七人目の不幸な死体

千羽稲穂

彼女の死体

 カメラに彼女が映っていた。死体発見現場から、十キロ圏内のコンビニでバイトしていたのだ。繰り返されるバイトのシフト。律儀に朝五時に来て昼には上がっている。長い髪を一本に束ねてうっすらと化粧をしているが、覇気はない。目の下には隈がとりついている。まるで幽霊みたいに薄ぼんやりとした存在に思えた。カメラがとらえた彼女の姿はうつろそのもの。たまにぼんやりとして棚に腕や足をぶつけてしまっている。都度都度、ぶつけた部位を痛そうにこすっている。ふっと、カメラの方を向いて、にっこり笑った。黒々しい瞳はカメラの向こうの私を見ている。まさか、彼女はこちらを気づいている? 勘違いしてしまいそうになるが頭を振る。一ヶ月も前にこのカメラを調べる者がいるなど、彼女は知るよしもない。それも、自身が死ぬ一ヶ月後になって、この場を発見するなど思いもしないだろう。

 手元のメモには、バイト先の住所が載せられている。丸、と大きく正解を書き込む。項目の上には「なぜ彼女は死んだ?」「どうして彼女だけ遺体の状態が異なる?」と疑問があげられている。

「七人目の心中遺体の彼女は何者?」と、メモの一番始めには大きな文字で走り書きされていた。


 どこにでもある心中事件だと最初は公表されていた。ある民家で七人の死体があがった。どの遺体もサーモンピンクの肌をした綺麗な遺体。中心の卓上にはなぜか人生ノートというそれぞれの遺体の人生が書かれたノートが積み上げられていた。そこには「金に目がくらみ人を殴った。」であったり。「死にたい。つらい」であったり。「生きている意味がわからない」であったり。人生の吐露が克明に書かれていた。詳細なノートの人生は遺体と合致していた。故に、捜査は簡単に進められた。

 たった一体の遺体を除いては。

 どこにでもある心中事件はたった一体の遺体と、たった一人の自供で世間を揺るがせる。

「僕は、これまで数十回心中を計画してきた。今回の事件もその一つだよ」

 彼、新稲努はほがらかに自首をした。持ち物にはこれまで関わってきたであろう心中事件の人生ノートがあり、全てこれまで出てきた人生ノートと同一の物と認められた。

 彼の態度は温和で、清々しく、一貫して警察に協力的であり、逆に奇妙にも思えた。どのようなときも笑顔を崩さずに同じような態度をとる。柔和な笑みを常に湛える一般男性に人々は魅了された。心中事件を計画した首謀者であるにも関わらず世間は彼はやっていない、と思うくらいに騙され、後に七人目の遺体の状態の公表で世間の評価は覆る。


「彼女の名前を教えてください」

 私は七人目の遺体のことを彼に尋ねた。ガラス越しにでも分かるくらい、ほがらかに笑っている。何がそんなに笑えるのだろうか。私にそのような要因があるのなら、消し去りたい。

「そうは言っても僕は彼女の名前を知らないんだよね。記者の方? だよね。なら、調べてよ」

 ふざけてる。

 顔色は良好。声のはりもトーンは変わらず飄々としている。こいつと関わっているとどんな物事も軽く思えてくる。私が今関わっているのは、何回も心中事件を企て自殺教唆に追いやった大量殺人犯だと言うのに。殺人事件の犯人に接する空気の重さではない。

 他人事、などと思っているのではないか。

「僕は、あなたのことが気になる。今は元気? 悩み事とかない? ここへは、やっぱり僕の事件に興味があってきたんだよね」

「訪れた全記者に対して、彼女のことは黙秘をし、その他の事件の全貌は事細かに語るのは何か意図があるのでしょうか?」

「その目」新稲はどん、と人差し指ガラスに突き立てた。「今までの記者にはない、好奇心の光がない」鼻ですんっと笑いたて、新稲の目が細くなっていく。上弦の月よりも細く鋭利な笑みのナイフで背筋を撫でられる。「君、記者に向いてないって言われない?」

 以前、事件の被害者に入れ込みすぎていると指摘されたことがあった。加害者もそうだが、特に被害者の怒りや悲しみには、驚くくらい私は共感してしまう。裏でこっそり泣いている時に上司は煙草を一本差し出してくれた。「記者には向いていないが相手のために泣けるのは良いことだ。大切にしなよ」それから喫煙所で上司と喫煙か同士、記者同士、情報を交換したり、近況を話し合ったりする仲になった。私は、向いていない共感性を持っているが、武器でもある。

 気持ちを戻して、武器を持ち、彼に対抗する。流されない。七人目の彼女のことを知らずして事件を綴ろうなど私にはできないのだから。

「どうして、最期の心中事件だけ、七人目の彼女だけはあなたは遺体を損壊させたのですか」

 むくむくと芽生え始める怒りや悲しみに、言葉が乗ってしまう。こみ上げた気持ちを止めることなく表情に灯す。彼は私の感情に対しフラットに笑みを持ってして受け取っていた。

「彼女のことを調べてごらん。そうしたら、教えてあげる」


 彼女のバイト先のコンビニを突き止めるのは、新稲に会った数日後。それほど時間はかからなかった。昨今はカメラ社会。どこに言ってもカメラが人を捉える。どこに行って、何をしているか、など簡単に分かってしまう。彼女のバイト先の店長にかけあい、監視カメラを見せてもらうと、そこには彼女が映っていた。まだ生きていた頃の彼女だ。彼女が生きている、その事実だけで胸がこみ上げてくる。感情に流されながらも筆記を続ける。

 そもそも、この事件を追っている記者は私だけではない。そして、警察も彼女を追っている。どこにいて、どういう人なのか、出回る情報も多い。コンビニに訪れた者も数多くいると店長は言って、監視カメラ映像を見せるのも慣れていた。

 バイト先の店長に彼女の名前を聞くと「佐里その子さん」と名前をあっけなく彼女の名前を教えてくれた。

「彼女のことで何かあれば、小さなことでかまわないんで教えてくれませんか」

 店長は何度も聞いたよ、と呆れ顔になってしまう。何度も何度もいろんな人に尋ねられるのは、疲れてしまうのは当たり前だろう。

「なんにもないよ。仕事も真面目にこなしてくれたし。大人しい子で他のバイトの子とはあまり話さなかったしで、こういってはなんだけど、最後までどういった子か分からなかった。だから、確かなことは何一つとして言えない」

「そうですか」

 無縁仏であることは、ニュースでも取り沙汰されていた。どこの誰かわからずに、未だ関係者を探しているが、分からず仕舞いで捜査も難航している。

 私は、お礼を言って、帰ろうとしたが、「そういえば、」と店長は思い出したように続けた。「以前お腹が痛そうで立ち上がれなかったことがあって、病院に行った方が良い。一人で行けないんなら救急車を呼ぶって言ったら、なぜか怒鳴るくらい怒られたことがあった。珍しく大声をあげたものだから、びっくりしてしまって、『ごめん』と謝ったんだけど、彼女は怒ったのか傷みで言い返せなかったのか、黙り込んで帰ってしまったんだ」

「その後、病院には行かれたんですか」

「多分行ってない。しばらくお腹をさすりながら仕事をしていた」

 病院嫌い、とメモを走らせる。が、これが彼女を知ることになるとは思えない。違和感はあるものの、誰だって病院は嫌いだ。

 お礼を言ってコンビニを後にした。店長はもう来ないでくれ、と思い出したくはなさそうだ。「佐里(さり)さん」と彼女の名を口にだすのが少なかったのは、事件を忘れたい一心からだろうか。


 心中の計画はいつも七人で行われた。首謀の彼が音頭をとり全員をみとる。人生ノートは、その際に綴ったと語っている。心中計画にのるには新稲に人生を語る必要があった。それが心中に加担する条件だったそうだ。彼は語られた事柄を全て暗記していた。さらに、人生ノートの筆跡と新稲の筆跡は一致していた。紛れもなく彼は、心中事件の中心人物であった。

 八人目の、真犯人。

 しかし、最後の七人目の彼女によって、心中事件は崩された。

 彼女の死体は、胃に一万円札がぎっしりと詰め込まれ、口内には硬貨が押し込まれていた。口が裂けんばかりに入れられていて無理矢理太らせた遺体は、見るも無惨であったという。しかもそれらは、死んだ後に入れられたものであり、新稲は自身がやったと自白している。

「胃の中にこれまでもらった札束を押し込んだ。ぱんぱんになったら、次は口の中に硬貨を詰め込んだ。まるで肥え太らせた貯金箱みたいだった。これまで貯めてきたのはこのためだったんだって、ようやく気づいた」

 他人に理解できない発言が取り沙汰され、世間はおののいた。ニュースはもちきりになり、彼が使ったとされるSNSのアカウントは瞬く間に広がった。とは言いつつ、彼のアカウントはメッセージこそ心中事件のことで持ちきりであったが、表のツイートはさほど異常ではなかった。日常の発信、料理、好きなこと、趣味のこと、他人とかかわり、他人のこと楽しさを共有し、たまに仕事の愚痴を言う。裏で相談を受けて、人生をもらい、死にたい人が七人そろえば計画を実行する。それが新稲の手口であった。


 煙草の火を灯して彼女のことを想う。どこの誰ともしれない人に自身の身体を損壊され公表されたことに、怒りを感じてしまう。しかも、未だに彼女の身内は現れない。早く彼女がしかるべき人のもとへ帰ることを願っている。そのためにも、私という記者や警察も動いている。「彼女のこと、何か分かったか?」

 上司が喫煙室に入るや否や、煙草に火をつけた。一夫服して灰が落ちきる前に灰皿に煙草を置いた。ちりばめられた灰かすがヤニの匂いを際立たせる。煙にまかれて、視界がくらむ。

「いいえ。名前だけしか」

「その名前教えてくれないか」

 焦っているのか、上司がせわしなく口に煙草を持ち運ぶ。

「佐里その子」

「違う」

「は?」

 上司の視線があちこちに持ち運ばれる。何かがおかしい。あまり言いたくないのだろうか。煙草も一吸いしたらすぐに消してしまう。口にするのが億劫であるのか、もごもごと言いづらそうにしている。

「蔵前いたみ、橘きり子、佐藤えり、それぞれのバイト先で、違う名前を使っていた。私が探った情報でもこれだけある。彼女、偽名を使ってバイトをしていた。SNSを探ってみろ」

 手元の携帯で今回の心中事件について検索をしてみた。ずらりと一覧になって、「#彼女は誰?」とタグ付けられている。そこには先日私が見つけたバイト先であるコンビニの映像も流出していた。

 やはり、遺体の異様さが好奇心を誘い、みな血眼になって彼女のことを調べている。だが、遺体とは違う異様さをツイートには醸し出されていた。「佐々木らんって名乗っていたよ」「縁さつきって、言って、この間オフ会で会ったんだけど。え、違うの? 嘘、めっちゃ怖いんですけど」「古石綾やって」探れば探るほど、名前が出てくる。彼女が使っていたアカウントは「ノーネーム」で通っていた。『今日は仕事だ。やだな』など何の変哲のないツイートが何万リツイートともされている。彼女のツイートには、「あなたは誰?」と返ってきもしない問いかけで満ちていた。

「彼女は、誰なんだろうな」

 上司は、上を向いて、すぐに頭を振る。煙にまかれた上司の周囲が晴れていく。

「ハロワにも行ってたって証言もある。それも嘘か本当かは分からないが。なんにせよ、死人の痕を追うってのは、面白いが気味が悪いな。墓を掘り起こしている気分だ。彼女が隠したがっていたものを、こうして暴いて、何になるのだろう」

 面白半分に推理をするツイート。次から次へと積もり積もっていく世間の好奇の目に彼女が晒されていく。幾重にも重ねられたベールを剥がされて、彼女は嬉しいのだろうか。

「記者は、そういう仕事です」

 ツイートを苦しくも、私は掘り続ける。偏った考えを見つけては、頭の中で否定していく。彼女のカメラ目線がこびりついて離れなかった。こちらを覗いて笑っているのだ。大きな瞳の中に吸い込まれていき、どこにも真実は見つからない。真実を追い求めすぎて、人間の好奇の沼にはまらないようにしなければならない。


 ハローワークに訪れて、一瞬だけ担当した女性に話を聴くことになった。女性は中肉中背で、他の人といると見分けはつかない。髪の端々が跳ねていて、コンビニの店長同様、疲労が見て取れた。尋ねる前に決まり文句のように、

「警察の方にも言ったことなんですが、一言、二言しか話していないです。『書類がないのでしたら今日は受付は難しいです』としかお伝えしていません」

 ぴしゃりとはねのけられてしまう。他に尋ねる隙がない。私のことを見るのも億劫なのか、すぐに背を向けられてしまう。

「待ってください」

 などと、言う前に既にデスクへとついてしまった。

 今日も収穫はなし。メモに書き加えた目撃者の数は減っていく。しゃっと、二重線を付け加えてハローワークを鑑みた。夕暮れの陽光が疲れ切った失業者達に降り注ぐ。暁は寂しそうな背中を焦げ付かせた。待っている者達の顔は全員物憂げで、カメラに映し出された彼女の表情を思い出された。

 私は記者という職を得ているから、社会に『記者』として認知されているし、私の存在を知らしめられている。だが、ここにいる者達は、職がなく社会に存在していない感覚を覚える。彼女は、どう存在していたのだろう。バイトをかけもち、偽名を名乗り存在していた。それは存在している、と言えるのだろうか。むしろ、貯金箱の死体と取り沙汰されている方が、彼女を見てくれている。なんという皮肉なのだろう。

「千里」とどこかからか、音が高鳴った。

 振り返ると、先程の女性が私を見つめていた。

「ひとつだけ、警察の人には言ってないことがあります。私の勘違いかもしれないので言わなかったんです。あのとき、『千里』って、ここで別の受付をしている人の名前が呼ばれたとき、あの方、振り向いたんです。そして、とっても嬉しそうに『千里』って名前を噛みしめていた。その顔があんまりにも、愛おしくて。私の勘違いかもしれませんが。でも、ネットとかで見ていると、どうしても。なんとか、できなかったのかなって。どうしても……」

 女性は茜で顔を曇らせて私をすっと見つめた。まっすぐな表情は嘘とは思えなかった。

「忘れられなかったんです」

 彼女は亡くなっている、その事実が今、強く突き刺さった。彼女の名前を、彼女の前で呼びたかった。きっとそれは、真実をはらんでいたから。

「ありがとうございます」

 メモにはできなかった。深く心に突き刺さって、抜けそうになかった。「千里」と。何回も反芻して、磨き上げる。彼女の本当の名前は「千里」だ。


「彼女を調べた」

 私はガラス越しに新稲を詰めた。彼は「へぇ」と試すように私を伺う。舌なめずりをして、蛇のように舌をだし、唇をなめた。

「結局、分からなかった」

「それじゃあ、教えられない」

 これまでと同じだったのだろう。新稲は、後ろの背もたれに体重を乗せて、微笑んでしっしっと、手を振った。では、これも同じなのだろうか。

「『千里』という名前だけは分かった」

 彼を目を開ける。少々固まって、表情を曇らせた。ようやく微笑みが瓦解する。あとは、私の考えを言うだけだった。

「彼女は戸籍がなかったのだろう」

 偽名をつかっていたのは、身分を証明するものがないからだ。だからハローワークで身分を証明するものがなかったのは、そもそも戸籍がなく自身の存在を証明する術がなかったからだ。

「そして天涯孤独の身の上で、頼るあても、どうすることもできずにいた。伝える術を彼女は持っていなかったんだ」

 病院に行けば保険がない彼女はより多くのお金を払ってしまう。だから、身体に不調を来しても行くにいけなかった。声もでずに、じっと蹲って耐えるしかなかった。「おそらく、戸籍をとられずに生きてきて、親に早くに死なれたか、捨てられた。彼女はそこから一人で生きてきた」

「彼女の文字は見たことあるか?」

 新稲は、ガラスに額を打ち付けんばかりによってきた。微笑みは消えていて、ぎょろりとした瞳を向けてくる。瞬きをするたびにばさばさとノイズを払いのけているかのようだった。

「履歴書や執筆されたものの形跡を」

「いや」

「字が、震えているんだ。文字の形は分かるし読めるけれど、書けない。伝える手段がなく、学もない。小学校にも行けてないんじゃないかな」

 接触が少なかったのは、それまでの人生の中で誰とも接してこなかったからか。すると、点と点がつながってしまう。声をあげる手段すらない。伝え方も分からなければ、この社会では存在を末梢されてしまう。戸籍というデータもない。職という記号もつけない。どこにもいない。

 だから、彼女が何者か誰も知らない。

 なら、あの一瞬。

 ──千里。

 あの名前で、振り返ったのは。

 唯一彼女が彼女であれた時だったからだ。

「ご名答、彼女は存在しなかったんだよ。どこにも、誰にも知られなかった。そうしてだんだん、自身の死を考えるようになった。無意味だったから」

 手が震えてしまう。彼女が出会ったのが、新稲でなければ。あまりにもアンラッキー。そうでなければ、もっと公的機関で彼女を救えた。唯一救えたのが自殺? 心中? ありえない。

 しかも、

「お前は、彼女の存在を知らしめるために、人生ノートを書かずに、彼女の死体だけ異様に仕立て上げた。お前の意図どおりSNSでは彼女の存在を探し当てが始まった。記者や警察は彼女を追った。それこそが、お前の真の狙いか」

 新稲は何も口にしない。つまりは、その通りだったのだ。この黙秘は、賛意の同意。

 感情に流されまいとしていたのに、ついに私は怒りがこみ上げて瞳から雫が垂れてしまう。目の前の男が憎かった。救いを求めた相手がこいつでなければ。こんなに彼女は陵辱されなかった。墓を掘り当てられるなど。ツイートを掘り当てられるなど。自身の死を、この男にもてあそばれている。

「お前は人の死をなんだと思ってるんだ」

「あんたこそ、誰のために泣いてるんだ?」

 新稲の表情からは笑みは消えていた。冷たい月の瞳が私を見下ろしている。落とされた月の光は波紋を広げる。心がナイフで真っ二つにされた。

「彼女のことを死んだ後に知ったあんたが? 何を知っている。実際に話したのは僕だけ。墓を暴いたのは、お前らじゃないか。

 少なくとも、彼女は知られないことに苦しんでいた。不幸であったものを、僕は、逆に知らしめたかった。彼女の存在を。それを願っていたのは彼女自身だ。僕は、彼女の意思を組んだ。そして、これまでの全てを投げ捨てた。心中計画も、金も、人生ノートも。全部が全部その人たらしめるものがある。

 なんのために怒っている。

 あんたは誰のために泣いている。

 その涙は、彼女を侮辱している一つだ」

 私の涙はひっこんでいた。頬が凍り付いている。身体が動かない。すくんで頭をもたげて耳を塞ぐ。煙草のにおいが指の間から漂った。上司の言葉が薄れていく。

「あんたの涙は独りよがりだ」

 新稲は、月を閉じる。月食となった夜の瞳に私は沈んでいった。滞った自身の感情が踏み散らされる。新稲の言葉は透き通っていた。誰よりも彼女に近しいものだから。

「あんた、記者向いてないだろ」

 新稲はそれでもそこに君臨し続ける。月の光で、私を照らし、あぶり出すまで。


 何度もみた記憶の光景を私はあの日から繰り返しフラッシュバックする。ベッドから起き上がり、睡眠薬をとりだし、飲み込み続けても。カメラ越しの彼女は、こちらを見つめていた。にっこりと笑って黒々しい月食の両目をぎょろりと差し向けた。私の中身の中身をえぐり出すまで。

 忘れよう忘れようと、思っていても、そこに照らし続ける。記憶は繰り返す。新稲がいなかろうと、彼女の映像が消えようと、私の中を漂いつづけている。

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