しあわせ書房7~素顔のままで~

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素顔のままで

 駅の出入口で二人の女性に挟まれた僕は、どこにも逃げる場所は無かった。

 僕の目の前に立ちはだかる杏樹は、腕組みをしながら僕をじっと見ていた。僕の後ろでは、怪訝そうな顔で、僕と杏樹を見つめている椎菜の姿があった。


「あの、僕は、その……」

「言い訳はしなくていいのよ、健斗。怒らないから、ホントのことを言いなさい」


 杏樹は口元に笑みを浮かべ、優しい口調で僕に問いかけてきたが、本当のことを言うのは正直とても怖かった。すると、僕の後ろに立っていた椎菜が、僕を押しのけて杏樹の目の前に立った。


「私が誘ったんです。私はこの近くの本屋で働いてるんですけど、たまたまお店に来ていたこの人に一緒に神保町の古本屋さん廻りをしてほしいってお願いしたんです」

「ふーん……本当なの? 健斗」

「ああ、本当だよ」

「でもさ。その人、健斗のほっぺにチュウしてたよね。健斗、よっぽど好かれてるみたいね」

「こ、これは、その……」


 すると椎菜は、再び僕の前に躍り出て、必死の形相で杏樹に訴え始めた。


「私が勝手にやったことです。せっかくのお休みなのに、私のわがままに一日付き合ってもらったから……ほんのお礼のつもりでした」


 椎菜に真剣なまなざしで見つめられ、杏樹は極まりが悪そうな顔で目を背けると、髪をかき分けて深いため息をついていた。


「そうか……私も悪かったかもね。健斗に『二度と逢いたくない』って言ったのも、その後一切連絡を断ったのも私だもん。その間に健斗が私から心が離れて、新しい彼女が出来てもおかしくないよね」


 杏樹はズボンのポケットに手を入れ、背を丸めながらうつむいた。


「私、あれから色々考えたの。あんなひどい顔を見られて、一時はこのまま健斗と顔を合わせず別れようと思ったけどさ。健斗と一緒に重松清先生の作品の話をしたこととか、一緒におしゃれなカフェに出かけたこととか、そんな思い出が頭の中を駆け巡るたびに、もう一度やり直そうって気持ちの方が大きくなったの」


 杏樹はそう言うと、うつむいた顔を上げて再び僕に目を合わせた。


「今日は健斗と出会ってちょうど一年の記念日だもん。やり直すタイミングは今日が一番いいと思ってたのよ。わがまま言ってゴメンね」


 そうだ、僕たちが出会ったのはちょうど一年前の今日だ。所属するゼミの初日で、終わった後に顔合わせ会と称する飲み会があって、そこでお互いに意気投合したんだっけ。僕はもう遠い記憶になっていたが、杏樹はしっかり覚えていたようだ。


「あら、そうだったんですね。せっかくの記念日、私が邪魔しちゃいけないですよね」


 椎菜はそう言うと、僕の目の前から一歩下がり、「ごめんなさい」と言って深々と頭を下げた。


「私はこれで帰りますので、ゆっくりと記念日をお過ごしくださいね」


 椎菜はどこか弱々しい感じの口調でそう言うと、本がいっぱい詰まったエコバッグとプリークリーのぬいぐるみが付いたハンドバッグを手にして、徐々に僕たちの元から離れて行った。


「あの子、ちょっと変わってるよね。袋いっぱいに汚ならしい本を入れて、ハンドバッグにプリークリーのぬいぐるみなんか付けて、気味悪いわね。健斗、ああいう子が好きなの? 」


 僕は杏樹の言葉を聞くうちに、全身が震えだした。


「お前にはわからないんだよ、あの子の良さが……」


 しかし杏樹は気にする風もなく、突如両手を振り上げると、そのまま僕の肩をつかんだ。


「あの子の良さ? それが何だって言うのよ!? 」


 杏樹は鼻にツンとくる強めの香水を漂わせ、妖艶な笑みを浮かべながらじわじわと僕に顔を近づけてきた。


「私は生まれ変わったのよ。あなたに会わない間、身体を鍛えたり本を読んだりして自分と向き合ってきたのよ。私、もう何が起きても逃げない。自分に言い訳はしない。これからは何が起きても、私は健斗のことを離さないからね」


 そう言うと、杏樹は僕の唇を奪い取るかのようにキスしてきた。


「杏樹……お前……」


 多くの乗降客が行き交う駅の出入り口で、僕たち二人はしばらく唇を重ね合ったまま、その場から動けなかった。



 連休が明け、杏樹は学校に姿を見せるようになった。ゼミにも顔を出し、長期間休んだのを感じさせない程元気に振舞っていた。

 杏樹が元気を取り戻したことは素直に嬉しかったが、目の前にいる杏樹は、もはや僕が知っている以前の杏樹ではなくなっていた。

 彼女は朝晩問わず頻繁にLINEで僕にメッセージを送り付け、週末となれば一方的にデートの約束を取り付けてきた。

 杏樹は僕に会うたびに、自信たっぷりの顔で「自分は生まれ変わった」という言葉を繰り返していた。時にはシャツをめくり、鍛えた筋肉を見せてジム通いの成果を見せつけていた。彼女がここまで立ち直るには相当な努力があったことは間違いないし、心から称えたいが、僕はどこか違和感を感じていたのも事実だった。本当の自分を押し殺そうとして、無理をしているようにも感じ取れた。


