彼が作るもの、温めるもの

五色ひいらぎ

彼が作るもの、温めるもの

「食うか? 煮込み工程は下の連中に任せてたがな、調味は俺だ。味は保証するぜ」


 厨房にてラウルが差し出してきた椀を、私はしばらく眺めました。

 中は赤茶色のトマトソースで満たされ、辺りには香ばしい煮物の匂いがいっぱいに漂っています。王侯貴族に供するような「上品な」品ではありませんが、美味の予感は十二分にありました。


「では、少しいただきましょうか。……時には、こうした食事もいいものです」


 言ってスプーンを手に取ると、不意に、ラウルは椀を取り上げました。スプーンが行き場を失います。

 ラウルの顔つきが、鋭くなりました。


「だがその前に、レナート……あんたの、『神の舌』様の言い訳が聞きたい」

「言っている意味が、よくわかりませんが?」


 何に対しての言い訳なのか。心当たりはありません。


「今回の献立、あんたの私情で大混乱だったぞ。振り回された方としちゃあ、このまま黙ってめでたしめでたしって気にはなれねえ」

「何度も言っていますが、私情ではありません。合理的な危険回避ですよ」


 ラウルは露骨に眉根を寄せました。


「俺には、そうは思えなかったがな……今回のあんたは、自分の中の怖れを、なんのかんのと理由付けてごまかしてたようにしか見えねえ」

「思い込みです。自分の案を否定されたがための、先入観ですよ」

「そうか。……だったら」


 ラウルは手中の椀を、自らの口元へ近づけました。


「こいつは俺が食っちまうぜ。うまいぞー。贅を尽くして丁寧に作る料理とは、また全然味わいが違うんだよなぁ」


 言いつつちらちらと、ラウルが目配せをしてきます。


「礼儀も作法もなしでがっつく飯は、ほんと美味ぇしなあ……加えてこいつは酒にも合う、一仕事終えた後でワインと一緒に――」

「何を言われようと、あなたの期待するような答えは返しませんよ。賄い飯を食べたいと希望した覚えもありません」


 ラウルの言葉を、鋭く遮ります。

 今回の私の判断は、何も間違っていない。……それに、彼の言葉を長く聞いていると、本当に食べたくなってきそうです。繊細でも上品でもない、つまりは日頃味わえない、彼の料理に興味がなくはない。


「じゃあ、いらねえんだな?」

「特に頼んでいませんので」

「答えになってねえぞ。頼んでなくても欲しくなる時も、頼んだけどやっぱり要らなくなる時も、両方あるだろうが。俺は、いるかいらねえか訊いてんだよ」


 答えに詰まります。

 目の前のひと椀に、興味がなくはないのです。いや、むしろ、とてもある。

 だから、なのか――すべてを断ち切る一言が、どうしても出てこない。


「あんた、もうちょっと素直になりな」


 ラウルが、呆れたように言いました。


「別に言い負かそうとか、思ってるわけじゃねえよ。ただ、あんたが何を思ってるのか知っときたいだけだ。腹が立つとか怖いとか、嬉しいとか楽しいとか……人間ってのは、根っこのところじゃ『気持ち』でしか動かねえ。どんだけ理屈を積み重ねても、な」


 そんなことはありませんよ。

 私は常に、国王陛下の身の安全だけを考えて動いている。そこに、私の好悪や恐怖など入る余地はない。それに、魑魅魍魎ちみもうりょうが渦巻く王宮で「気持ち」など軽々しく明かせば、破滅に直結する。

 ――内心だけでラウルに反論しながら、私は、自分が少なからず怒りを感じていることに気付きました。

 どうして私は、こうも、今の会話に苛立つのでしょうか。


「だから俺は、知っときたいんだよ。あんたが何を『感じて』動いてんのか……理屈で作った言い訳を全部剥いでみたら、何が隠れてんのか。でなきゃ、また知らずに痛いところ踏みつけて、変にこじれるかもしれねえからな」

