月の時間

棚霧書生

月の時間

 今日もまた彼女を納得させる言い訳を考える。仕事があるから夜にしか会えないと言い続けてきたけれど、毎晩のように彼女の住む森の中の一軒家に通っているからか、本当に忙しいのかと最近は不信感を持たれているようだ。いっそ来る回数を減らそうか。でも、僕も彼女もお互いに好きあっているのに、ちょっとした誤解のためにわざわざ会える時間を削ってしまうのは本末転倒な気がする。

「ねえ、今度一緒に街へ買い物に行きましょうよ。日の高いうちに」

 彼女がこの手の話題を出すことに、ああ……、と思ってしまう。彼女のことは好きなのに、このときばかりは嫌いな食べ物を噛まずに飲み込むときのような、げんなりした心持ちになる。

「休みがいつ取れるかわからないから、それはちょっと……」

「あなたが働いている工房は、何ヶ月ものあいだ従業員に休みの一日もくれないの? とても、ひどいわ。こんなことは言いたくないのだけれど、別の場所で働くことは考えていないの?」

 彼女はソファに座っていた僕の隣に滑り込むように腰を寄せると、そっと僕の手を握った。細い指の手はひんやりとしていて気持ちいい。

「……僕は今のステンドグラスを作る仕事が好きだし、親方もその道で一流の人なんだ、やめるなんてありえないよ」

「夜以外はちょっとの時間も、出てこれないの?」

「僕はまだ新人だからね。あともう少し待っていてよ、兄弟子たちのように実力が認められれば休みの日だってもらえるようになるだろうから」

「……わかったわ」

 彼女は眉を寄せ、不満を隠さないままにそう言った。

「ごめんね、僕が不甲斐ないばかりに心配させて」

「あなたのせいじゃないわ。それに私、夜も好きなの。あなたと紅茶を飲みながら眺める月はいつもよりずっと素敵でロマンチックなものに見えるから」

 窓から見上げた月は蒼かった。二人でソファに座り、手をつないで夜空を眺める時間は静かで心地よくて、実は僕らが知らないうちに世界は終わってしまっていて、この世にふたりきりなんじゃないかと思えてくる。ふと、彼女の横顔を見ると月のように淡く蒼く輝いているようだった。


 朝よ、来ないで。


 僕は夜明けが近づくと泣きたい気持ちになる。沈まないでと月に祈っている。

 翌朝、僕は彼女と並んで座っていたソファで目を覚ます。隣に彼女はいない。家の中にも、庭先にも、世界のどこにも、彼女がもういないことを朝が来るたび僕は思い知らされる。

 彼女がここでひとりぼっちで死んでからもう三ヶ月になる。心臓発作だったらしい。だけど、僕がこの誰もいないはずの一軒家で悲嘆に暮れていると彼女は現れる。まるで生者のように僕の言葉に笑ったり、怒ったり、喜んだり、悲しんだりする。これは僕の妄想か、それとも月の悪戯か……。どっちでもいい。


 夜よ来い、早く来い。月とともに彼女の魂を連れて来ておくれ。

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月の時間 棚霧書生 @katagiri_8

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