後編

「ゴッちゃん、待ったー?」

 

 ソウタが気の抜けたような、いつもの笑顔でやってくる。


「待った待った、百万年待った」


 学食のざわめきのなか、わたしは軽口をたたきながら荷物をどけて、隣の席を空けてやる。

 単位がヤバかったけどなんとかなりそうとか、他愛ない話をする。


「これ、見た?」


 ソウタがスマートフォンで動画を見せる。パルクール風の動きでかっこよく跳んでいた人が、足をすべらせ、漫画みたいに一回転して、また駆けていく。


「すごいよね」

「なんでこんな着地できんだろ」

「……就活、どう?」


ソウタがさりげなさを装って聞く。わたしはリクルートスーツで脚をわざとらしく組んで腕を組み、胸を張る。


「ぜんっぜん、だめ」

「そっか」

「わたし、休学してるし。地元帰って、公務員とか目指すかもしんない」

「そっか」


二回目の「そっか」は、残念を通り越して、暗い顔になった。ソウタはわかりやすい。そのうえ筋肉がない。文学部でいわゆる“ヒョロガリ”で人がよくて、だから安心して一緒にいられる。

 

 大学二年生のとき、あの事件があって、わたしは一年休学した。地元に帰って三カ月はやさしかった親も、やがて「バイトぐらいしたら」と言うようになった。


「あんた自身が被害にあったわけじゃないんでしょ?」


 それもそうだなとコンビニでバイトをはじめ、わたしは挫折した。おそらく工事現場で働いているのであろう薄いシャツに筋肉の形が浮かび上がる男性がレジ前に立ったとき、その場で吐いてしまった。その日は「体調が悪くて」と店長にあやまったけれど、桜貝みたいな色のワンピースをひらひらさせた女の子を見かけたとき、涙が止まらなくなってもうごまかせなくなった。

 実家での腫物扱いに疲れ、結局、東京に戻って学内のカウンセリングサービスを利用して、わたしは復学した。ソウタと知り合ったのは、二度目の二年生を終えようとしているときだった。それから二年近く、ソウタとわたしはつるんでいる。


「バッティングセンター行こうよ。スカッとしたい」

「そのかっこうで?」

「パンプスなめんなよ」


わたしは笑って立ち上がる。でも、それが間違えだった。初夏。夕暮れ。バッティングセンターにはフェンスもあった。「ノリクラ先輩、かっこいいね」。ミチが笑う。いま、ミチは何をしてるんだろう。裁判では……だめだ、考えたくない。

 トイレに駆け込んで吐いて戻ると、ソウタが心底心配そうな顔をしていた。


「顔色すごい。医者行く? 俺、ついてく」

「ごめん、ほんとごめん、ちょっと気分悪くなっちゃっただけ」

「だいじょうぶ?  送るよ」


ソウタを振り切って、わたしは「また来週」と笑顔を作って手を振る。飲み会へ行くミチに、同じ言葉を言ったことを突然思い出した。いままで忘れていたのに。涙が止まらなくない、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。


***

「どしてるー?」


「げんきか?」

クマが手を振るスタンプ。


「体調悪いなら、なんか持ってくよ?」


 ソウタから一日に一、二回送られてくるメッセージをスクロールする。

 あの日から一週間、大学にも行っていない。なんとか決まっていた就活の面接もキャンセルした。ずっとふとんにもぐって、枕元に洗面器と水と、ゼリー飲料だけ置いて、食べては吐いた。外へなんて、出られない。親になんていえばいいんだろう。就職決まらず、卒業もできず、実家へ戻って、また腫物扱いのまま生きるんだろうか。その前に、わたしはもう、ふつうに生きられないのかもしれない。


 マーブル模様の靄がかかる。ぐるぐるする。


 そのとき、家のチャイムが鳴った。ドアスコープをのぞくと、ビニール袋を両手に下げたソウタが、気まずそうに立っていた。


「なに?」


わたしは玄関を開けるなり聞いた。我ながら感じが悪いと思う。それでも、ほうっておいてほしい気持ちが先に立った。

 ソウタはわたしの顔を見て、ぎょっとして、それでもそれをがんばって隠す。いいヤツだと思う。いいヤツだから、ここから早く立ち去って、わたしのことなんて忘れほしい。


「ゴッちゃん、オレ、おかゆとか、作るよ。こう見えても、料理、できるから」

「いいけど。わたし、吐いちゃうかもしれない」

「吐いてもいいよ。なんかあったかいもん食べなよ」


ソウタはそう言って、強引に部屋に入って、手を洗うと、いきなり台所に立った。


「ゴッちゃんはそっちで寝てて」


 トントンとまな板で野菜を切る音。うちの冷蔵庫には野菜なんてなかったはずだ。そんなものまで買ってきたのかと、ちょっとあきれるような気持ちになる。

 炊飯器から米が炊けるにおいがする。


「そっち、入るね」


 ソウタは結局、ご飯と味噌汁を作ってくれた。ネギとわかめ、炊き立てのご飯。


「おいしい」

「よかった」

「ゴッちゃん、落ち着いたら大学おいでよ」

「……もうダメだと思う」

「カウンセリングルームとか、あんじゃん」

「もう行ってる」


沈黙。


「オレにできること、なんかない?」


 わたしは腫れぼったい目でソウタを見る。ダメだ、やめるべきだ、と思う。わかってる。それなのに。


「じゃ、殴ってよ」


 ソウタが顔をひきつらせて、「冗談きついよ、ゴッちゃん」と言った。


「わたし、殴られたいひとなの」

「何言って」

「そういう趣味があるの。でもこんなこと、だれにも頼めないの、言えないの。ミ、ミチにだって……」


 言えなかった。誰にも言えなかった。ミチにも。ミチ、と口にしたら、感情が決壊した。わたしはわめいた、気がする。ノリクラ先輩がとか、あの日飲み会へ行けばよかったとか、ごめんなさい、とか。

 

 どこまで伝わったのかわからない。ソウタはただ真剣にわたしの話、というよりわめきを聞いていた。


「わかったよ」


 ひとしきりわめき終るとソウタはそう言って、わたしの腹を殴った。骨ばったこぶしを筋を立てるぐらいに握りしめているのに、「ぽふん」という感じで、わたしのお腹に当たった。ぽふん、ぽふん、ソウタはこぶしを当てて、泣いた。


「できないよ、オレ、ゴッちゃんのこと、好きだもん」


 人のよさそうな顔をぐずぐずにして、鼻水を流して、ソウタが泣いていた。


「ごめん、ごめんなさい」


わたしはあやまりながら泣いた。申し訳なくて泣いた。ソウタは何も悪くないのに。

そして思った。わたしが望めば殴ろうとして、でも、好きだからできない。このひとが好きだ。性欲は満たされなくても。


***


「待った?」


 ベンチに座っていたソウタが、荷物をどけながらいつもの軽口を言う。


「待った待った、百万年待った」


 足元には、赤や黄色の、落ち葉が散っている。


「カウンセリング、どうだった」

「まあ、いつもどおり」

「そっか」


 あの日からしばらくして、わたしは学内とは別のカウンセリングを受け、通院をやめていた心療内科にも足を向けるようになった。


 性欲と恋愛感情の乖離も。ミチへの罪悪感も。たぶん一生消えることはないのだ。わたしのなかに、靄はずっとずっとあり続けるだろう。わたしは一生、それと向き合っていく。

 ソウタを巻き込んだあの日、そう思えるようになった。そうしたら、楽になった。ふつう、逆じゃないかと思うんだけど。


「じゃ、行こうか」


ソウタが立ち上がってわたしの手をぎこちなく握る。わたしもぎこちなく握り返す。そうして落ち葉舞う道を、ふたりで歩きはじめた。
























 

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先輩の筋肉とわたし 丸毛鈴 @suzu_maruke

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