「……国王陛下への忠誠。私の行動動機として、いや、生きる理由として、その他のものはありません」

「意固地だな、あんたも」


 大きく溜息をつき、ラウルは手中の椀を目の前の机に下ろしました。


「じゃ、これは俺が食っちまうわ。素直じゃねえ毒見役様には、残念ながらおあずけってことで」


 私の手からスプーンを取り上げ、ラウルは煮物の汁を一口啜りました。


「あぁ、うめぇ。濃いトマトソースと、香味野菜の風味ががっつり噛み合ってる」


 大きく頷きつつ、ラウルは細切れの肉や野菜を口に運びます。

 唾が、出てきました。


「肉にも野菜にも、味がしっかり染みてるなぁ。ついでに赤ワインでも持ってくりゃあ最高だ!」


 満面の笑みで頬張る料理長を前に、不覚にも、腹がぐるると鳴りました。

 悪戯っぽく、ラウルが笑いました。


「なあ。欲しいんだろ?」


 ……このまま、否定し続けることはできたでしょう。目の前の美味の誘惑に、抗い続けることも。

 ですが、私の理性は、この時に限っては、なぜか働きませんでした。

 言葉を発する勇気は出ず、無言で小さく頷けば、料理長殿は大きく首を横に振りました。


「口に出さなきゃ、わかんねえぜ?」

「……実に美味しそうな賄い料理ですね。賞味する価値がありそうですよ」


 また、ラウルが首を横に振ります。


「それはただの事実だな。あんたの『気持ち』じゃあねえ」


 困惑しました。

 言われて初めて私は、自分の感情を表す言葉を、日頃ほとんど口にしていないことに気付きました。理屈を幾重にも積み上げて、根拠で塗り固めて、その上でなければ、私は何も言えないのか――


「ただ素直に、思ったことを言ってくれりゃあいいんだよ。余計な言い訳のついてねえ、たった一言でいい」


 しばらくの間、私は何も言えませんでした。

 ラウルの手は止まっていました。目の前で湯気を上げる椀を前に、私は何を言えばいいのか。私は何を思っているのか――

 迷った末、ようやくたどりついた一言を、恐る恐る口にします。


「……おいしそうですね。食べたいですよ」


 ラウルが、破顔一笑しました。そして、背後の厨房へと声を張り上げました。


「おーい、『神の舌』様から注文だ! 牛スジの再利用料理レッソリファット、頼むぜ!」


 どよめく厨房から、ほどなく新しい椀が運ばれてきました。湯気を上げる赤茶色の煮込み料理には、御丁寧にも赤ワイン入りのマグが二つ、添えられていました。


「嬉しいぜ。あんたが、ちょっとだけ素直になってくれてよ」


 片目をつぶりながら、ラウルがマグの一つを手に取りました。空いた手で、もう一つのマグを私に向けて押し出してきます。

 赤黒いワインからは、国王陛下に供されるものよりも、ずいぶんと荒っぽい香りがします。ですが、濃厚なトマトソースには、このくらいの方が合うのかもしれません。

 私がマグを手に取ると、ラウルが自分のマグを軽く当ててきました。陶器がぶつかる高い音が、ちりん、と響きました。


「ほんの少し素直になった『神の舌』様に……乾杯」


 目の前で、ラウルは赤ワインを豪快に飲み干しました。

 私も口をつけます。思った通り、癖が強く刺々とげとげしい味でした。ですが椀の牛すじ煮込みを口にすると、濃いトマトソースと肉の脂が、不思議なほどにワインの険を丸めてくれました。

 整わない、荒々しい、けれど素朴で素直な美味。

 なぜか、目頭が熱くなってきました。


「美味いか。……自分で食べたいって言って、食べる飯は、よ」


 口中に、ワインとトマトと肉の風味が温かく染みわたってきます。

 細かなバランスや風味については、いろいろと言いたいこともあります。が、もともとこれは賄い飯。他人に出す前提でない料理に、課題を指摘するのは野暮というものでしょう。


「ええ、おいしいですよ。……とても」


 彼の料理を手放しで賞賛したのは、実のところ、これが初めてかもしれません。彼は高みを目指すべき身。その歩みを止めさせてはならない。現在地点に安住させてはいけない。

 けれど、たまには、こんな息抜きもあっていい……のかもしれません。

 それと同時に、私の脳裏に過ぎる言葉がありました。


(献立の名だけ残っても意味ねーんだよ。せっかく天才料理人を雇っておいて、味も匂いも伝わらねえ品書きだけじゃあ、つまんねーだろうが)

(どうせなら吟遊詩人にうたわれてえぜ。その皿の香気は天をも虜にし、美味は大地をも揺るがし――)


 しばらく前、書物の虫干しの折に、ラウルから聞いた言葉でした。

 胸中に、当時とは少し異なる感慨が湧きます。あのとき私は、彼の技が、作り上げた品々が、後代に伝わらないことを残念に思った。けれど今は、それだけでなく――彼の料理が呼び起こす「気持ち」までもが、惜しい。

 肉、野菜、トマトソース、ワイン――風味が幾重にも重なり合った、それでいて素朴で素直な味。私の中の何かを、じんわりと温めていきます。

 彼はきっと、多くの人々の気持ちを同じように昂らせ、和ませ、満たし、温めてきたのでしょう。

 魚と肉の競演を供された、此度の賓客も。毎日彼の料理を食す、国王陛下御一家も。


 やはり私は、彼を残したい。

 彼が生み出した物の、すべてを。無二の技も、作り出した品々も、それらが生み出した「気持ち」も。

 千の詩句を費やしたとて、伝えること叶わぬとしても。彼という無二の才が、何を創りどう生きていたかを、何かの形で残したい。


 叶わぬ願いを抱きながら、私は無言で、目の前の料理を口に運びます。

 ラウルは自らも食べながら、優しげに目尻を下げて、こちらを静かに見つめていました。



【完】

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