〈再び、夏〉

Epilogue

 朝。

 頭上の三条通は出勤するサラリーマンであふれていた。


 良江は今、一人で三条大橋のすぐ下の河原のふちに座っている。

 足元の石畳の急なスロープの下、川の水は音を立てて左から右へと流れていく。

 すぐ右のところに川幅全体に段差があり、流れは滝のように五十センチばかり落下する。


 再びこの町に初夏が訪れようとしていることが、風の中にも感じられる。

 空も水色から青になり始め、雲が三つ四つ、晴れ間に浮かんでいる。


 対岸の崖の上を下流の方から川沿いの土手の上を走って来た京阪電車が今、終点の三条駅に到着したのが見えた。

 草色の濃淡で塗り分けられているから、各駅停車だ。

 すると、あの電車に彼が乗ってきた可能性は高い。腕時計を見ても、ちょうどそんな時間だ。

 毎朝、良江と誠はそれぞれの大学に行く途中にここで待ち合わせをする。

 良江はわざわざ東山三条で途中下車して三条京阪まで歩き、三条大橋を渡ってこの河原で彼を待つ。

 京阪電車に乗って来た彼は、この後で三条京阪から彼の大学に直通で行く15番のバスに乗る。

 だから、ここが二人の通学路の唯一の接点なのだ。

 良江もの三条京阪から、彼とは違うバスに乗る。それでも二人は朝の短い時間をここで分けあっていた。


 失恋の痛手に落ち込んでいた今年の年明けごろは、まさかこんなに早く今の気持ち、そして今の状態になるとは良江は思ってもいなかった。

 誠とはあのドライブ以降も互いに本心を小出しにし、腹を探り合うという状態だった。-

 春休み中は毎週火曜日に、四月からは日曜ごとに会うたび、彼女の中で誠への気持ちが徐々に結晶作用を起こし始めていた。

 比べるわけではないけれど、でもどうしても比べてしまうけれど、京都に下宿していただけの水野浩と違って誠とは互いに根っからの京都の人ということもあったかもしれない。

 しかし、それだけではなく、誠の優しさがこの町にとてつもなく似合っていた。


 良江はそんなことをも出しながら空を見上げた。

 雲は南からの風に少しずつ北山の方へ流れていく。

 それを目で追いながら、頭上の橋の上からこぼれ落ちてくる雑踏、目の前のせせらぎ、時折の風や草いきれ、それらに包まれて良江はふっと息をついた。


 ――ゆく川の水は絶えずしてしかももとの水にあらず……


 先人がその随筆に書いた川とは、今目の前にあるまさしくこの川なのだ。

 たしかに川の流れのように、時間もどんどん流れていって同じ時間でとまってはいない。

 去年の六月ごろから今まで、本当に目まぐるしい時の流れだった。


 そろそろ彼が三条大橋を渡り終えるころだと思って、良江は立ち上がった。

 立ち上がると木の欄干の向こうに、いつかその上から京都の町を見おろしたあの山が、今度は遠くからこちらを見おろしている。

 この川の流れもあの山も、この町ができてから千二百年の歴史や良江が生まれてから十九年の人生を、言葉もなくそして変わることなく見つめ続けてきた。

 やはり、この「街」が好きだ、と良江は痛感した。


 その時、背後から声がした。


「良江ちゃーん」


 通りから河原に降りるスロープの上の柳並木のあたりに、誠の姿があった。そしてすぐに彼はスロープを駆け下りてきた。

 良江は笑顔で彼を迎えた。

 二人は先程まで良江が座っていた河原のへり上に、川の方へ足を投げ出して並んで腰を下ろした。

 夕方ともなると等間隔にアベックが並んで座るということで有名なこの河原だけど、さすがにこんな朝っぱらから座っているアベックは他にはいなかった。

 新しい一日がこれから始まるように、二人の日々もこれから始まろうとしていた。


「もうすぐ夏やなあ」


 誠が言う。


「その前に梅雨やん。去年は空梅雨や思ったら最後にどえらい豪雨とかあったけど、今年はどうやろ?」


「そやな。でも梅雨が終わったらいよいよ地獄の夏や」


 ふと見上げると、三条大橋の上から修学旅行生と思われる女子中学生が三人ばかり、欄干から身を乗り出すようにしてにこにこしながらこちらを見ている。

 良江は思わず彼女らに手を振った。

 すると中学生たちは声をそろえて良江たちに叫ぶ。


「お二人さん。がんばってぇくれるかな~」


「いいとも!」


 誠が笑顔で叫び返した。それが受けて、中学生たちはキャッキャと笑って行ってしまった

 良江も微笑んで、誠を見た。

 誠ははにかんだように一度目を伏せ、すぐに良江を見て、


「そろそろ行こうか」


 と、言った。




〈『古都物語』  おわり〉

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古都物語 John B. Rabitan @Rabitan

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