筋トレ坂

律華 須美寿

筋トレ坂

 唐突だが、私の住むこの町は『田舎』だ。間違いなくそうだ。間違っても、都会だなんて絶対に言えない。

 だからと言って流石に、見渡す限りの田んぼの世界であるとか、近くのスーパーまで小一時間は掛かるとかいうわけではないが、それでも大型商業施設のような場所は隣町にしかないし、駅には急行は止まらないし、道を行く車の密度も明らかにまばらだ。都会ならこうはいかないはずだ。あらゆるもののアクセスが悪すぎる。ふとした日常の中で衝突する『不便』があまりにも多い。

「…………」

 それともう一つ、田舎町ならではの問題が存在する。

「……あ~、どうしよ……」

 田舎の道には、坂が多い。


 つい一時間ほど前のこと。パンクした自転車を修理するため、家から相棒を転がし転がし、私はホームセンターに向かった。否かのホームセンターとは言え土曜日の昼間。さすがの盛況ぶりを見せる駐車場を突っ切って自転車屋に向かうのは中々に骨だったが、そんなことより一時間もかけて壊れた自転車を押して歩く方が何倍も大変だった。当然だろう。なにせ本来人が乗って移動するための道具に両手をついて、わざわざ歩いて動かしてやらなければならなかったのだから。しかも一定周期で腕にはガタンと嫌な衝撃まで来る始末。空気の抜けた後輪タイヤがあげる抗議の叫びだ。それは私の自転車使いの粗さについてだったのか、はたまた修理せず何週間も放置していたことに対する不満だったのか。今となってはわからない。来週末に取りに行くことになっているあ奴に聞くほかない。これで一安心。家に帰ってゆっくり休日を謳歌できるはずだった。

「……しまったなァ~」

 それがこれだ。わかっていたはずなのに。ホームセンターから帰る道には殺人的に高い坂があるということは。この辺りの中学校の運動部員たちから『筋トレ坂』と呼ばれて親しまれ、もとい恨まれている場所があるということは。なにせ私自身がこれにお世話になったことがあるのだから。何を隠そう中学生時代、漠然とした「陸上選手ってかっこいいよね」というだけの理由で陸上部に入った私が毎週ここを昇らされていたのだから。そのせいで土日休みが嫌いになりかけたぐらいだったのだから。

「……今にして思えば、あれ異常だったよね……はは……」

 坂を挟むように出来た壁に目をやる。そこにはいくつもの張り紙や落書きが散見される。ここからでは読めないが内容は知っている。学生の騒音や無法な筋トレ野郎どものせいで迷惑を被ったご近所さんが張り付けた抗議文だ。一度学校でもトラブルになったことがある。だから確か、私の下の代の子たちは筋トレ坂を知らないはずだ。未だつながりのある陸上部SNSでも、話題に上る際は『昔のヤバイ部の伝統』ネタとしてのみだ。なんとも羨ましい話である。

 閑話休題。私が困っているのは『今』のことだ。今からこの坂を昇るのか否か。

「でも……今から戻るのもなぁ……」

 振り返りつつ呟く。ここは住宅街と大通りの境目。脇道に逸れると高確率で誰かの家の前にしかたどり着けない。それを避けてまた曲がると、今度は児童公園にご到着。それを裂けてまたまた曲がると……と、かなりの大通りを強いられてしまう。そして振り返った先、大通り側に向かうことの出来る曲道まで行くためにはそれなりに歩かなくてはいけないのだ。すでに私の両足は疲労の頂点であり、心臓は軽く肋骨を叩いて頑張っている状態だし、脳味噌だって思考を放棄し始めるくらいには限界に向かっている。早く家に帰りたくて仕方ないのだ。帰って冷たいコーラを飲みたいのだ。車を出してくれなかった母に文句を言いながら撮り溜めたアニメでも消化したいのだ。

「…………」

 戻るなんてありえない。絶対嫌だ。

「……うぅ~…………仕方ない! もう、来ちゃったモンは仕方ない!」

 頬を叩いて天を仰ぐ。こうなったら覚悟を決めるしかない。休日を祝うように晴れ渡った空が今だけは憎い。少しぐらい雲があってもいいじゃん。日差しだけで、額に汗が出そうだよ。

