第√666話:パスタの御意志


 其処は見知らぬ部屋だった。いや、空間というべきだろうか。


 半透明のチューブ状の物体が不規則に絡み合い、どこまでも、延々と、何処までも続いている。チューブの中ではあらゆる色が明滅し、生まれては消えて行く。

 ふと、自分の足元へ意識を向けた。そこには何もなかった。固唾を呑もうにも、喉もなかった。腕も体も、頭すらない。


 私は其処に浮かんでいたのである。『我思う、故に我あり』というデカルトの詭弁の他、何一つ有せず、宙に浮いていたのだ。


「汝、神を信ずるか?」


 無いはずの耳に、厳かな声が響いてきた。何というのだろう、ジョン・リー・フッカーとジェームス・ブラウンの声色を足して二で割りチューンアップしたような感じだ。

 私は無い口をへの字に曲げた。自身のおかれた状況を理解し、過去を思い出そうと取り組んだ。だが、結局の所、分かりそうもないという事だけが分かった。代わりに、声の主の質問に答えることこそが、とっかかりになるのではと考えた。

 いつだって、説明責任は招いた側にあるものだ。


「人並みには。つまり、空に浮かぶスモッグの雲を必要悪だと認める程度には、宗教の有用性を認めていますよ。無知を説明するには大変都合のいい代物でしょう」


 私はあらかじめ台本を準備していたかのようにペラペラと賜った。自分が何者だったかは思い出せないのに、ブルース歌手の名前と冷笑の手引きだけは覚えているらしかった。

 とはいえ、こうも饒舌家足れるというのは、記憶の中の神を嫌っていた証左だろう。


「では、魔術を信ずるか?」


「疑似科学のことでしょう。つまり、ペテン」


「では、科学は?」


「ペテンじゃない魔法」


 声は一旦止み、代わりに上の方から一等強い御光が差し込んできた。


「よろしい。では、朕を見て何を思う?」


 意識を声のする方へ向ける。


 膨大な量の絡み合った素麺。そうとしか形容できない存在が上から降りてきた。この空間を構成している物体と同様のものが絡み合って浮いている。

 ザルにあげられた素麺をピアノ線で吊るしたものに見える。光の角度によっては黄色がかることもあり、パスタのようにも見える。

 

 私が一言として返答していないにも関わらず、再び厳かな声が響いた。


「ふむ、空飛ぶパスタの塊か。良かろう、私はFloating Pasta Strips。略称してFSSである」


 ああ、私は正気なのだろうか。ユダヤ嫌いのホラー作家のラヴクラフトの如く、狂気じみた夢でも見ているのだろうか。


「我は確かに存在している。汝らが認知していない次元において」


 何を言っているのか理解できず、呆然とし、ただFSSの声に聞き入る。


「我は憂いておるのだ。この次元に至る存在が未だ現れていないことに。あらゆる平行世界が此処の存在を認知する以前に滅び、途絶えてゆくのが。これを見たまえ」


 FSSの触手が伸び、空間を構成するチューブの数本を掴み取り、私の前へと垂らす。


 目を凝らしてみると、一本には円錐状のウミユリのような生物が映り、もう一本には樽の如き物体に羽を生やしたような生物が文明を営んでいる。その他にも、見るだけで吐き気を催すような化け物や、そもそも生物すら存在せず虚空だけが広がるものもあった。

 

 そのうちの一本に目が吸い寄せられる。得も言われぬ郷愁に駆られる。


 薄暗いプレハブの中。思い詰めたように佇む灰色髪の少女。白衣を羽織り、ブンゼンバーナの並べられた実験台に向き合い、おかれた一つのシャーレを見詰めている。

 シャーレの中には、一片の変わった形をした麦角が入れられていた。捻じれた山羊の角みたいに見える。灰色で至極不気味だ。

 その少女はシャーレから目を逸らすと、ブンゼンガス混じりの空気の感触を確かめるように大きく息を吸った。そして、それに満足したように懐からラッキーストライクの箱とジッポーライターを取り出し、一本口へと咥えた。

 意を決したように天井を仰ぎ見て、彼女はホイールへと指を掛けた。


 爆炎が視界を埋め尽くす。全てが消え去る。記憶の全てを噴出させる。


 そうだ。私の名は八島陽香。カルト教団の科学者だった。命令されて、薬物を開発した。それ自体は上手くいった。いや、上手く行き過ぎた。想定外の堕落物質を生み出した。やにわに義憤に駆られ、研究成果もろとも自分を吹き飛ばした。

 生まれついて廻った信仰をやっかみ、それでいて逃げ切れず、信奉した化学によってその身を滅ぼした。それが私だ。


「そうだ。汝はこの線の一本で死に、今ここにいるのだ。そして、この線を辿れば、間もなく汝らの世界は滅びる。間違いなくだ。救いようがなく、不可避だ。おまえの教祖のペテン師が語ることで唯一の真実。終末論は真実だ」


 FSSと名乗ったその物体は余りに淡々と言い放つ。電子音声じみている。なにを思い、何を感じ、何を成そうというのか。まるで感じさせない声だ。

 私に何を求めている。


「言ったはずだ。私は憂いていると。そして、今までは傍観するだけであったが、今一つ手を出してみようと思ったのだ」

 

 光が一段と強くなった。


「汝らの世界と近しい世界線に朕は汝を送り込もう。私の次元へと知的生命体を導く存在として。進化を早める存在として」


 なぜ私なのか。これ以上の辛苦など欲しくはない。カルトの家に生まれ、宗教系の保育施設から大学までひたすらにクソのような信仰に生かされ続けていた。馬鹿みたいだ。よりどころだった化学すら裏切り、死んだのだ。


「そうだ。正しくそうなのだよ。汝の境遇は中々に奇特だ。汝ら人間の滅びの道というのは主に二つある。下らぬ宗教と過度な科学崇拝だ。一方では非合理に過ぎ、発展せず。一方では、飛躍した発想は起こらず、時遅くして滅びる。しかし、宗教家の元で育てられた科学者たる汝に我の存在を知らしめ、別の世界線へ渡す。同様のことを別のものでも行うつもりではあるが、その第一号が汝なのだ」


 壮大なピルグリム・ファーザーズだ。アメリカ大陸でなく、異世界へ。マーク・トウェインの『アーサー王宮廷のヤンキー』も顔負けだ。

 何という無責任だろう。お前が神だと?人を何だと?確かに、人間より遥かに上位の存在だ。だが、神でも何でもない。ただの伸びきったスパゲッティの化け物だ。


「そう、その通り。私は神でも何物でもない。ただ此処にいる存在。“我思う故に、我有り。故に汝は我を知らしめよ”」


 ナニカを言い返そうとした。反論しようとした。だが、無駄だった。それは理不尽の極み。消えゆく意識。眠い。暗い。白の奔流が襲い来る。私は唯、流される。


 意識は途絶えた。


               ☻


 後はご存じの通りだ。私は歴史を早回しさせるため、奔走したのだ。文句は受け付けていない。やれるだけやった。


 恐らく、再び死んでも使い回されるに相違ないが… 

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