 学校帰り、駅から続く商店街を歩く僕の隣には、杏樹の姿があった。今夜は僕の部屋に「お泊り」していく予定だ。

 僕と杏樹は手を繋ぎ、ゆっくりと商店街を歩き進めるうちに、僕の視界には「しあわせ書房」の看板が見えてきた。

 一緒に神保町に出かけたあの日以来、店を覗き込んでも椎菜の姿を見ることはなかった。

 僕は椎菜がこの店に来ているのかどうか、内心とても心配だった。


「ちょっとそこの兄さん、待ちなさいよ」


僕の真後ろから、店主の老婆の声が響いた。いつものように立ち読みしていないのに、一体何があったというのだろうか。


「僕……ですか? 」

「そう、あんただよ。あんた、椎菜ちゃんと特に仲良しだったみたいだから、念のため伝えておかなくちゃと思ってね。椎菜ちゃん、つい先日この店を辞めたんだよ」

「ほ、本当ですか!」

「あたしらも突然のことで驚いてね。何度も辞める理由を聞いたけど、答えてくれなかった。あ、そうそう、あんたにはすごく感謝していたよ。そして、よくわからないけど『幸せになってもらいたい』って」

「……」


 僕は何も言えなかった。

 僕は椎菜とはLINEやメールアドレスを交換していなかった。この店に来ても逢えないとなると、椎菜とはもう二度と逢うことはできなくなる。

 寂しさのあまり、じわじわと目から涙が溢れ出てきた。


「あらら、どうしちゃったの? 涙なんか流して……」


 杏樹は僕が泣いていることに気が付くと、慌ててバッグからハンカチを取り出した。涙をそっと拭いながら、杏樹は僕の耳元に手を当て、そっとささやいた。


「あのおばあさんが言ってた椎菜って、健斗が以前付き合っていた子のこと? 」

「そうだけど……」

「良かったじゃない。これでお邪魔虫がいなくなったってことでしょ? 」


 その言葉を聞いた時、僕の心の中で何かがプツリと音をたてて途切れたように感じた。僕は涙を拭おうとする杏樹を振り払うと、真正面から睨みつけた


「な、何するのよ、いきなり! 」

「杏樹、お前、自分に言い訳していないか? 本当に好きなのは僕じゃなくて、自分じゃないのか」

「……」


その時、杏樹は拳を握りしめて僕を真正面から睨み返した。僕は杏樹から殴られるんじゃないかと内心ビクビクしながらも、じっとその目を逸らさなかった。


「健斗、あなたは私の気持ちをこれっぽっちも分かってないのね……私、健斗に振り向いてもらいたくて、昔の私と違う私を見てもらいたくて、必死に努力してきたのに」

「だから、それが自分に対する言い訳だって言ってるんだよ。僕が好きだったのは、必死に自分を守ろうとしている杏樹じゃない。目を輝かせて好きな文学の話をしている時の杏樹が好きだったんだよ」


杏樹は全身を震わせながら僕を睨むと、僕に背中を向けて走り出した。


「もう二度と、健斗とは話したくない! 」


 杏樹の悲痛な叫び声を聞いた時、僕は自分の言った言葉を激しく後悔した。しかし、ずっと言えなかった杏樹に対する「もやもや」した思いを口にしたことで、心の中を覆っていた霧が段々と晴れて行くようにも感じていた。


 その後、杏樹からの連絡は一切来なくなった。

 僕の言ったことが図星だったからだろうか?

 思えばこれが、杏樹と僕の最後のやりとりになった。



 あれから一年近く時が経った。

 桜の花びらが風に乗って、いつも通りかかる商店街の中にひらひらと舞い降りてきた。僕はリクルートスーツに身を包み、都心で開催された会社説明会に行ってきた。学校の就職部からは、就職情報誌を買ってしっかりと研究して臨むよう言われており、今日はその情報誌の発売日だ。僕は「しあわせ書房」に立ち寄り、ラックに置かれた数々の雑誌の中から情報誌を探そうとした。


「何をお探しですか? 」

「えーと、就職情報誌を……」

「じゃあ、これですかね? 」

「え……?」


 目の前に立ち、笑顔で情報誌を差し出す女性を見て、僕は思わず腰を抜かしそうになった。ポニーテールの髪型、裾の広がったフレアジーンズ……そこにいたのは、まさしく椎菜だった。


「いったいどうしたんですか? 急にこの店を辞めて……」

「ごめんなさい、あなたと最後に別れた後、この店に来るのが怖くなっちゃって」

「どうして? 」

「だって、この場所に来たら、あなたが彼女と仲良く並んで歩いてるんじゃないかって。私、あなたのそんな姿、絶対見たくなかったから」


 そう言うと、椎菜は僕が買った本を紙袋に入れた。


「私、あなたにも店主にも、そして自分にも言い訳してたんです。『あなたには幸せになってほしい』って。本心は、全然違うのに」

「!?」

「一年近く離れて、やっと分かったんですよ。自分に言い訳しているうちは、自分の夢は叶えられないって」


 その時、桜の花びらが僕たちの目の前をひらひらと何枚も舞い降りてきた。そのうちの一枚が、椎菜の手の中にふわりと舞い落ちた。


「あ、見て、この花びら、ハートマーク!」


 椎菜はハートの形の花びらを手にすると、「はい」と言って僕に手渡した。


「いいんですか。僕がもらって」

「うん。だってこれが、言い訳の無い私の本当の気持ちだから」


 そう言うと、椎菜は右手を僕の前に差し出した。


「この手、あなたに繋いでほしい」


 僕はその時、椎菜の好きだと言っていたaikoの「桜の時」を思い出した。


「いいよ」


 僕はうなずくと、左手でそっと椎菜の右手を握りしめた。

 その時、まるでこれからの僕たちの前途を祝福するかのように、沢山の花びらが目の前に舞い降りてきた。

 穏やかな春の日差しが、古ぼけた文字が浮かぶ「しあわせ書房」の看板と、僕たち二人の背中を包み込んでいた。


(おわり)

 



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