「…………」

 一歩踏み出す。これ以上文句を言っても始まらない。坂の始まりに足をかけ、前へ。流石の傾斜だ。もう一歩。体が後ろに引っ張られるようだ。さらに一歩。

「はあ……はあ……はァいしょ……ッ!」

 既にパンパンなふくらはぎに鞭を打って前へ。前より角度エグくなった?膝を始点にもう片足も。重い。重すぎる。これではまるで米俵でも担いでいるようだ。

「はっ……これ……はっ……ほ、ホントに……はっ、やば…………!」

 膝に手をつく。肩で息を吐く。全身の筋肉が震えている。この感覚は知っている。陸上部時代に何度も経験した。肉体が限界を迎えると、人の体は痙攣し始めるのだ。筋肉の反応なのか神経がおかしくなってるのか、そんなことまでは知らないが、とにかくこれはまずい。まだ坂の半分も登れていないのに、私はもう動けなくなってしまった。

「こ、これ……はっ……さすがに……はあ、はっ…………衰え……っ、すぎ…………!」

 これでは老人だ。私まだ高校生なのに。額に浮かんだ汗の雫を強引に拭う。

 いや。いや違う。

「いや……はっ……はあ……これ……これは…………」

 これは。

「重すぎる…………っ!?」

 上体が揺れる。何とか踏ん張る。自らの影と目が合う。

「…………えっ」

 そして気付いた。

「なに……これ……」

 私の影と重なるように、『なにか』の影があることに。

 丁度上半身と重なるような位置だ。空に浮かんでいるのか、そこらの壁から張り出しているのか。とにかく地面には接していなさそうだ。地面から完全に離れて、影が浮いている。

「か……影……はあ……って、いう……か……はっ……」

 じっとりと、背中を汗が伝う。

 どっしりと、腰に重みがかかる。

 違う。これは、これは影じゃない。

「………………! ……『背中に』……!」

 夢中で手を伸ばす。得体のしれない『それ』を振り払うために。

「退いて……ッ!」

 しかしその手が何かに触れることはなかった。影の正体を掴むこともなかった。

「危ないナァ~! 危ナイ、危ナイ……」

 確かに影には触れたのに。

「え…………っ……?」

 足元の影が、鬱陶しそうに身をよじっているのに。

「だ…………!」

 「誰だ」。そう聞いてやるつもりだった。振り返って、背中の何者かを問いつめてやるつもりだった。

「わしが誰かッテ~? ……聞きタイ? 聞きたいだろウネ~! みんなそうだ。 わしが『手伝いに来た』奴らは皆そう言ウ」

「えっ……?」

 だが私に質問の機会はなかった。向こうが先に答えたから。まるで私の心が読めるみたいに。

「あえて答えるなら、そうダナ~……。 『筋トレの怪』……カナ~……?」

「き……筋トレ……?」

「そうソウ」

 呑気そうな老人口調で先に全て答えてしまうから。私は黙って聞くしかなくなってしまったのだ。

「君も覚えがあるダロ~? ここを昇ってことはダナ~。 ……そうだろう? 言永ことながひかり

「な…………!?」

 私のことを、すべて知っているかのような口調で喋りだしたから。


 『筋トレ坂』を昇り始めて既に十分は経っているだろう。未だ太陽の位置は高く、空には雲の一つもない。

「おま……え……」

 私の体を隠すものは何もない。上機嫌で笑うこの背中の『何者か』を退けるものも、何も。

「……筋トレの……怪だって……? ……はっ、な、何を……!」

「何を気にしテル?」

 ゆっくりゆっくり歩み寄った壁に片手をつく。左側には住宅の高い塀があり、右側にはアパートの背中がある。左右にも逃げ道はない。今更後ろへも行けない。転げ落ちて怪我をするのが目に見えている。

「お前たちはここへ来るとき、必ず言うじゃなイカ。 『ここは足腰のいいトレーニングが出来る場所だ』って……。 周りの家の人間が腹を立ててもお構いなシダ。 いつも子供の群れや大人がやって来ル……。 それほどまでに魅力的なんだろう? ここでの『トレーニング』は……。 だからわしが手伝ってやろうって、そう言ってるだけじゃなイカ……」

「何……だって…………?」

 本気で言っているのか。思わず振り返る。私の首の可動域では件の怪の姿は見えない。何かとてつもなく重く、小さい何かが背中に張り付いていることしかわからない。得体の知れない存在への恐怖が、その存在へと歩み寄ることによる『相互不理解』への嫌悪へとすり替わっていく。

