量生産して散布するのでは、いずれ希釈され分解され消えてしまう。そこで私は自己増殖する生物である細菌の、黄色ブドウ球菌を遺伝子組み換えして、永遠にタンパク質が産生され続けることを計画した。黄色ブドウ球菌にウミンの配列を組み込むのは、一般的な遺伝子工学の技法を用いれば問題なく可能である。ここでは細かい技術については省く。私は大学のバイオ系の学部の准教授をしていて、その辺りの技術は持っていた。ウミン産生黄色ブドウ球菌の作成には大学の施設は一切用いておらず、自分で建てたプレハブの研究室で行った。多くの失敗の末、ウミン産生黄色ブドウ球菌「Sa1543」株が完成した。ウミンの神経毒性については細胞を用いた実験レベルでしか確認が出来なかったが、人体実験をすることが不可能なのは明らかであったので、その時点で散布を決定した。Sa1543を大量に培養し、海に流すことを始めた。最初は千葉のプレハブから、次にメキシコに作った同様のプレハブから、連日Sa1543を海に投入した。もちろん、自動化した。その時点では実際に人類に影響するまでにどれだけの時間がかかるのかは分からなかった。それに、実験レベルで神経を障害しても実際の人間には影響しない可能性もあった。その頃の私が考えていたのは、それだったらそれで、サイレントにタンパク質が海に出て来る世界にすることが出来たならそれでもいいと受け入れようと言うことだった。一番避けたかったのはSa1543が海の前では微量過ぎて何も影響が出ないことだった。それに対しては、大量にSa1543を流すことしかなかった。結果が出ることを信じて、私はSa1543を増やし、流し続けた。

 二年後、千葉の海とメキシコ湾の両方でウミンを検出することに成功した。同時期に「これまでと何かが違う認知症」が報告されるようになり、報告は急激に増え、その症例の全てが海岸に住んでいる者だと言うことから「海岸認知症」と呼ばれるようになった。剖検から脳組織に未知のタンパク質が集積していることが報じられ、シーショアプロテインと名付けられた。シーショアプロテインとウミンが本当に同一のものなのかはその時点では分からなかったが、私は希望を持った。時を置かずに、タンパク質のアミノ酸配列が論文に掲載された。まるで宝くじの番号を確かめるような気持ちで、私はウミンの配列と比較した。完全に一致していた。ウミンは海にはびこり、人間の脳に影響を与えていた。症例数は爆発的に増えた。

 人類の力はすごいと思ったのは、海からSa1543を見付け出したことだ。あんな広大なところから、大量に存在しているとは言え、たったひとつの細菌を同定するなど不可能だと思っていた。論文に出された「シーショアプロテイン産生黄色ブドウ球菌」のDNA配列はSa1543と若干の変異はあるものの一致していた。もしかしたらその変異した株が本当は広がっている細菌なのかも知れない。だとしたら、私のしようとしたことは自然の後押しを受けて成されたと言うことになる。いずれにせよ、私のしたことが地球の環境に刻まれたことはますます疑いようのないものになった。海辺に行くときには防護服か防護キャップが必要なのが当たり前になった。各国の政府が対策に本格的に乗り出した。メキシコのプレハブは海沿いにあって、侵入禁止地域になってしまったのでそのまま打ち捨てることになった。千葉のプレハブではずっとSa1543を培養、放流し続けている。

 Sa1543の変異株のDNA配列が公表された時点で、世界中の誰もが同じことが出来る状態になった。そのため、私は私が一連のことをしたと言うことをマスコミに発表することにした。実験ノートと、設備を証拠として、千葉のプレハブでマスコミの人と会い、専門家による証拠の検証の結果、私がウミンとSa1543の産みの親であることが認められた。現在は勾留されている。恐らく人類史上最も重い罪になる筈だ。

 千年後も海にはSa1543が存在し、ウミンにより海は人類にとって立ち入れない場所であり続けるだろう。


 私に妻や子供はいない。だが産み育ててくれた両親はいるし、兄と甥姪とその子供が親族としている。

 家族は私がしたことを知らなかったし、知らない以上は止められる筈もなかった。だから、家族を迫害することはやめて欲しい。行き場のない怒りをぶつけに来る愚者は必ず現れる。警察に護衛をお願いした。勝手だとは思うが、お願いをした。この場所からはどうなっているのか分からない。家族の無事を祈るばかりだ。

 自分はもう済んだ人間なのでどうなっても構わない。自殺するつもりはない。捜査を毎日受けている。でも、同じことしか言えない。捜査が終わったら起訴されるのだと思う。もしくは国際的な法律の何かに則って扱われるのかも知れない。いずれにせよ、法の裁きを受ける筈だ。それもまた必要な行為だから、逃げずに受けようと思う。


 私の教え子達、同僚、学校関係者は一切私のしたことを知らない。だから、彼等についても迫害することをしないで欲しい。家族以上に明らかに場所が特定されるのだから、被害を受ける可能性はより高いだろう。私とは関係がないのだから、そんなことをしても意味がないのだ。全ては私一人がやったことであり、それ以外の誰もが関係がない。機材や資材を買った業者もその用途など知らないし、プレハブを建てた業者も建設理由を知らない。私は秘密を守って来た。それは今のような状況になって、関係者が迫害を受けないためだ。


 私が思う重要なことはここまでだ。

 後は思い付くことをつらつらと書いて行こうと思う。


 具体的なSa1543の作成の手順を以下に示す。

 まず、ウミンの配列を決めるところから始まる。参考にしたタンパク質は――』



 十


 五年前、蝉の声に葬送されるように直春の父が他界した。近隣の寺で行った家族葬に出席したのは、母と、兄の一家と、直春だけだった。実家に戻ると少しの休憩の後、直春と佐知子以外の四人は店を開けると言って出て行った。ダイニングテーブルで麦茶を飲んでいた直春はテレビをつけようとして、やめた。

「佐知子」

 何? と応えながら佐知子もテーブルに就く。

「親父は店と子孫を遺した」

「そうだね」

「幸福かどうかは分からない。けど、生きていた証なんだと思うんだ」

 佐知子は頷く。ぎこちなさを含む動きだった。直春は佐知子の目をじっと見る。胸の中にあるものをぐっと溜めて、それから吐き出すように口を開いた。

「俺には両方ない。それどころか遺せるものが何もない。このままじゃ俺が生きていた証がないまま、人生の終わりに呑まれてしまう。……それは嫌だ」

 佐知子はまた頷く。さらにぎこちなく、歯車が首に入っているかのようだった。

「俺は何か、まだそれが何かは分からないけど、必ず何かをこの世界に遺すことに決めた。いや、親父が死んだから明言するだけで、ずっと考えて来たことなんだ」

「私も」

 佐知子の声が空間を二つに割る。その二つの空間を縫い合わせるように佐知子は続ける。

「遺したいって思ってた」

「そうか」

「きっと。私も遺す」

 直春は深く頷く。

「確かに聞いた。俺もここに宣言する」

「確かに聞いたよ」

 二人は鋭い笑みを浮かべる。その鋭さがぶつかって、火花が散った。


 麦茶を飲み干したら帰路に就いた。佐知子とは玄関で分かれた。

 遺すと決めたはいいがどう遺すか。いっそこの世界に自分がいた爪痕を遺したらどうだろう。直春は考える。世界を変えるのだ。だとしたらどこがいい? 空か、海か、大地か。それとも全部か。もしくは人類をか。文明に影響するとか、文化を変化させるとか。広いな。でっかいな。鼓動が早くなる、だけど嫌な感じじゃない。少しだけ足早になる。直春はノートを買った。

 自宅の机でノートを開く。最初のページに大きく記す。

『海はどこまでも繋がっている』


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海の記憶 真花 @kawapsyc

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