第3話 「おやすみ、娘」

 その日も、ピンクの花びらがふりしきっていた。


 シノが庭に植えた桜、おれたちの娘である『プルヌス』は満開になり、はらひらとふりしきった。

 おれはもう、立っていられなくてプルヌスの根元で泣きじゃくっていた。


「プルヌ、そんなに咲かなくていい。お母さんは、もうおまえを見ないんだ。おまえだけじゃない、おれのことも、もう見ないんだ」



 2時間前、シノは静かに息を引き取った。彼女を苦しめつづけた病が原因ではなく、老衰で亡くなった。

 しずかな、とてもしずかな最期だった。

 彼女はおれをみて、わらった。


「ありがとう。あなたの体と生きた時間は、とても暖かかった。サンギの体だから、一緒に生きてこられたのね。ありがとう」


 シノはおれを見た。

 おれの眼球でおれを見て、おれの声帯でしゃべって、おれの肺で呼吸をしていた。

 おれの筋肉で腕を上げて、そっと顔を撫でてくれた。


 気が付いた。


 おれはシノの体に入った筋肉を経由して、彼女と一緒に生きていたんだ。ふたりは別々の固体でありながら、同じ時間を共有していた。

 おれはシノであり、シノはおれだった。

 なんという幸せな一生だったのだろう。

 シノもきっと同じことを考えていた。


「ありがとう、サンギ」


 そういって彼女は静かに目を閉じた。

 彼女の中のおれの筋肉もしずかに動きを止めた。

 役目を、終えたんだ。



 彼女とおれの筋肉、おれの内臓はいってしまった。

 おれ一人を残して。




 おれはシノの髪を切り取り、庭へ出た。プルヌの根元に埋めようと思ったんだ。

 前夜の雨でぬれている土を掘っている途中、動けなくなった。



「シノのいない世界に、なんのいみがある?」


 おれのうえに、プルヌの花びらが降りしきる。手にした白銀の糸の上に花が積み重なる。

 薄いピンクの花びら。

 あの日、病院で初めての移植を決めたときシノの爪は同じ色をしていた。

 時間とともに彼女の爪は固くなり、色も変わっていったけど。小さな花びらのような形は今も同じだ。

 そしておれの手は50年前とかわりようがない。

 しわもなく、痛みもこわばりもなく、この先100年を約束された手だ。

 無為な100年。

 シノのいない100年。


 おれは白銀の髪とプルヌの花びらの上に顔をおしあてた。

 神はほんのりと温かくしめり、まるで生きているようだった。


「いやだ、いやだいやだ。ひとりじゃどうにもならない。助けてくれ、シノ! 助けてくれ、プルヌ!」


 そのとき、プルヌの枝がぶるっとふるえた。

 まるで優雅に踊る筋肉のように、桜の枝がふるりと、ふるえたんだ。

 ふるり。ふるり。

 プルヌは自由に動いているみたいだった。


『おとうさん、動かせるのよ。

 自分の体って、自由に動かせるのよ。

 筋肉、内臓、筋肉、内臓、動かせるの。

 動かせるのよ……』




 ふと、おれは思い出した。

 50年前、あの医者は何と言った?


『最新技術の人工パーツなので、いろいろなオプションも付けられますよ。不随意筋肉を随意筋肉に変えることも可能……』


 そうだ。

 おれの筋肉はテストパーツのままだ。だから今の人工筋肉では、倫理上の問題で付けられないオプション機能が残っている。

 

『不随意筋肉を、随意筋肉に』


 普段は意識しなかったが、おれは不随意筋肉を自分の意志で動かせるのだ。

 本来なら自律神経が生存のために自動的に動かしている筋肉を、おれは好きなように動かせる。


 たとえば心筋。

 心臓の筋肉。

 

 自由に動かせるということは、自由にとめられる……。

 自分の意志で、とめられる。





 今日も不思議なくらいに桜が舞っている。


 おれは眠るシノを庭に運び、その隣によこたわった。

 蒼天が、天上の底へ駆け抜けるようだ。

 ちいさくなったシノの手と手をつなぐ。

 頭上にはシノが植えた桜、おれたちの娘である『プルヌ』が爛漫に咲きほこっている。


 おれはずっと、桜がきらいだった。シノの病が分かったあの日を思い出させるからだ。

 だけどいまプルヌの花につつまれて、おれは静かに目を閉じる。

 かたわらには50年をいっしょに生きた大事な女が眠っている。

 シノとともに眠ることほど、幸せなことはないだろう。



 この春は、なかった事にしておくれ、プルヌ。

 おまえのなかに永遠の未来が残るように。

 次の春も、永遠の希望を咲かせるために。


 とん、と心臓が最後の鼓動をうった。



 おやすみ、娘。

 おやすみ、娘。



 どうか神さま。

 この春は、なかったことに。

 おれの大事な女たちが、永遠の桜に包まれますように。




【了】



『この春は、なかったことに』

2023年3月13日

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【KAC20235】「この春は、なかったことに」 水ぎわ @matsuko0421

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