「だったら……」

歯の間から押し出すように、言葉を吐く。

「だったら最初から……トレーニングしに来た奴だけに張り付けばいいだろ……! 何も、何も私になんてくっ付く必要ないでしょ! ……はぁ、はっ……ここの住人だって来るんだろ? ここ……皆にも……はあ……張り付いてるのかよ……?」

 もう立っていられない。ゆっくり、ゆっくりと体を塀に押し付けるようにして地面に膝をつく。アスファルトの硬さが膝小僧を痛めつけるが気にする余裕なんてない。意識だけは失わないよう、懸命に歯を食いしばる。

「言っタロ? ここに来る人間は全て『トレーニングしに来る人間』だ……。 それ以外と分類するなんて、そんな面倒なことわしにさせるナヨ……。 ……人間なんて皆同ジダ。 わしらには見分けがつかない」

 話が微妙にかみ合っていない。こいつ、人間の言葉には疎いのか?考えてすぐに違うと気づいた。そもそもこいつは人間じゃない。『妖怪』だ。人が妖怪を理解できないことと同じように、本質的にはこいつらも人を理解することなんてできないのだ。こいつは単純に、ここに来る人間の行動を機械的に観察して理解した気になっているだけだ。そうして『手伝い』に来ただけだ。それが人間の願いなのだと勝手に判断して。

「こ……この……! あっ、はあ……っ……はた迷惑な……奴め……!」

「それも違ウ」

 耳に届く妖怪の声が近づいた気がした。身を乗り出したのか。肩にかかる重圧が増す。

「わしは人の願いを食ってここに住んでるンダ……。 わしがここに居続けられたのはなぜだと思ってる……? トレーニング志望の連中からの感謝だけで生きていけるとでも……? ……違ウ……。 わしはもっと、良いものを食っテル」

 からん。ポケットから携帯が落ちる。画面が上で良かった。場違いな思考を振り払うように首が傾く。妖怪が、首を掴んでいる。

「な……!」

「抵抗すルナ! 首がねじれて死ヌゾ! ……抵抗せず、よく見るンダ……」

 抵抗も何も、導かれるままに見上げるしかない。アパートの壁を。そこに張り付いたものを。

「…………あ」

 【この坂をトレーニングのために使わないでください】

 【近所迷惑! 学生は帰れ!!】

「あ……あれ……を……?」

「そウダ!」

 【夜間、早朝の騒音に困っています! ケイサツに連絡します】

 【NO TRAINING】

「あれ……はっ、は……あれが……感謝……?」

 信じられない。言っていることが合っていない。

 あれは『抗議』だ。人に向ける感謝の気持ちとは全く別物のはず。こいつ、一体何を?

「わしがここに現れてから、周囲の人間が皆一様に『感謝』してくれるようになッタ! トレーニング人間が現れない日も、いつモダ! ……わしが『手伝い』をしたかラダ! だから人間が感謝をしてイルッ!! ……わしはここからいなくなったりしなイゾ……ここにいて、ここで手伝いを続ける限り、わしは絶対に食いぱっぐれナイッ!!」

「……言葉が読めないのかよォ~ッ!!」

 思わず叫んだ。こいつ、完全に勘違いしている。人間を理解できていないとは言ったが想像以上だ。こいつ、本気でこんなこと言っているのか。

「さぁ、言永光。 ……お前の番ダ……! お前もわしに『感謝』しろ……! お前の感謝で、わしの腹を満タセ……ッ!!」

「ぐ……っ、あ……はぁ……はぁ……は……っ、はあ…………!」

 叫んだことが仇になった。最早体力の限界だ。坂に這いつくばるようにして荒い息を吐くしかできない。足の感覚がない。腕も背中も、顎も。すべての筋肉の限界を超えてしまった。筋肉痛ですらない。これはもう、肉体の『死』なのかもしれない。

「……………………」

 顔の前にスマホがある。軽い電子音の後、画面が点いた。友人たちから連絡が来たのだ。陸上部時代の友人だ。OB・OGに現役も混ざったSNSの共同ルームだった。こんなときに、と思わないでもないが、こんなときだからこそなのかも知れない。あのとき私を苦しめた坂が、今再び、私の命を脅かしている、今だからこそ――

「……何しテル? 連絡か……? こんなときに……?」

「ああ……こんなときだからだよ……」

「……?」

 時間をかけて打ち込んだ、たった数文字の投稿。もしかしたら、私の最期の言葉になるかもしれない文字列。

「……何て書イタ? 人間の言葉は読めナイ。 ……わしへの感謝より重要な文カ? 本当に?」

「…………」

 ピロン。

 ピロン。ピロン。腕の中で電子音が続く。みんなだ。みんなが私の投稿に反応してくれている。

「オイ! 黙ってんじゃあなイゾ! ……こんなに『手伝って』やってるんだ……早く感謝を寄越セ! オイ!!」

「感謝……はぁ……感謝……はっ……感謝って……っ、はあ……」

 ピロン。ピロン。ピロン。音は止まない。指を振るわせる振動もやまない。ゆっくり、ゆっくりと、体を持ち上げる。

「お前……っ、は……。 人の気も……知らないで…………」

「お、オッ……?」

 妖怪の声に初めて動揺が走る。気にせず足に力を込める。いける。みんなの言葉が、気持ちが。確かに私に力をくれる。

「…………ふざけたこと言ってんじゃあないぞッ!!!」

「おおおオオッ!!?」

 壁に手を突きながら、立ち上がった。さっきまで立っていることも出来なかったのに。全身の筋肉が悲鳴すら上げられずにいたのに。

「どうシタッ!? まだ『手伝ってる』ノニ……ッ!」

「確かにね……まだ重い……。 ……でも確かに、重さは軽減したよ……」

 ナゼ!?相変わらずの背後の声に語り掛けるのは止めない。辛うじて生まれたこの好機を逃さないために。歩き出すこの足を、止めないために。

「お前……お前、人間のこと全然理解できてないのに……そういうとこだけは敏感なんだな……。 人間の『感情』。 食べ物にしてるだけのことはある」

 振り返って、一歩。転んでしまっては元も子もない。慎重に踏み出す。震える足に鞭打って、もう一歩。

「だからどうしたと聞いてるンダッ! ……わしはこんなに手伝ってるんダゾ……! なのに……なのに、お前…………」

 歩き出したらまた息が上がってきた。ほとんど壁に体を擦るようにして進み続ける。もう少し。もう少しだ。

「…………この住民の感謝でも賄えない、この感情はなんだと聞いてるンダッ!!」

「……そういうとこだよ……ホント…………」

 ピロン。手の中からまだ音がする。どんどん軽くなっていく。どんどん力が戻って来る。

「また……! ……それか……それのせいか……! その音はなんだ……お前……一体……一体、何を書き込んだ……ッ!」

「簡単なことだよ」

 つま先が坂の境界に触れた。肩を掴む力が強くなった気がする。構わず腕を持ち上げる。スマホの画面は、点いたまま。

「『筋トレ坂にいる』……陸上部のみんなにそう送っただけだよ……ここに世話になった人間は沢山いるから……みんながここのことを一斉に話題にしたんだ……!」

 【黒歴史】【ネタでも話題にすんじゃねーっての】

 【エッ! 何しに!?】【なんだかんだ好きですねw】

 SNSに踊る坂への『怨嗟』。感謝の感情を喰らう怪物にとっては何よりの毒物だったに違いない。それもこれほどの量を短期間に。『坂』周辺の人間よりもSNSの人数の方が多い。ならば確実に、この毒を以てもう一つの毒を中和できるはずだ。

「あ……ああ……わしの飯が…………!」

 坂から離れた部位から急激に軽くなっていく。肉体が受けた疲労までは消えないが、それでもましだ。まるで海から上がるように。鎧でも脱ぐように。毒が消えていく。

 【よ~し今から駆けあがり10セットだ! 歩いた奴は追加で1セット! (悪魔の台詞)】

 【結局転んで病院行った私w ←】【出た勝ち組】【練習中止にしたFファインPプレーじゃん (オイ】

「許さん……許さんぞお前ェ……!」

「それはこっちの台詞だよ。 ……まったく……お前って奴は……本当に……!」

 先ほどまでとは違う理由で歯を食いしばる。ふつふつと湧き上がってきたこの感情は、感謝でも憎悪でもなく、ただ強烈な一つの衝動だった。

「――人のこと、ナメてんじゃねぇぞッ!!!」

「オ――――!」

 平地に立って振り返った先には何もいなかった。背中の上にも勿論。真上に広がるのは、いつも通りの平和でのどかな、田舎町の青空のみ。

「……せめて日本語ぐらい勉強しろよ……日本の妖怪なら……」

 帰ったら爆睡決定だな。どうやら私にとって、土日休みは未だに敵のままでいるらしかった。

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