あるレトロブームと何かの始まり

深見萩緒

あるレトロブームと何かの始まり


 人類というものが誕生してから今にいたるまで、その在りようは様々に進化してきた。

 道具を使うようになり、火と言葉を操り、やがて文字を獲得した。海を渡り山を越え、世界中に生息地を広げた。人間はあらゆるスキルを「獲得」することによって、万物の霊長たりえてきたのだ。

 人類が「獲得」ではなく「喪失」して進化したのは、四足歩行を捨てて二本足で歩くようになったことくらいだろうか。


 とはいえ、それも過去の話だ。人類は、有機生物として行くところまで行ってしまった。科学、物理、世界を構成する全ての要素を支配するようになった人類が目指したのは、完璧な存在……神の座だった。すなわち老いることなく、死ぬこともなく、あらゆる苦しみから解放された存在。


 そのための第一歩として、人類は有機生物としての皮、肉体を捨て去った。当時生存していた人類のうち約七割が、自意識を概念子(量子ゆらぎを多角的に観測したときに始めて定義される虚数的素子)データ上に移植したのである。

 概念子は物質コンピュータと違い、物質的基盤がなくとも虚数世界に漂う粒子として存在が可能である。つまり人類は、物資というものから完全に解放された。

 アフリカ大陸から世界中に拡散した人類は、とうとう物質的世界から概念的世界へまで大移動したのだ。


 これにより、人類にとっての死は「自らの選択で自意識概念子を希釈することで到達する無我的状態」と再定義された。寿命や事故での死というものが一切なくなったのである。

 ここに至るまで、人類はおよそ数十億年の時間を要した。しかし、それだけの時間をかける価値のある進化だった。概念人類にとっては、もはや時間というものすら無意味なのだから。

 不老不死、そして永遠。神にのみ許されたものをとうとう手にした人類は、概念的世界から物質的世界を観測する存在へと進化したのだ。



 それはともかくとして、今、概念人類の間で筋トレが流行っている。


 ある種のレトロブームである。概念的世界をある程度満喫した人類は、持て余した永遠の中で「なんだかんだ言って、物質世界も良かったよね」と過去を振り返る。

 概念人類に忘却はない。その必要がなくなった今となっても、食事や排泄といった行為がどういうものであったか、ありありと思い出せる。(それは仮想肉体に仮想電気信号を送って物理的レスポンスを得るというある種のシミュレーションなのだが、概念人類にとってはそれこそが「思い出す」という行為なのだ)


 本レトロブームにおいて、想起が好まれたのは主に「食事」と、それに伴う「味覚」や「満腹」の概念だった。また、「睡眠」や「適度な眠気」なども好まれた。

 そんな中で、食事や睡眠とはまた違った趣向として話題となったのが「筋トレ」だった。



 筋肉とは、物質的世界において生物が物理的干渉を行いたい場合、それを可能にする有機器官である。人類がまだ物質的存在であったとき、筋肉の有無は生存のために重要であったという。

 ある程度文明が発展したあとも、人類は筋肉を鍛え続けることに余念がなかった。スポーツ(ルールを設けて肉体の優劣を競う遊興)を有利に運ぶために筋肉は必要であったし、筋肉に対して視覚的美を覚える個体も少なからず存在したという。


 筋肉。それを鍛えること。すなわち筋トレ。レトロブームに沸く概念人類たち(の、一部)は、「極限まで鍛えられた肉体」に憧れたのである。


 しかし概念人類たちは、ここで根本的問題にぶち当たった。概念人類には、肉体がない。

 食事や睡眠であれば、それらの「感覚」をシミュレートすることにより、擬似的にそれらを体験することができる。筋トレも、筋トレに伴う肉体的苦痛や快感、筋肉が悲鳴を上げる感覚、汗を流す爽快感などを再現することにより、仮想体験することが可能だ。

 しかし、そもそも筋トレというものは、筋肉の発達あってこその筋トレなのである。しかし当然ながら、筋トレの感覚のみを楽しんだところで、筋肉は発達しない。概念人類に筋肉などないためである。

 果たしてこれが、真の筋トレと言えるのであろうか? 




〈だからって物質シミュレートに手を出すなんて、もの好きだね〉

〈とことんつきつめないと気が済まない性分なんだよね〉

 ふたりの概念人類たちが交信している。片方は、レトロブームに乗じて「食事」の感覚を日々楽しんでいるもの。もう片方は、筋トレという難題にのめり込んでしまったものである。

〈どう、この骨格モデル。過去の物質人類のデータから、最適な数値を抽出して作ってみたんだ。良いでしょ〉

 概念世界中に構成された分子チャンバーの中に、物質人類の骨格がふわふわと浮いている。概念人類たちはその立派な骨格を観測しながら、のんびりとおしゃべりをしている。


〈へえ。じゃあ、筋肉のモデルもそうやって作るの?〉

〈そんなことしたら、筋トレの意味がないだろう。筋肉は……そうだな、物質人類男性の平均より少し下くらいの数値で始めようかな。伸びしろを多めに取るかたちで……〉

〈物質人類史の中盤くらいで使われた言語で、きみみたいなのを「オタク」っていうそうだよ〉

〈筋肉オタク?〉

〈筋トレオタクかなあ?〉

〈厳密には、本当の筋トレはまだ一回もしたことないけどね。でも、それもこれで終わりだ。この生体モデルが完成したら、私の自意識概念子を生体モデルに投影して、私は概念人類として初めて、真の筋トレをするんだ〉

〈よかったね〉

〈ありがとう。よーし、これで……あれ? おかしいな、エラーが出るぞ〉

 分子チャンバーの表面には、情報処理が正確に完了しなかったことを示すエラーコードが表示されている。


〈ちょっと見せて。ああ、これは……私たちの自意識概念子からの入力は、物質人類の肉体にとっては情報量が多すぎるみたいだね〉

〈あー、概念化してから蓄積した情報、すごい量になってるもんなあ。物質人類史の時間単位だと、どれくらいぶんになるんだっけ〉

〈七憶年くらいじゃない?〉

〈あー、物質人類の肉体寿命って、百年いくかいかないかだっけ。そりゃあ無理だなあ。仕方ない……〉

〈ようやく諦める気になったみたいだね。やっぱり筋トレなんてやめて、きみも仮想食事を楽しむべきだよ。最近は激辛ブームが……〉

〈誰が諦めるって?〉

 筋トレ好きの概念人類は、自分の概念子をちょちょいといじって、再び生体モデルへの自意識投影コードを入力した。


〈えっ、きみ、それは……〉

〈うん。私という個を形成する最低限の自意識だけ抽出した〉

〈でもそれって、きみの自意識概念子のコアなんじゃ……〉

〈うん。私のメイン自意識は、生体モデルの方に移行する。つまり……〉

〈えっ、きみ、物質人類になるつもりなの?〉

〈うん。物質人類になる〉

〈筋トレをするために?〉

〈筋トレをするために〉


 食事好きの概念人類は、なにか多くのことを言いたそうにしていたが、初めの言葉がコード化されるころには、すでに色々と手遅れだった。


 概念世界の中に、もはや筋トレ好きの友人は存在しない。自意識を移植された生体モデルが、物質チャンバーの中から嬉しそうに手を振っている。

〈ええ……どうするの、これ〉

〈いやあ、肉体って面白い感覚があるね。でも、どうやら物質チャンバーの中では、最初に設定した数値以上の肉体にはなれないみたいだ。つまり、真の筋トレをするには、物質世界に移動する必要がある〉

〈好きにしたら……〉

〈そうするよ。じゃあね、元気でね!〉

 そう言い残して、筋トレ好きの概念人類――今や物質人類であるが――は、物質世界へと転送されていった。


〈やれやれ、趣味もほどほどにしないとな……〉

 自戒も含めつつ、食事好きの概念人類は概念溜め息をついた。激辛シミュレートをしようと思っていたけれど、ピリ辛くらいで済ましておこうかな、などと考えながら。



 物質世界へ転送された彼は、己の酔狂のためにそこそこしっかりと苦労するはめになった。物質世界の地球にはすでに人類と呼ぶべき生物種は存在しておらず、彼は正真正銘自分の筋肉だけを頼りに生き抜かねばならかったのである。


 物質人類と化してしまった以上、もはや死から逃れるすべはない。そしてかつての文明は全て地上から失われたため、再び概念人類となることはかなわない。

 しかしそれでも、彼は構わなかった。概念生命としては決して味わうことができない「生きている」という感覚――筋肉の躍動を感じることができたためである。


 彼は筋肉を鍛え、火を起こし、狩りをした。移動をした。外敵から身を守った。そして、かつての物質人類に似た猿人たちと出会った。

 猿人たちははじめ彼を警戒したが、やがて突出した能力を持つ同種として受け入れた。猿人たちに崇められ、かつて概念人類だったものは、猿人たちのリーダーとして君臨したのである。


 猿人たちは道具を使うようになり、火と言葉を操り、やがて文字を獲得した。海を渡り山を越え、世界中に生息地を広げた。そのころには、かつて概念人類だった彼は既に肉体的死を迎えていたが……



〈さて、物質世界はどうなってるかな……おお、もうずいぶんエレクトロニクス技術が発展しているな〉

 筋トレ好きの彼が地上にもたらした叡智は、猿人たちを、かつての物質人類と同じ道へと導いた。かつての物質人類と異なる点は散見されるが、ほぼ同じと思って問題ない。

〈うんうん、彼の教え子たちは優秀だ〉

 概念世界から物質世界を覗き見ながら、食事好きの概念人類は、かつての友を偲ぶ。友を喪ったことに悲しみはある。しかし、悲しみに浸ってばかりはいなかった。彼の遺した痕跡を追うことが、仮想食事以上の楽しみになりつつあったのだ。

〈どんな進化をするかな。出来れば滅ばないで、我々と同じ境地にまで到達してほしいな……〉


 物質世界にのさばる彼らは、今や万物の霊長を自称している。まさか自分たちの文明が、ひとりの好事家の筋トレ欲から始まったなどとは、思いもすまい。




<おわり>

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