沼からみる青
あまくに みか
沼からみる青
「吉村先輩、沼だわ」
額の汗をぬぐって、走り出した吉村先輩の輝く笑顔。
「助かる。その笑顔、助かる」
あたしは、吉村先輩の汗の一粒すら逃すまいとシャッターを切る。
「今週もがんばれそうだわ」
カメラを胸に抱えて、座り込む。一仕事を終えたあたしは、極上に気分がいい。
学校の屋上から見上げる空は、水彩絵の具を溶かした青色。手を伸ばせばその指に、水滴がついてしまうのではないかと思えるくらい、みずみずしい。
吹き上げてくる気持ちのいい風には、葉桜の香りとサッカー部の声が混ざっている。
「おい、ストーカー女」
「なに? 二次元、乙ゲー、オタク野郎」
呼ばれて、あたしは隣に座るあやなに、いつものやり取りを返す。
「いい加減、吉村先輩を屋上から撮るのやめたら? 変態だよ、あんた」
「そう言うあやなも、推しをスクショしまくるのやめたら? 全部おんなじ絵じゃん。容量のムダ」
言い返すと、あやなは心底迷惑そうな表情でスマホから顔をあげる。
「ミドリくんは、沼なの」
「吉村先輩も、沼なの」
互いににらみ合うこと数秒。
「やめやめ、変態に優劣はつけられん」
あやなは屋上にゴロンと寝転んだ。
あたしも、ゴロンと寝転ぶ。相打ちになって倒れたみたいに。
大の字になって、うすい雲が右から左に流れていくのをぼうっと眺めていた。
「綿あめくいてぇ」
「こらこら、かわいい女子がそんな言い方しないの」
あやなは見た目はかわいいのに、中身はおっさんだ。ちょっともったいないなぁ、ってあたしは思うけど、あやなのそういうところが気が合うというか、気負わなくていい唯一の仲間だという気がしている。
「ひまり、茂吉の課題終わった?」
「毎日撮ってる」
「そうだった」
あたしとあやなは、写真愛好会に所属している。活動といっても、こうやって屋上でゴロゴロしているか、教室の片隅でお菓子を食べているかのどちらかだ。部員がたったの三人しかいないし、そろそろ写真愛好家もオシマイかもしれない。
──青春を撮ってこい。
そう言ったのは、茂吉だ。
茂吉というのは、顧問の先生。斉藤先生が本名で、茂吉はあだ名。やる気のないあたしたちに、写真愛好家らしい活動をさせようと、茂吉が課題を出したのだ。
もちろん、あたしの青春は吉村先輩だ。茂吉には見せられない写真ばかりだけれど。
「あやなは? なに撮った?」
「うーん。まあ、色々と」
珍しく歯切れの悪い言い方。
「見せて!」
「だめ!」
立ち上がったあたしは、ひょいとあやなのカメラを奪い去る。今度は、あたしの勝ち。
あやなが撮ったものをカメラのモニターで見て、絶句した。
「……これって」
「もういいでしょ」
「よくないよ。二次元は? ミドリくんは?」
「それとこれは、別なの!」
むくれたあやなが、あたしの手からカメラを取り返す。頬がほんのり赤く染まっている。
「えっ、マジ?」
あやなは返事を返さない。ぷっくりとふくれた頬が、完全に赤く染まって赤ちゃんみたいでかわいい。
「早く言ってくれればいいのに! あたしがさ、二人きりにしてあげるのに」
「ちがうの! そういうのやめて!」
耳まで赤く染めて、あやなはキッとあたしをにらみつける。
「好きっていうか……。好きって感情とは、ちがうのかも」
「吉村先輩みたいな存在ってこと?」
「うーん。推し……ともちがう、かな? うまく言えない」
「なにそれ、恋じゃん」
「恋なのかな?」
「……たぶん」
あたしたちは、また空を見上げた。
青くって、広い空。
手を伸ばせば届きそうなくらい近いのに、届かない青。夢みたいな青。
隣にいる友人が、少しだけ、あたしより先に歩いている気がした。
「やっぱ、恋じゃないわ」
「ちがうの?」
「ちがうよ。だって」
あやなはカメラをかまえる。形のいい眉が、ぎゅっと縮こまって、瞳が揺れていた。
「わかっちゃうんだ。レンズ越しに見ていれば。わかっちゃうの」
なにが? と聞こうとして、あたしは開きかけた口を閉じた。錆びついた扉が音をたてて開いて、今まさに話題にあがっている人物が、入ってきたからだ。
