第8話 アンタッチャブル・アキナ
「……コンタクトレンズ……?」
アンシーリーコートがつまみ上げたのは、薄い透明のガラスだった。
「まさか、さっき泣いている時に……落としたのか! 俺の次のショットが通る場所を見越して! 俺がしくじるように!」
「さあ、どうかな。でも、おまえがミスをしたのは事実。さっさとどいてよ。あと一突きで終わりなんだから」
アキナがキューで指図しても、黒い若者は動かない。
凄まじい憎悪のこもった瞳で彼女を睨みつける。
「てめえ、イカサマしやがったくせに! 卑怯なことしたくせに!」
「なに、子供みたいに喚いているんだ。おまえだって、妖精の力とかを使っているんだろう? それと同じことだよ」
「さっき、正々堂々っていっていたじゃねえか!」
「いつ、あたしがおまえと正々堂々やるって言った? あたしの部屋では言っていたかもしれないけれど、おまえの前では言ったことないよ。まさか、それであたしの言質をとったつもりなの? あたしは一度もイカサマをするつもりはないなんて告げたことはないぞ。残念だね。それに……」
一度、アキナは口を閉じてから、
「―――多少の妨害でミスをしたのはおまえの弱さだろ。それをついさっき口をしていたのは、おまえ自身だ。コンタクトレンズなんていうちゃちな罠を見抜けなかったのもおまえの用心深さのなさだ。人間をコケにするのなら、もっと慎重にやるべきだったね。……さあ、そこをどけよ」
そういって、アンシーリーコートを押しのけると、アキナは最後の一突きを行った。
白い手玉が赤い的球を叩き、そして九番が穴に沈む。
静まりかえった店内にカランと小さな音が響き渡った。
勝負は決まった。
観客のだれもが予想していなかった結果とともに。
極東からやってきたスパイシーガールが、悪魔のハスラーを破ったのだった。
敗北を知り、膝から崩れ落ちたアンシーリーコートを勝者が見下ろす。
なんの感情もこもらない瞳で。
「てめえ、なんなんだよ……。どうして、俺に勝負を持ちかけたんだよ……。俺に恨みでもあんのかよ」
アンシーリーコートにとってはそれだけが浮かんだ疑問だった。
なぜ、この売女は日本なんてはるか遠くからわざわざ彼を倒すためにやって来たのか?
彼の悪事を知った上での義憤でもないし、好奇心さえも感じられない。
ただ、彼を玉座から叩き落とすためだけにやってきた地獄からのロベスピエールだった。
「恨みどころか、あたしはおまえになんの感情もない」
「ならどうして?」
「―――簡単よ。おまえは、あたしに喧嘩を売った。だから、叩きのめした。ただ、それだけ」
「いつ、俺がてめえに喧嘩なんか売ったってんだ」
「一年前、カタールで」
アンシーリーコートは情けなく顔を上げた。
意味がわからなかった。
あの時は勝者インタビューを受けて、その時に確かに視聴者に向けて挑発的な言動をした覚えがある。
だが、それは不特定多数の人物に対しての挑発であって、この女に対してしたものではない。だから、この女の言っていることは意味が不明だ。
「あたしはね、たとえそれが録画であろうと、何千キロと離れた場所からであろうと、喧嘩を売られたら買うの。そして、おまえはビリヤードで勝負しろってあたしに言った。だから、買った上で打ち倒した。まあ、敵としては結構な強敵だったってことは褒めてあげるよ」
「なんだ……と」
どんな思考をして、どんな結論に至ったのかさえわからない。
この女が何を言っているのか、さっぱり読み取れない。
インターネットで喧嘩を売られたから買っただけ?
馬鹿な、そんな馬鹿なことのために、彼と戦うなんていう命を掛ける真似を仕出かしたというのか。
理解不能!
「おまえの敗因を教えてやるよ。―――調子に乗って、あたしに挑戦したからさ。それさえはなければ負けることはなかっただろうね」
そう言うと、アキナはにっと笑った。
同時に、アンシーリーコートは自らがまとっている黒いコートのような変則的なフォルムのマントの結び目が自然にほどけ、はらりと肩から落ちて、同色の帽子が二つに割れることを感じた。
彼の持つ黒い力が涎と涙とともに流れ落ちていく。
すべてが淀んだ液体となって、彼を彼たらしめていた要素が喪失していく。
それは妖精としての力だった。
いや、力だったものだ。
すべてが彼から離れ、そして黒い若者はすぐにそのあたりにいる平凡な若者になった。
ただ、その眼には生気の輝きはない。
だらしなく開いた口からは荒い呼吸だけが漏れていた……。
「誰か、病院に連れて行ってやりなよ。たぶん、しばらくは正気に戻らないからさ」
そう言って、アキナは店から出た。
お供にはシーリーコートだけがついていた。
「さっきの話、全部、本当なんですか?」
「そうだよ。あ、あんた、よくあいつを見張っていてくれたね。おかげであいつが変な真似をするのを牽制できた」
「まあ、それぐらいなら」
ほとんどすべての仕事を押し付けてしまった罪悪感がシーリーコートにはあった。
「じゃあ、ご褒美にこれをやる」
と言って、アキナは鮫の絵の書かれたキューケースを渡す。
「……え、いいんですか?」
「まあね。目的は果たしたから、もうビリヤードはやらないし」
「えっと、ちょっと待ってください? あなた、随分お強かったですけど、ビリヤードを何年ぐらい練習していたんですか? 世界選手権にだってでられるぐらいの腕でしょ?」
アキナはあっけらかんと答えた。
「10ヶ月くらいかな。大学の授業もあったし、他に倒すべき相手もいたし」
「……まさか、あのアンシーリーコートを倒すためだけに、ビリヤードを一から……?」
「ああ、そうだよ。さすがに技術がいるからちょっと手間取ったけどね」
絶句するシーリーコートを尻目に、アキナは呼び出しておいたタクシーに乗り込む。
それは昼に彼女を空港から運んだ運転手のものだった。
「勝ったよ、おじさん。眠いからさっさとホテルまで運んでよ」
これまた驚きで開いた口が塞がらない運転手をせっつくと、ようやくタクシーは走り出した。
シーリーコートはその後ろ姿を見送りつつ、天を仰ぐ。
「―――妖精は人を惑わし、騙し、傷つけ、殺害する。でも、人間がいつも妖精に振り回されるとは限らない。ああいう人の意志や知恵が、傲慢な妖精の
そうぼやくと、シーリーコートはまだ店内で介抱されているであろう打ち負かされた彼と似た存在のもとへと戻っていった。
ジ・インヴィンス・アキナ ‐無敵の女子大生‐ 陸 理明 @kuga-michiaki
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