第7話 恣意的指摘ジャック
川澄アキナの登場は冷たい空気の中で行われた。
その日、〈923club〉に集ったのはショーを見物するための客ばかりであり、そのショーの名は「ミスター・アンシーリーコートによる公開処刑」。
そこでアキナに与えられた役柄は、観衆の中で無残に殺される生贄の羊であった。
廃棄が定められた人形のように扱われるための。
他人の死を望む、気の狂った異常な雰囲気の中で彼女の前に現れたのは、黒い奇妙なフォルムをした布の多いコートを着て、黒いハンチングを被った若者だった。
短く刈った金髪と緑色の瞳をした二十代ぐらい、だが、全身からは恐ろしいまでの重厚なオーラを溢れさせていた。
すれ違ったどんな通行人の視線をも釘付けにするようなオーラ。
人間が発するものとは思えないオーラを持ちながら、一方で、チンピラのごとく軽薄に唇を歪ませ、他人を嘲弄するかのような眼光を漂わせた表情はまるで虫を思わせる。
カマキリかスズメバチ。
どのみち肉食だ。
「よく来たな、このクズ女あ!」
開口一番、若者が放ったのは罵倒だった。
さすがのアキナが引くほどの。
「おいおい、どこの淫売かと思ったら、こんな牝餓鬼かよ。へー、俺の評判もワールドワイドになったもんだな。おいおい、本気かあ、クソ
「……おまえがアンシーリーコートでいいの?」
日本にいるときに何度も動画サイトで見たふざけた態度だったので、見間違えることはないが、とりあえずアキナは確認をすることをした。
もちろん、敵意は剥き出しにして。
彼女は戦いに来たのであり、眼前の若者は敵なのだ。
そんな彼女の態度を鼻もひっかけようとせず、せせら笑った上で
「そうさ、くそったれの人間。俺が、噂のミスター・アンシーリーコート様さ。で、てめえは当然俺のことをわかってきているんだろうな。俺とやりあえば確実に負けるし、てめえは死ぬぜ。それでも小便漏らさずにやれるっていうなら付き合ってやらあ。で、どうだ、東洋人? ブルっちまえずにやれるってのか、ヘイ」
黒い若者はしつこく煽ってきた。
アキナを怯えさせるのが目的の、強烈なまでに威圧的な言動だった。
それが彼のいつもの手口だとわかっている観客たちは、ニヤニヤと二人のプレイヤーの対峙を見つめている。
いつもの展開ならば、狂ったようなアウェイの空気に飲まれた挑戦者はそこで青ざめ、ミスター・アンシーリーコートに立ち向かう気力を削がれる。
ただでさえ、強いビリヤードプレイヤーであるアンシーリーコートを相手にするというのに、気力さえもなくなってしまえば待つのは確実な敗北だけだ。
そんな手口にはまって弱気になった挑戦者が無様に負けていくところを見るのが、悪趣味な見物人たちにとっての愉悦だった。
自分たちがどれほど薄気味悪いことをしているか考えようともしないで。
そして、今回もいつものようになると思っていた。
あんな小娘にこの異常な環境を跳ね返すほどの力強さはないと見縊って。
だが、アキナから少し離れた二階からすべての様子を見ていたシーリーコートだけはそうは思わなかった。
また、アンシーリーコートを毛嫌いし、新しいキュートな挑戦者に肩入れしていた店のオーナー、ジョン・マルコスも気がついていた。
アキナの様子にいささかの気負いも衒いもないことに。
「なんだ、あの小娘……? 普通じゃねえな、おい……」
立ち塞がる敵を無視してアキナはケースの中から愛用のキューを取り出すと、その先端を突きつけた。
「さっさとゲームに入ってくれない? あたしはね、おまえにいつまでも付き合っていられるほど暇じゃないんだよ」
「―――なんだと?」
「こういうセレモニーはどうでもいいから、勝負しろっていってんのよ、この唐変木(スチューピッドガイ)」
「上等じゃねえか、この
黒衣の裾を翻し、アンシーリーコートは自分のキューをとって用意された台へと向かった。
やや顔にいらだちが浮かんでいた。
ここ一年で楯突いてきた人間どもとは勝手が違う相手に、彼の方が逆にペースを崩されたせいであった。
普段の相手ならすでに彼の術中にはまっている。
それなのに、あの黒髪の小娘は彼に対する敵意を捨てようともしない。
初めて対戦するなんともやりづらい相手だった。
だが、だから、どうした。
彼の力は妖精から手に入れたものだ。ただの人間がいくら束になったとしても及ぶところではない。
問題なのは……
アンシーリーコートは首を上げた。
〈923club〉の二階からこちらを見下ろす白いコートの持ち主が目に入った。
あれこそが危険だ。
少し前から彼の周囲を嗅ぎ回る、本物の妖精だった。その正体も知っている。妖精の力を勝手気ままに奮う彼のようなものを排除するために存在する妖精。
『目に見える法廷』―――シーリーコートだ。
今までどういう訳か手出しをしてこないのは、何か理由があるからだろうと考えられるが、ヤバイ相手に見張られているからといって彼が自分のしたいことを止める気はさらさらなかった。
せっかく手に入れた異能だ。
好き放題にさせてもらおう。欲望のままに。
わがまま放題、したいままに振る舞うのが彼の正義だった。
「ヘイ、
「通常のナインボールでしょ。それを九ゲームやって、五ゲームとった方の勝利。賭け金は1000ドル」
「で、金は?」
「はい」
アキナはすぐ隣にいたウェイトレスに小切手を差し出した。
ウェイトレスは軽く一瞥すると、トレイの上に乗せてアンシーリーコートに見せた。
黒衣の若者も同様に小切手を置く。
それが二枚ともテーブルの上に並べられ、試合は成立した。
二人のプレイヤーはそれぞれのキューを持って台の端にたつ。
互いに白い手玉を撞いて、一度折り返すことでより近いほうが先行となるショットを打った。
勝ったのはアンシーリーコート。
ほとんど一センチも残さないほどに手元に引き寄せたのだ。
観衆はざわめきもしない。
アンシーリーコートの手玉操作の技術は悪魔の領域にあると噂されるほどに正確なのであり、今までの試合でもよく見かける光景であったからだ。
「悪いなあ、先にやらせてもらうぜ」
「どうぞ」
「いやあ、最後まで俺が撞ききってしまったらすまないなあ。てめえは一度もキューを使うことなく1000ドルを失って、そして死んじまうのかあ~。底辺の死に様だな、おい。惨めなだけで何の意味もねえ。ハリウッドで死んだエイプリル・ロビン以下だぜ」
「―――早く初めて」
「へいへい」
台の上には九つのボールが並ぶ。
色とりどりの球のうち、9番を落とせばゲームを取れるのがナインボールだ。
すべて落とさなくてもよく、ただ9番だけに左右される。
アンシーリーコートは手玉を適当に置き、そして無造作に撞く。
綺麗に並んでいた球が弾き飛ばされ、適度な間隔を空けて広がっていった。
そのうち、赤い3番ボールだけが隅の穴に落ちる。
最初のブレイクショットで一つでも落とせれば、プレイヤーのターンは続くので、アンシーリーコートは今度も1番を狙い易々と落とした。
ここまでは誰でもできる。
ビリヤードを齧ったものなら、すべて撞ききって、相手に出番を渡すことなく9番を沈めることなど造作もないことだ。
ただ問題なのは、アンシーリーコートの構えだった。
通常の腰を九十度に屈め、そしてキューを目線に下げるという構えをとらず、なんと上半身を起こしたまま的球に狙いもつけずに撞くのである。
そのくせ、白い手玉はまるで意思でもあるかのように正確極まりない軌道を描き、次々と球を落としていく。
信じられないレベルのプレイヤーであった。
異次元の技術を備えているとしかいえない。
だからこそ、畏怖の念をこめて観客たちは彼のことを「ミスター」と呼ぶのだ。
「ま、それだってインチキなんだけどね」
