踏ん張れ、筋肉のボク

沢田和早

踏ん張れ、筋肉のボク

 ボクは外肛門括約筋。排便を制御する筋肉だ。

 人体で一番大きな大腿四頭筋さんや、体幹を支える腹筋さん背筋さんに比べれば地味で小さくて目立たない存在だけど、規則正しいお通じはとても大切だからね。自分の役割に誇りを持って毎日お役目に励んでいるんだ。


「まったくおまえは真面目だなあ、ガイ」


 相棒の内肛門括約筋君がだるい雰囲気で話し掛けてきた。彼はボクのことをガイって呼ぶんだ。


「筋肉が真面目に働かないでどうするんだよ。君こそもっと真剣に働いたらどうなんだい」

「へっ、一日中こき使われるだけで何の見返りもないんだ。肛門の弛緩収縮なんか適当にやっときゃいいんだよ」

「相変わらず困った筋肉だなあ、ナイは」


 ボクは彼をナイと呼んでいる。

 同じ肛門括約筋なのに性格が正反対なのは、きっと指示系統が違うからだ。ナイは自律神経統合センターの指令に従い、ボクは体性神経統合センターの指令に従って働いている。

 時にはお互いに逆の指令を受けてケンカすることもあるけど、毎日力を合わせて日々の業務を遂行しているんだ。


「内肛門括約筋に指令。弛緩せよ。繰り返す、直ちに弛緩せよ」

「おっと、さっそくご命令か。緩めるんなら楽できていいな」


 ナイは寝っ転がってしまった。収縮している時間が圧倒的に長いボクらにとって弛緩は休憩と同じだ。それにしてももう排便とは早いな。体の具合でも悪いのかな。まあいいや。そろそろボクにも弛緩の指令が来るはずだ。


「外肛門括約筋に指令。強く収縮せよ。繰り返す、直ちに強く収縮せよ」

「えっ、ボクは収縮なの!」

「ははは、ご苦労さん」


 ナイがいかにもお気の毒って感じで笑っている。最近、ボクらへの指令が逆になることが多くなった。消化器官は精神面の影響を受けやすいっていうし、ストレスの多い生活でもしているのかなあ。とにかく収縮の度合いを大きくしよう。


「えいっ。うっ、キツイな」


 腸圧が高まっているせいだろうか。いつもより強い力が必要だ。休憩しているナイに「手伝ってくれ」と言いたくなる。


「さらに激しく収縮せよ。繰り返す。さらに激しく収縮せよ」


 重ねて指令が来た。収縮力を増大させる。これは厳しいな。いったいどうなっているんだろう。ちょっとお願いしてみるか。


「指令センターに要望! 現在の状況を確認したい。速やかに対処されたし」


 ボクらは指令を受けるだけでなく要望を出すこともできるんだ。ほどなく視覚と聴覚の映像と音声が人体情報モニターに届いた。


「これは、電車の中か。ひどく混雑しているな」


 記憶管理部の情報によると、すでに二時間ほど立ちっぱなしだそうだ。さぞかし辛いだろうなあ。


「なるほどね。ウンコしたくてもできない状況にあるってわけか。そりゃこんな場所で漏らしちまったら、社会的に死んだも同然だからな」


 ナイが呑気な顔でほざいている。さっきから収縮し続けているこっちの身にもなってほしいものだ。


「そう思うんなら君も収縮してくれよ」

「すまねえがオレへの指令は弛緩なんだ。おまえ一人で頑張るしかないな」


 悔しいが言い返せない。センターからの指令は絶対だ。それに身体的には早急に排便するのが正解なのだろう。だからこそナイへの指令は弛緩なのだ。

 しかし精神的にはここで排便しないことが正解なのだ。絶対に力を抜くわけにはいかない。でも、うう、苦しい。こんなに収縮し続けたのは初めてかもしれない。


「なあガイ。もういいじゃないか。センターに要望を出せよ。これ以上は無理だって。そうすりゃ楽になれるぜ」

「ダメだ。そんなことをしたらこの人の人生はここで終わってしまう」

「だけどよ、こんな無茶な収縮を続けていたら炎症を起こしちまうぞ。おまえはよくやったよ。もう十分だ。さあ、オレと一緒に休憩しよう」

「ううう」


 ナイの言う通りだ。ボクの限界はとっくに超えている。センターに要望を出せば弛緩の指令が下されるだろう。わかっている、そんなことは百も承知だ。

 けれどもボクは諦めたくなかった。たとえ筋肉繊維が破壊されようとも車内でのお漏らしだけはさせたくなかったのだ。


「ここが踏ん張りどころだ。いつものように個室で用を足せる状況になるまで収縮を続けるんだ」


 我が身に鞭打って業務を遂行するボク。その時、信じられないことが起きた。


「非常事態発生、非常事態発生。自律神経統合センターが体性神経統合センターに乗っ取られた」

「内肛門括約筋に指令。弛緩を中止して直ちに収縮せよ」

「な、なんだと」


 驚きながら起き上がり収縮を開始するナイ。もちろんボクも驚いた。


「自律神経が体性神経の支配下に入るなんて信じられないよ」

「絶対あり得ねえことが起きちまったようだな。これで心筋も内臓筋も、全ての筋肉がこいつの意のままに動かせちまう」


 ナイも収縮を始めたことで少し余裕ができた。それでも厳しい状況に変わりはない。腸圧は高まる一方だし便意も激しくなっていく。


「ううう、やっぱり限界だ」

「自律神経を乗っ取ったところで、所詮ただの悪あがきだったってことさ。さあセンターに要望を出して弛緩しちまおうぜ」


 電車はまだ動こうとしない。ナイの言う通りにするしかないのか。と、突然、体内の異常を示す警告音が鳴り響いた。


「緊急警報、緊急警報。体性神経統合センターが心停止の指令を発動。心臓停止。呼吸停止。警告、警告」

「ウ、ウソでしょ」

「こいつ、死ぬ気か」


 ボクとナイはセンターから送信されてくる人体情報モニターにかじりついた。すでに電車の床に倒れている。大騒ぎする乗客たち。意識管理部から送られてきたメッセージには次のような意思表明が記されていた。


『電車の中でクソを漏らすくらいなら死んだ方がましだ。心臓を止めてやる』


 ああ、そうなのか。ウンコを漏らすことは死ぬより辛いことだったのか。糞漏らしの屈辱に耐えられず死を選ぶなんて、相当自尊心の強い人だったんだろうなあ。


「自律神経に干渉して自ら心臓を止めるとは、この人間只者ただものじゃねえな。しかし愚かだぜ。死んじまったらオレたちは収縮できねえ。どのみちウンコは漏れるんだ」

「そうだね。でも指令は収縮のままだ。頑張れるだけ頑張ろうよ」

「仕方ねえな。うりゃ!」


 ナイもボクも収縮を続ける。すでに体内の照明はほとんど落ちて周囲は薄暗くなっている。残っている酸素でどれくらい収縮を続けられるだろうか。

 視覚と聴覚もまだ機能を失ってはいないようだ。薄目を開けたままで倒れたのだろうか、映りの悪くなった人体情報モニターには救急隊の姿が映し出されている。誰かが通報してくれたようだ。


「おい、ちょっと待てよ」


 モニターを見つめていたナイが声を上げた。


「これ、もしかしたら電車の外に運び出されるんじゃないのか」


 ボクもモニターを凝視する。本当だ。タンカで運び出されていく。ここはもう電車の中じゃない。救急車の中だ。


「この人、きっとここまで想定していたんだよ。意識を失って倒れれば救急車が呼ばれて電車の外に出られるって」

「なるほどねえ。電車の外でならクソを漏らしても構わねえってことか。生きて出られりゃもっとよかったんだがな」

「それもまだわからないよ」


 モニターには必死に救命活動を続ける隊員たちの姿が映っていた。胸に何か当てている。強烈な電気ショックが肛門まで響いてくる。もう一度、もう一度、もう一度。やがて体内の照明が回復した。センターの声が響き渡る。


「心音確認。呼吸開始。蘇生成功!」

「やった!」

「神経統合センターの指令系統は正常に回復」

「内外肛門括約筋に指令。収縮終了。弛緩せよ。直ちに弛緩せよ」

「了解!」


 ボクらは力を抜いた。長かった収縮地獄からようやく解放されたのだ。


「よかった。これで休める」

「こんな苦行、二度と味わいたくないぜ」


 寝転がって手足を伸ばすボクとナイ。極楽のような弛緩の心地好さを味わうボクらの耳に、この世の終わりを思わせるような絶叫がモニターから聞こえてきた。


「うわあああー!」


 そして救急車の中は阿鼻叫喚の地獄と化した。

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