S君と女M
朝吹
S君と女M
「背中の恋」の後日譚。
https://kakuyomu.jp/works/16817330653791852574
ネタバレ含につき本編読了後推奨
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女は俺のことを「S君」と苗字で呼ぶ。
昔からそうだ。漢字一文字、ローマ字表記するとSから始まる、かなり珍しい氏だ。
女がそう呼ぶ時、俺はその女の眼しか見ない。女の顔のうちで見えるのはそこだけだからだ。眼しか見えないが、わりと表情ゆたかに語っている。その女がキッチンから呼んだ。
「S君。食洗機用の洗剤はどこ」
S君。他人行儀な呼び方だが馴染み深いのでしばらくはこのままだろう。いつかは変えるべきだが。なぜなら俺とその女が結婚したからだ。正確にはする予定だ。手続きは後になる。女のほうから「あなたとの結婚はやっぱり無理」と断られる可能性も充分にある。過去の女がすべてそうだったように。
その女の名をローマ字表記するとMが頭文字だ。美しい雪と書く。女の生い立ちに想いを馳せるとなかなかに因縁が深い。
苗字で呼ばれている俺と違い、女の方は中学時代「Mちゃん」と呼ばれていた。その流れで自然と俺もその女を呼ぶ時は最初から「M」と名で呼んでいた。クラスの連中の名まえなど興味がなくて全て忘れたが、よく呼んでいたMの名だけは胸に刻まれた。
卒業して数年経つとさすがに頻度が薄れたが、一時期は勉強で疲れてベッドに転がるとMがするっと傍に来ていた。
つまりそういうことだ。
世の中にM性感の男はそこそこいるらしい。俺にはそれは当てはまらない。Sでもまったくない。女たちの眼に映る俺は完全なるSだ。ドSからもう一段階ギアが入って、冷血漢のサイコパスと云われることも多々ある。
「余計なことはしなくていい。上か下を貸してくれたらそれでいい」
個室に入ってそう告げると、女の顔には『驚愕』が浮かぶ。しかしどの店でもNG客にはならなかった。予約すれば全て通る。断られたことがない。
チップ代わりに大枠で入り、上か下を開かせて少し経ったらさっさとシャワーを浴びてさっさと出て行き、残り時間をまるまる女たちの休憩時間にくれてやっている俺は、変人だが無理強いの一切ない扱いの楽な客になるらしい。店外⇒天蓋も求めないし、未練なくすぐ帰る。アンケートも満点にして返してる。ウザい客にするような手抜き接客を考える時間すら女たちにはないはずだ。
「暴風さん」
それが、客の情報を共有している女たちが俺につけた綽名だ。何とでも呼んでくれ。少なくとも「あそこもここも、こんなになっちゃって君もぼくのことを好きになったの?」「運命の仲かもしれないね」等、同性の俺でも寒気がするような勘違いをまき散らして臭いよだれや唾を若い女体になすりつけ、テンション上がって下がってこないクソ客よりは、さっくり金で割り切っている上に余計な労働をさせない俺は女たちからみて面倒のない客なのだ。
お前はいったい何のはなしをしているんだ? そう想うかもしれないが本題は後で出てくるからきいとけ。
真面目に相談したいこともある。
気が向くままに最下層から高級まで一通りなめることにして、あちこち通った。素人と付き合うのはこりごりなので女を売っている店にしか行かない。
女子高生コスが売りの学園系に行ってみたらキモヲタが好きそうな童顔がわらわらと出てきて爆笑した。そのなかでもマシな子豚を連れて行き、いつものように帰ろうとすると、「時間より早くお客さんが帰ると店長から講習されちゃう」子豚にしがみつかれて延長をねだられた。入れてくる舌を押し戻しながら、こういうのを可愛く想う嗜好はやっぱり俺にはないという確認にはなった。
「既婚者ではないわよね」
十年以上沈んでそうな、美乳でベテランのきれいな女がいた。俺の身なりを整えて熟練の手でネクタイを締めてくれると、仕上げに俺を室から追い出してはだかのまま手をふった。
「次の客の時間まで仮眠するわ。彼女を作るのも無理ね。相手が可哀そう」
その女は気に入ったので、女が「もうババアになったから」と云って上がるまで天蓋でも付き合った。最高に相性が良かった女だ。
冬山の景色だ。夜の雪の中に同級生だったMが立っている。その上から雪が降っている。星空をひろげる夜の雪原にMはひとり佇み、その姿は何かを想い詰めているようにみえる。つま先からくるぶし、足首へと埋めていく白い雪をMは見詰めている。近寄りがたい感じだ。少し舌たらずに聴こえる声音と相まって同年代の女よりも幼く見えたが、一世紀も二世紀も生きてきたような、老いて疲れたような怖い眼をMはしている。Mが呟く。
わたしが千切れてばらばらに降っている。
俺は迷う。声を掛けたものかどうか。
呼びかけたらMはびっくりして走り去り、雪原の向こうに消えてしまうような気がした。最悪な結果も想定される。他の男ならこういう時どうするのだろう。知らぬ顔をして店に通うのを止めるのが一番いいのだろうか。
前述のプロ嬢をのぞき、付き合った女はみんな初日で「あなたとは付き合えない」と去って行った。「アスペルガー」も聞き飽きるほどよく云われた。
さいわいなことに俺の入った会社には俺と似たような男が大勢いて、男同士では相互理解が成立している。みんな女のことでは失敗している。どうやら女がいちばん欲しいと想うものが、金以外では俺たちにはないらしい。
家庭や子どもを持ちたい夢があったら悲劇だが、俺には結婚願望はまるでない。安定した暮らしを望む女に篭絡されてうっかり結婚に持ち込まれた男たちはみんな夫側の有責で多額の慰謝料を女にぶん取られて離婚だ。数少ない例外もあるにはある。相手の女も似たような女。共犯者のような夫婦だ。プロ嬢と俺との関係になぞらえるとどんな感じかは容易に想像できた。
「要らないわよ」
プロ嬢が上がる時に、今までの礼金としてまとまった額を渡そうとすると断られた。
「そのへんの男よりも稼いでいる女があんたと付き合っていた理由を考えなさい」
去っていく最後の台詞までその女らしかった。
そのあたりで、身を固めるわけではないが、年間の費用を決めて遊ぶことにした。「暴風さん」と呼ばれている店がいちばん使いやすかった。話が通っていて「変人、お好きに」とばかりに女たちがさばけている。
Mはそこで見つけた。
全力で口説き落としてMを海外の赴任地に呼び寄せた。嫁になる女を車に乗せて空港から帰宅したら夜になっていた。昔からMは存在感が希薄というか、眸には生気があるのだが生命力のなさそうな感じで、だからこそあんな店にいるところを見た時には心臓が止まるほど愕いた。俺のせいじゃなくとも責任すら覚えた。
Mはどう想っているかしらないが、俺はずっとMのことが気に入っていた。道端の植物みたいだったし、露骨に俺を嫌わないし、眼が合うと微笑むのだが、普段の様子を盗み見ると、何を考えているのか分からない眼つきで窓の外を見ているのだ。
とはいえ、さすがに中学生では俺自身が混沌としていた。卒業して遠くへ進学してからはそれきりになっていた。
一本街路をずれると途端に街並みが前時代的になる。砂絵のような異国の夕暮れをMは神妙な面持ちで助手席から眺めていた。
食事は外で喰うことが多いが、在留外国人のためのケータリング・サービスが充実していて、お国柄に合わせた弁当または食材が選べる。種類も多いし内容もそんなに悪くない。サイトで一覧を見ながら、「スーパーの配達と同じ。これならここでも作れる和食がある」とMは喜んだ。
「荷物をほどくのは明日にして風呂はいって寝ろよ。俺は仕事してるから」
そう云うと、Mは頷いた。
人前では食事をしないMは、「向こうで食べてくるね」と断って、学校にいた頃と同じように夕食の弁当を手に持ちキッチンへと消えた。あれもそのうち何とかしたいが、無理強いするようなことでもないし、同居人と一緒に食事が出来ないことを味気ないと想うような俺でもない。
向こうで「あ」という声がして、カトラリーを床に落とした音がした。落としたものを洗っている音を聴きながら、中学時代もよく目先のチョークや鉛筆を手から取り落としていたことを想い出した。Мの片目が極端に悪いことはその時に知った。
相談がある? 俺がそんなこと云ったか。
云ったらしいな。
その話はもういい。決断がついたから。
仕事に没頭していると、二時間くらい経っただろうか、Mが起きてきてキッチンに行く音がした。
行ってみるとこちらに背を向けてミネラルウォーターを手に持ち、何かを呑んでいた。シュミーズの上からガウンがわりに俺が貸した上着を羽織っていて、男物の上着の裾からはだしの脚が出ている。
「朝まで眠るからもう邪魔しない」
そう云ってMは俺とすれ違い寝室に消えて行った。
寝室の扉が閉まった後、カウンターに残されているMのポーチを開けてみた。呑んでいたのは睡眠導入薬だ。ポーチの中には同様の睡眠ケアサプリがぎっしりと詰まっていた。様子を見に行くと女はベッドの端っこで撃たれたうさぎのように寝ていた。
「うん」「そうだね」「わかった」
到着してからMはほぼそれしか云ってない。夜景に魅入って窓辺で涼んでいたが、「明日見ても同じだ」と俺が云うと、あっさり風呂に入って寝たはずだった。
頭部を覆い隠す頭の被り物はつけたままで寝ている。外用とは違い柔らかそうな素材に変わっていた。家の中だ。独り暮らしをしていた頃のように外すことはすぐには無理でも、これも要検討。
樹の上から鳥のひなが落ちてきたとする。サイコ野郎ならそのまま踏んで歩くだろう。俺は巣に戻すくらいのことはする。
S君。
すすり泣きの声をあげて、Mは俺にしがみついてきた。
わたしの名の頭文字はM。
わたしはS君に対して多大な影響力を有している。魔女のように。そのことは学生時代から知っていた。
過大評価はしない。そうなった理由は単にわたしが圧倒的な弱者だったからだ。男と女という性差だけでなく他にも理由があるのだが、とにかくそうだった。真正のサイコパスでもない限り不憫な弱者に対して理由もないのに酷いことをしようとする男はいないだろう。
「こっちの料理はスパイスが強いがファラフェルは美味いよな」
近くにいると中学生の頃に戻ったような気がする。キレてる時のS君のことを他の子が怖がって避けていても、わたしは魔女だったから平気だった。わたしは魔法の羽根のように彼の近くに行けた。S君はわたしの前では「ふつう」の少年だった。
大人になったS君は世界と仲良くなっていて、わたしは魔女のまま。
この国に吹く風には料理のような香りがついている。オレンジ、ナツメグ、サンダルウッド。風向きによっては濃厚な花の香りがすることもある。異国の庭園の上に昇る大きな白い月。
インドア派なので家の中にいても苦ではないし、こちらにいても日本のテレビ番組はたくさん観れる。住まいが違うだけで生活は日本にいた時とそんなに変わらない。それでも空港から直接ここに来てまだ一度も外を歩いていない。観てみたいな。市場とか。
そのことをS君に云うと、処分する書類をシュレッダーに送り込みながら「駄目」と云われた。
「この街で日本人の女は珍しい。入籍するまでは駄目だ」
ふうん。よく分からないけれどそんなものなのかな。
女は魔物なのだ。太古の昔から。どんな男でも女には敵わない。生物学的にも生殖活動における選択権は女の方が男よりも優位なのだそうだ。女は男を選び取る。選びとられたようなふりをしているが、やはり女が選んでいるのだと想う。男の方も選ばれたふりをして女を選んでると、同じことを考えているのかも知れないけれど。
天地がひらけたがらんとした荒野に、S君が立っている。わたしたちは同級生だった。白紙が破れるまでボールペンで黒々と書き殴るように、十代はじめの彼の頭の中はいつも尖った嵐が吹き荒れていた。
彼は地元の中学校で暴行事件を起こし、わたしのいる学校に転校してきた。原因は相手側にあったのだが、日頃から反抗的な態度だった彼ひとりが悪いということになり標準仕様の世界から切り離されてきた。早熟で鋭角的で、完全に浮いていた。彼が瞬時に解に辿り着く難問でも大多数の人間には一生かかっても無理なのだ。親も教師も級友も彼の眼からはミミズも同然だった。
大人になるまでの長い年月は彼にとっては生殺しの幽閉のようなものだった。鬱屈の発散に武道をやってみたりしていたが、水中で生きる魚を陸に揚げているようなものだった。
そんなS君だったが、今は泳げる大河を見出して、思う存分のびのびしていた。
「読めない」
「まあな」
この国の文字こそミミズだった。英語でもある程度カバーできるのが救いだ。日本でやっていたパート的な福祉の仕事の一部をわたしはこちらでも続けることになっていた。S君はわたし専用の作業ブースを室の片隅に作ってくれた。
「もう大丈夫だ」
空港で再会したS君はスーツケースを取り上げて先に立って歩きながらわたしにそう云った。
S君の性格はわたしの知る同級生のS君のままだった。
結婚するにあたり「離婚する時にはこのくらいの金をやる」と離婚年齢の年代別の概算を見せられる女はこの世にそう多くはないだろうし、「要るんだろ、ほら」と渡された婚約指輪はクラリティの立派な石がついていたが、通販で買ったものだった。
口をどのくらい開けられるのか確認したいと云われて、限界まで大口をあけさせられた時には戸惑った。暗闇の中で口許に触りながら指まで突っ込んできて、「無理だし下手そう」と云われた。わたしは彼の愛情を疑わないが、発露の仕方が女の子の望むそれとはまったく違う。泣いた。
哀しかったし悔しかったので、「頭部はシーツの上ですれても大丈夫なのか」と訊かれた時には、「木綿豆腐みたいに崩れやすい。顔も」と投げやりに応えておいた。
そのせいで、どんなことになろうとも彼はわたしの頭を徹底して守ってくれた。心地よいし面白いからしばらく黙ってこのままにしておくことにする。
S君が眠っている。
手探りでベッドの下に落ちていた頭巾を取ろうとすると、S君がわたしの手を掴んで止めさせた。毎晩のように外されてしまう。
眠っていることを確かめて、静かに腕を下に滑らせ、やはりわたしは床から頭巾を取って頭につけた。朝起きるのはS君のほうが早いからだ。オンライン会議に合わせて勝手に朝食を食べている。
病院と施設では誰もがわたしに格別の心をくだき、同情的で親切だった。ほら可愛い。寮母のおばあちゃんは女の子がよろこぶ色柄の布で頭巾を手縫いしてくれた。
男の関心をひく女でも、ぜひ落としたいと燃えるような女でもない。出逢った最初からわたしは弱者という強者。彼に影響を与えることが出来るのはわたしが憐憫をさそう欠陥品だったからだ。
男性と付き合った経験がなかった。さらにそこにケア要素が加わった。結果として、お話しているあいだにいつの間にかという感じで、女のからだが無理なく気持ちがよくなるスローセックスになっていた。優しくされて本当に嬉しかった。前職で聴き知ったことをしてあげようとすると「下手だからいい」と瞬殺されてしまったが。
たまに嫌なことを想い出して粘つく黒いものに全身を襲われているような気分になった。そんな時は取り上げられている薬の中から精神安定剤を服用してもいいと許可がでた。
その夜はしんどかった。
決して云わないようにしていたが、それでも一度はやはり云わなければならないことだった。自分を特別な存在と見做す中二病が疎まれるのなら、本当に異端である者にはその出口も塞がれていた。彼にというよりは自分にずっと云いたかった。魔女などではない。わたしはただの畸形。わたしに似た者はこの地上に誰ひとりとしていない。誰かに似ることすらできない。こんな化け物でごめんね。
S君はそれには返事をしなかった。
眠っているS君の腕がからだの上にかかっていて重たい。
ビュービュー吹き過ぎていく冷たい風が彼の頭の中にまだあるのなら、わたしが息を吹きかけて、たとえそこに何もなくとも陽の光が差し込むようにしてあげたい。誰もいない鏡のような氷の平原は、わたしたちの心を映すだろう。
昔とは逆転して、今ではS君のほうが人付き合いが盛んだった。結婚を祝うメールが沢山届いているのを見せてくれた。わたしの方は出国前に長年の主治医と、お世話になった寮母のおばあちゃんのお墓に報告は済ませていた。
顔はついに再建できなかったが、あの人たちを哀しませてしまうと想うことが自殺の抑止になっていた。
昨夜、ついに完全に断薬できた。ぐっすり眠れた。
関節や身体のあちこちが痛い。なんだろうあの恰好。どこの誰があんなの考えたんだろう。髪の毛がない後頭部も少し痛い。強く当たらなければ大丈夫と伝えた時に彼の眼が光った気がしたけれど、そこからが深くて熱くて怖くて疲れた。むこう半年くらいはもういいや。
家の中で使っている通気性のいい薄手の布頭巾に夜明けの光があたる。日中に顔を晒す勇気はさすがにまだ出ない。
いつもの明るい朝だった。出勤するS君がキッチンでグラスを洗っているわたしの処にやって来た。わたしは何となく伏目になった。
「行ってらっしゃい」
顎に手がかかり、顔を隠している布をめくると彼はわたしに口づけをして出て行った。あっという間のことで止める隙もなかった。
[了]
S君と女M 朝吹 @asabuki
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