アンシーリーコートを頭上から見張っていたシーリーコートがつぶやく。
彼がその気になれば、黒衣の若者のすべてを
彼がおそれていたのはそれだった。
シーリーコートは『妖精の判事』であり、天下御免の無敵の大妖精であるゆえに、人を害することは基本的に禁じられている。
人を恣意的に害する邪妖精ではないのだからそれも当然ではある。
だから、無理矢理にアンシーリーコートの力を排除して、本体である人間の方を害することは御法度なのだ。
例外的に許される場合もあるが、今回はそういうものではない。
彼の力は限定的にしか行使できなかった。
だからこそ、アキナの作戦に乗ったのだ。
彼女に危険が及ぶとわかっていても。
「……さて、アキナさん、しっかりしてくださいよ」
彼と観衆が固唾を呑んで見つめていると、アンシーリーコートが四ゲームを取ったあとで動き出す。
明らかにわざとミスショットをしたことでアキナにターンが移ったのだ。
じっと敵のショットが着々とポイントを稼いでいくところを見つめていたアキナは、ようやく回ってきた(いや、回された)自分の出番を迎えて、冷静にキューを振るう。
ほほお、と感心した声があたりから聞こえてきた。
それはアキナのストロークの美しさであったり、狙っていた的球を落とした手玉が次の的球への絶好の場所に移動するポジション取りの巧さであったり、ショットの力強さであったりした。
本来ならばあたりまえに称賛されるべき内容が今まで注目されていなかったのは、アンシーリーコートという怪物との対戦ばかりに気を取られていたからだろう。
客たちはアキナが超一流のプレイヤーであることを初めて理解した。
だからこそ、予測していた。
あれほどの実力があったとしても、彼女は負けるだろうと。
「おやおや、なかなかやるじゃねえか、メス豚あ。さすがにこの俺様に挑戦する気を起こすだけのことはあるなあ。まあ、それぐらいでないと張り合いどころか殺す気も起きないわけだが」
「殺す?」
「おっと、今のは忘れてくれ。別に俺がてめえを殺すわけじゃねえからよ。ただ、俺が勝っててめえが負ければきっとものすごーく不吉なことがふりかかるぜ、きっと」
「……何が言いたい?」
「べ・つ・にぃ。ほらほら集中しろよ、てめえはあと一回でもミスしたら絶対に負けるんだぜ。さっきのように俺がわざと出番を譲ってやることはないからよ。一度でもミスったらてめえは死ぬんだぜぇ」
アキナは上半身を起こした。
ポケットから取り出したハンカチで額の汗を拭う。
三ゲームを連取してノーミス。
ミスター・アンシーリーコートに挑戦して死んだ相手の末路を知っている彼女にとっては、ミスはイコール死ぬのと一緒だ。
それをただの都市伝説とタカをくくって開き直ったとしても、それで彼女が有利になるとは思えない。
敵の黒いオーラが告げている。
奴は本当に負けた相手をどういう手段を使ってか殺すのだと。
そして、その手段もうすうす見当がついていた。
さっきシーリーコートと名乗る青年が見せてくれて黒い小人の仕業だ。あれを使って奴は負けたものを殺しているのだ。
おそらく、あの小人による襲撃を防ぐことはできないだろう。
まさしく超神秘的な相手なのだから。
つまり、彼女は勝つしかないのだ。
勝ってアンシーリーコートを完膚無きまでに負かすしかない。
始めてしまった以上、逃げるという道はない。
そして、最後のゲームに入り、九番のボールが残っていた的玉である三番のすぐ目の前で止まっていた。
すぐ後ろには角のポケットがある。
あそこに当てれば彼女の勝利が決まる。
だが、今の彼女の白い手玉はちょうどそのポケットの反対側。
しかも、間には三つの球が塞いでいて、三番に当てるためには二度のクッションが必要という難しい角度だ。
しかし、あれを落とせば彼女が五ゲームを先取し、彼女の勝利そのものが確定する。
外せばそこまでだが、彼女には絶対の自信があった。
作戦通りという、自信が。
(倒すよ、アンシーリーコート)
アキナは愛用のキューを振るった。
その時、大きなくしゃみが耳元で響いた。
誰がしたのかは言うまでもない。
黒い若者の立てた大きな音のせいかどうか、アキナの手元は狂ったらしく、白い手玉はかすかに三番に触れたがそのまま転がっていき、距離こそあるが何もないテーブル上に止まった。
三番と九番の位置はほとんど変わらず。
だが、アンシーリーコートであれば絶対に外さない位置に手玉が配置されてしまった。
アキナの顔が絶望で歪み、そして彼女はテーブルに乗り出し、目をこすった。
何度こすっても彼女にとって絶望的な配置であることは揺るがない。
あと、たったの一打ですべては決まる。
きっと目に涙をためて睨みつけるアキナへ、アンシーリーコートは長い舌を出してせせら笑った。
「惜しかったなあ、きっと俺に勝てただろうに」
「……おまえ、そんな手で勝って嬉しいのか。イカサマどころか、ただの妨害だろ!」
「妨害? 何を言ってんだ。多少の音で集中を乱したのはてめえの弱さだろ。それになんだ、正々堂々とやって俺と勝つんだろ? 俺がいつてめえと正々堂々とやるって言った? 妖精は口にしたことは破らないし、妖精との口約束は絶対だ。正々堂々なんて言っていたてめえはともかく、俺は好きにやるだけだぜ」
「おまえ!」
涙目の彼女を無視して、アンシーリーコートはキューを適当に構える。
絶対に外しはしない。
これであの女はおーしまい。
どんなクソッタレな死に様で演出してやるか、彼はそれだけしか考えていなかった。
そして、キューで手玉を撞いた。
白い玉は緑のラシャの上をまっすぐに転がり、三番にあたって、その三番が九番を穴に叩き落とす。
はずだった。
しかし、三番に当たる前に、手玉は妙な動きとともにわずかに撥ねた。
微妙に進行方向が変わった手玉は真っ直ぐに行かず、物理の教科書にあるままに正しい法則に従い、三番と共に九番を穴に落とさなかった。
ミス。
わざとではない。
ミスター・アンシーリーコート自身が理解できない失敗。
しかも、ほんの三十センチの距離に手玉が配置されたというさっき以上に有利すぎる状況とともに。
「へ、あれ、なんでだ。どうして、落なかったんだ? おかしいじゃねえか、俺はどんな場所にあったって絶対に的球を落とせるんだぜ? なんで、ミスしたんだ? お、おい、変じゃねえか?」
ミスター・アンシーリーコートは動揺していた。
妖精の力を手に入れて以来、決してミスしたことのない彼がショットを外したのだ。
いったい、何が起きたのか!
あまりのことに静まり返った店内を見渡したとき、彼はいつのまにか一階に降りてきていた白いコートの青年がアキナにあるものを手渡していたのを目撃した。
それは眼鏡だった。
縁なしの眼鏡をかけた美貌の東洋人女性は改めて彼の方に向き直った。さっきまでの泣きそうな表情はまったくない凛とした顔つきで。
なぜ、あいつは急に眼鏡なんか掛けだしたんだ?
シーリーコートの存在よりも何よりもそっちの方が気にかかった。
彼は自分が球を外したラシャの上を見て、そして、気がついた。
かすかに浮き上がった透明な物体の存在に。
さっき彼の手玉が妙な動きをして跳ね上がった原因となったものを。
それは、コンタクトレンズだった。
「……人間を舐めきって油断しているから、そんな古典的なイカサマに引っかかるのよ」
呆然とする彼の背中に向けて、女の冷たい声がぶつかる。
ミスター・アンシーリーコートは振り返る。
そこには、さっきまでの彼以上に会心の勝利の笑みを浮かべた、川澄アキナがいた……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます