先輩の筋肉とわたし

丸毛鈴

前編

「ねっねっ、ノリクラ先輩って、やっぱりかっこいいよね」


 フェンスの金網に指をかけて、ミチが興奮した面持ちでわたしを見た。気持ちのよい初夏の風が吹いて、夕日に光る若葉がまぶしい。ミチのくったくのない笑顔が、ネイルをした桜貝みたいな爪が、同じぐらい、わたしにとってはまぶしい。


「かっこいいね」


とミチに答えながら、主に筋肉がね、とわたしは心の中だけでつけ加える。


「わっ、こっち見た!」


ネイルと同じ、桜貝みたいな淡い色のふんわりしたブラウスの袖を揺らし、ミチが手を振り返す。その頬が紅潮している。

 わたしは逆に、ノリクラ先輩から目をそらす。きっとノリクラ先輩は笑っている。むっちりと筋肉がついたラガーマンらしい体型、日に焼けた顔をくしゃっとさせて、そこには白い歯が光っている。その笑顔が目に浮かぶ。だから、見たくない。だってその笑顔を見ると、わたしは――。


――殴られたい。


あの笑顔で、あの筋肉で、暴力的にこぶしを腹に叩き込んでほしい。そう願ってしまうから。そして、それを想像して、下半身がうずくから。そのすべてが汚らわしく感じるから、わたしはノリクラ先輩から、目をそらす。


***


 練習を終えたノリクラ先輩は、ミチが差し出したスポーツドリンクを「ありがとう」と受け取った。


「みっちゃん、うちのマネージャーになってよ」

「そうできたら、よかったんですけど」


ミチは子どものときから続けているヴァイオリンの腕をかわれて、弦楽器のサークルに入っている。部活ほど厳しいわけじゃないけど、週に三日の練習は抜けられないらしい。


「そうだ、今度の金曜、みんなで飲み会やろうって言ってて。みっちゃんと、ゴトちゃんも来ない?」


背が高くてショートカットで、いまいち女の子っぽくないわたしにも、ノリクラ先輩は「ゴトちゃん」と呼びかけて、誘ってくれる。そういうところが、好き。わたしの頭のなかで、いつものマーブル模様ができはじめる。「やさしいから、ノリクラ先輩が、好き」「ノリクラ先輩に殴られて、思い切り感じたい」「でも、ノリクラ先輩がわたしを容赦なく殴る人間だったら、嫌だな」。

 そう、ノリクラ先輩と出会ってわかった。わたしの恋愛感情と性欲は、乖離してる。だから、わたしは曖昧に笑って答える。


「金曜はちょっと、用事があって」


***

 

――男のひとから、殴られたい。


 わたしがこのいわゆる“性癖”を身につけたのは、いつなのだろう。強烈に覚えているのは、『青の幻想曲』という漫画のことだ。ファンタジー世界を舞台に、友情と勇気、知恵で困難を乗り切っていく少年少女たち。王道のストーリーは、同時に容赦ない暴力描写で知られていた。いまでもコマの細かい部分まで思い出せるシーンがある。ヒロインが敵の怪物に思い切り腹を殴られて、海老反りになっている。ちいさなコマなのに、唾液が口から散っているところまでしっかりと描いてある。そして、次のコマでは、膝をついて嘔吐するヒロイン。

 それを見たとき、わたしはものすごく興奮した。いけないものだとわかっているのに、そのコマだけを繰り返し、繰り返し見てしまう。

 それが「多くの人の性癖を歪めた名シーン」のように語られているのを知ったときのは、大学生になってからだ。「あれで目覚めたヤツ、多いよね」。ここには仲間がたくさんいる! おかしなことで興奮するのは、わたしだけじゃなかったんだ! そう心を躍らせたのもつかの間、わたしは心底落胆した。このひとたちは、フィクションのそういうシーンに興奮しているだけだ。わたしみたいに、「わたしも同じように殴られたい」と思っているわけじゃない。


 大学生になって、ひとり暮らしになったんだから……。ネットで、一回ぐらいそういう相手を探してもいいんじゃないか。夜になると、暴力描写のある漫画やAVをネットであさりながら、そう思った。でも、怖い。わたしがされたいのは、腹を殴られ、背中を蹴られ、首を絞められることだ。わたしだって十九歳十カ月。まだまだ生きていたい。知らないひとにそんなことをされて、万が一でも命を落とすのはいやだ。性欲より命が大切。命の安全か性欲か。わたしの頭のなかには、常にマーブル模様の靄がかかっていた。


 もやもやした毎日のなか、大学二年生になったわたしは、英語の講義でミチと知り合った。「ラグビー部にね、ノリクラ先輩っていうかっこいい先輩がいるんだ」と誘われて、練習をときどき見に行くようになった。そうして、わたしはノリクラ先輩に出会い、頭の中のマーブル模様がひとつ増えた。


 ミチの応援に付き合ったのは、ノリクラ先輩だけが目当てじゃない。むしろ、ノリクラ先輩を見るのは性欲が刺激されて、歪んだ自分を直視することになって、苦しかった。ノリクラ先輩を「好き」と思うと、靄がかかって、やっぱり苦しかった。

 わたしは、ノリクラ先輩を応援してるミチを見るのが好きだった。練習を見に行くときはおめかしして、頬を染めて。育ちがよくて、よく笑って、ひとのことは悪く言わないミチ。ミチはわたしとは違う。曲がった性欲なんて持っていない。ノリクラ先輩に憧れて、おしゃべりしたり、手を握ったり、抱き合ったり、やさしくされて、その延長線上に肉体関係がある。そんなミチの隣にいるのが、わたしは好きだった。


 それなのに。


***

 大学の正門前に、マスコミのひとがうろついている。


「ラグビー部の不祥事について、ひと言」


 わたしは足早に通り過ぎる。何も語りたくない。何も思い出したくない。


「容疑者は、どんな学生だったんですか?」


 足を止めた学生が、「まじめでやさしい先輩で、女子にも人気がありましたよ」と答えるのが聞こえる。


 まじめでやさしくて、筋肉質の先輩は、金曜日の飲み会で、仲間たちと何人かの女の子を犯した。そのうちのひとりが急性アルコール中毒で嘔吐物が詰まって酸素が脳にいかなくて、後遺症が残った。それで、明るみになった。

 ミチはあれから大学に来ていない。

 先輩は、ぜんぜんやさしい人間ではなかった。わたしが劣情をもよおした筋肉が、そんなことを望みもしないだれかの人生を破壊した。めちゃくちゃに破壊した。いままでも、破壊していた。そんなものにわたしは憧れていた。頭のなかのマーブル模様の靄は、いまではどす黒い。いやなにおいがする。

 わたしはトイレへ駆けこんで吐いた。とたんに、お酒を飲まされて、意識がないまま吐いた子がいたことを思い出す。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

 どうしてあの日、ミチをひとりで行かせたんだろう。ミチ、ミチ、ミチ、ごめんなさい。

 指をのどに突っ込んでも、もう吐けない。わたしは便座にもたれかかったうめいた。うめいて、泣いた。


 わたしはそれから大学に行けなくなった。

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