第六章 意外な人物【KAC20236】

いとうみこと

第6話

「ぶえええっくしょい!」


 人通りの途絶えた商店街に響き渡るくしゃみはかおりの背筋を凍らせた。こんなところを誰かに見られて兄に告げ口でもされたらそれこそ大変だ。和也は優しくていい兄だがちょっとシスコンのきらいがある。香は急いで店の鍵を開けるとびしょ濡れの桃野を中に押し込んだ。


 花屋の店内は冷蔵ケースのせいで基本的に寒い。香は戸惑う桃野を二階へと追い立てた。今は休憩室になっている和室は和也が独身時代によく寝泊まりしていた部屋で、今でも男物の衣類が一通り揃っている。香はバスタオルと着替え一式を座卓に載せエアコンのスイッチを入れると「靴を乾かして来ます」とだけ言って襖を閉め階下へと足音も高らかに駆け下りた。音を立てたのは自分が部屋から離れたことを知らせるためだ。いちばん下まで下りてから上の様子を窺ったが、何の物音もしなかった。


 きっと諦めて着替え始めたのだろうと考えた香は、電気ポットで湯を沸かしながらちぎって丸めた新聞紙を次々と靴に詰めた。幸いなことに高い靴ではなさそうだ。最初に会った時はクロックスだったのに、なぜ今日に限って革靴なんだと文句を言っていると湯が沸く音がした。香はせめてもの償いにとっておきの紅茶を用意して階段を上った。


「開けてもいいですか?」


 部屋の外から声を掛けると「はい」とくぐもった声がした。そっと襖を開けるとふわりと暖かい風がこぼれ、グレーのジャージに着替え座卓の向こう側に座っている桃野と目が合った。眼鏡を外しているせいか視線に遠慮がなく真っ直ぐ香を見据えている。タオルで拭いただけの髪は相変わらずぐしゃぐしゃだが、その顔は意外と整っていて香はうっかり見とれてしまった。


「あの、何か?」


 不自然な沈黙は桃野によって破られた。


「あ、はい、ごめんなさい。紅茶持ってきました。熱いうちにどうぞ」


 香は桃野の向かい側に座って紅茶を差し出した。桃野の横にはスーツ一式が入ったビニール袋とレンズが外れた眼鏡がある。香の脳裏に尻餅をついたまま呆然と噴水を浴びる桃野が甦った。


「ほんとすみませんでした。助けてもらったのに」


「いや、こっちこそ……」


 桃野はうつむいて頬を染めた。またしてもふたりの間に気まずい空気が流れ、部屋には古いエアコンの運転音だけが響いた。


(それにしても綺麗な顔)


 香は桃野が目を逸らしているのをいいことに再びその顔をそっと観察した。程よく日焼けした肌、乱れた前髪から覗く太めの眉とその下のくっきりした二重、意志の強そうな鼻筋の下には情熱的な厚めの唇。あれ、でもこの顔、どこかで見たような……


「沖縄っぽい……」


「えっ?」


 顔を上げた桃野とまともに目が合って香は慌てた。


「いや、あの、顔が濃くて、違う、そうじゃなくて、その、ルーツは沖縄かなあ、なんて……ごめんなさい! 忘れてください!」


 香は両手で顔を覆って首を振った。何でそんなことを口走ったのか自分でもよくわからない。こっそり顔を見ていたことがバレてしまったのが今はとにかく恥ずかしかった。


 その時意外なことが起こった。桃野がクスクスと笑い出したのだ。驚いて顔を上げた香の前で、もう堪えきれないとばかりに桃野が

声を立てて笑い出した。


「おんなじこと言ってるし。かおりん先輩変わんねえ」


「え? 何? どういうこと?」


 慌てる香を置き去りにしてひとしきり笑った後、尚も声を揺らしながら桃野が言った。


「覚えてないですか? 大学のサークルで二コ下にいた桃野です。新歓コンパで酔ったかおりん先輩が俺の顔両手で挟んで『あんたは沖縄出身なの?』って聞いたんですよ」


「え、待って、え……」


 香の頭の中で大学時代のスライドショーが始まった。当時在籍していたのは紙飛行機サークルで、他大学も含めると百人近い大所帯だった。しかも大半が男で、更に下級生となるとなかなかヒットしない。


「桃野、ももの……ももたん、ももんが……ももクロ……あ、もしかして、ももクロ? 名前は色白なのに顔は色黒のももクロなの?」


 桃野の顔がぱっと輝く。


「それです。そのキャッチコピー思い出してもらえましたか?」


「え、あ、でも当時は桃以上にふっくらしてなかった?」


「ああ、筋トレに目覚めて今はこんな感じです」


 そう言うと袖をまくりあげて逞しい上腕二頭筋を披露した。


「それに眼鏡じゃなかったよね?」


「ドライアイでコンタクトは諦めました」


「うわー、そっかー、それでかあ、全然わかんなかったもんなあ。十年ぶりくらい?」


「十二年です。先輩はあんまり変わってませんね」


「それはいい意味で、だよね?」


 それからふたりはこれまでのいきさつなど忘れたかのように思い出話に花を咲かせた。


「ところで、いつよつ葉に入ったの? 新卒?」


 冷めた紅茶を入れ直したタイミングで香が話題を変えた。


「いや、中途です。本社採用だったんですけどヘルプで呼ばれて二年前にこっち来ました」


「二年前って」


「そう、先輩の後釜です」


 香の顔が曇った。


「もしかして、話聞いてる?」


「はい、河野課長代理から聞きました」


 再び香が黙り込む。桃野は前のめりになって香の顔をのぞき込んだ。


「先輩『七転び八起き』って諺知ってます?」


「え、まあ知ってるけど」


 怪訝な顔で香が答える。桃野は更に前のめりになって明るく言った。


「僕にとってその言葉は、七回嫌なことが続いたら次は八回いいことが続くって意味なんです」



         つづく

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第六章 意外な人物【KAC20236】 いとうみこと @Ito-Mikoto

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