「先輩たちー。買ってきましたよ」
両手にお菓子とジュースを抱えて屋上にやって来たのは、写真愛好会の貴重な後輩、三木くんだ。
「みっきー、ありがとう」
あたしは手を振って、それから隣のあやなをチラリと見る。お互いの視線が噛み合う。
あやなの表情にあたしは、どきりとした。
「私、ちょっと、忘れ物とりに行ってくる。しばらく戻らないかも」
みっきーとすれ違うようにして、慌ててあやなは走り去って行ってしまった。
「えっ、あやな先輩?」
せっかく買ってきたのに、とつぶやいてみっきーはあたしの前に座る。
あやなの制服のスカートが、扉に隠れたのを見送って、あたしは少しだけ気まずい。
なんで、泣きそうな顔するのよ。
「みっきー、恋ってなんだ?」
ミルクティーを受け取りながら、あたしはみっきーに尋ねる。
「え? なんすか急に」
「別に。気になっただけ」
あたしは、屋上から下を眺める。
サッカー部もちょうど休憩に入ったようだ。こんなに遠く離れていても、吉村先輩がどこにいるか、あたしにはすぐわかる。
手足が長くて、背が高い。笑った時にみせる八重歯がかわいい。そこら辺のアイドルより、かっこいいし、輝いている吉村先輩。
水分補給している吉村先輩に近づいていく女子を見つけて、あたしは目を逸らした。
「ひまり先輩は、吉村先輩に恋してるじゃないですか」
あたしの視線を盗み見たみっきーが言った。
「してないよ」
「え、ちがうんですか?」
「ちがう」
サッカー部マネージャー。二年B組、一ノ瀬七海。漫画に出てきそうなヒロイン。お似合いの二人。
あたしの方が、先に吉村先輩の魅力に気がついていたのにな。
けど、仕方がない。だって、先輩は彼女を選んだのだ。それに、あたしはこうやって先輩を見ている方が好きだって、気がついてしまったから。
「吉村先輩は、たしかに沼だけど。沼っていうのはさ、本気にしちゃだめなんだよ。リアルになった途端、終わっちゃうわけ。こうやって、常に憧れにしておけば、毎日が少しだけ楽しい。そういう存在に留めておかないと」
「ふぅん。むずかしいっすね」
「後輩よ、わかってないな? この乙女心が」
そんなんだから、あやなを泣かせてしまうのだ。
「先輩は茂吉の課題、吉村先輩の写真を出すんですか?」
「いやいや、さすがにそれはマズイでしょ。適当に写真撮って、提出するよ」
あたしはカメラを手に取り、適当な場所に向けて構える。どこに向けても、空が写り込む。
さっきのあやなの顔が思い出された。
── わかっちゃうんだ。レンズ越しに見ていれば。わかっちゃうの。
「ひまり先輩って、よく空を撮ってますよね」
「空はどこにでもあるからねえ〜」
青くって、遠くって、届かない、汚れを知らないうつくしい空。
「憧憬ってやつかな」
だから楽しい。
苦い想いをしたり、泣きたくなったり、嫉妬したり、そんな思いをしたくないから。
きっと、たぶん、これは恋じゃない。
「みっきー、青春ってなんだ?」
「えーまたですか?」
あたしはカメラをおろして、困り顔のみっきーをにらみつける。
「そうだよ。早く答えたまえ」
「うーん」
みっきーは自分のカメラをもてあそぶ。
青春ってなんだろう。
恋ってなんだろう。
吉村先輩は、あたしの推しでしかない。
いや、推しになった。
けど。
あたしは、どうしたいのだろう?
どうなりたいのだろう?
今ならあやなと青春らしく、恋バナができるかもしれない。
「ひまり先輩」
「なに?」
「コアラの──?」
「マーチ」
カシャリ。
「えっ?」
カメラから顔を外したみっきーが、笑っている。
五月の風が吹いて、みっきーの長い前髪をかきあげていく。丸いおでこが見えて、整った眉毛が印象的にあとをのこした。
──みっきーって、こんな顔してたっけ?
「なんで写真撮ったの?」
「これが俺の青春だから」
みっきーが青空を仰いでから、あたしを見て微笑む。
「ひまり先輩、好きですよ」
沼からみる青 あまくに みか @amamika
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます