夢食みの夜(下)

 ひっく。ひっく。ひっく。

 光も何も無い、真っ暗な世界の中で、一人の男の子が泣いていました。

 大きな声を上げて喚き散らすのではなく、小さな体をさらに卵のように丸くして蹲り、必死で声を押し殺し、しゃくり上げながら、大粒の涙をぽろぽろと零しています。

 男の子の他には誰もおらず、何も見えず、世界がどこまで広がっているのかも分かりません。

 そのまま闇に飲み込まれてしまいそうなほど頼りなく見える男の子の、その背後から。

「なあ、お前。なんで泣いてるんだ?」

 夢路は唐突に、無遠慮に声を掛けました。

 そう。ここは男の子の夢の中。獏というあやかしは、人間の夢を食べるだけでなく、人間の夢の中に入り込むことだってできてしまうのです。

 ひぇっ、と仰天して飛び上がり、男の子は慌てて振り返りますが、世界があまりに真っ暗すぎて、夢路の姿は見えないようです。不安げにきょろきょろとあたりを見回し、男の子は声を震わせます。

「だ、誰?」

「誰でもいいだろ。なあ、なんで泣いてるんだよ」

「それは、だって……すごく怖い夢だったから」

 しどろもどろの男の子の言葉に、夢路は「おや?」と思いました。

 どうやらこの男の子は、自分が今、夢を見ているのだと分かっているようです。いわゆる「明晰夢」というものでしょうが、夢路はそんな難しい言葉を知りませんし、これもまた、彼にとってはどうでもいいことでした。

 なんといっても、今の夢路の関心は、完全に別のことに向けられているのです。

「怖い夢? どんな」

「どんなって……あ、あれ? どんな夢、だったっけ?」

 尋ねられた男の子が、心底不思議そうな様子で首を傾げるものですから、夢路は「はぁ?」と棘のある声を出してしまいます。

 男の子が覚えていないのも無理はありません。なぜならその「怖い夢」は、夢路が全部、むしゃむしゃと食べてしまったのですから。

 それを棚に上げ……いえ、そもそも自分が原因であることに気付くことすらなく、夢路はぷんぷんと立腹して男の子をなじります。

「なんだそりゃ。お前が覚えてもいないような夢を見たせいで、おいらはとんでもなく、しょっぱい夢を食べる羽目になったんだぞ」

「しょっぱい夢? 食べる? なんの話? 君、一体なんなの?」

 困惑した男の子に矢継ぎ早に問い返されて、思わず「おいらは獏の――」と名乗りかけたものの、そこで夢路は慌てて言葉を切りました。あやかしは、軽々しく人間に正体を明かすものではないのです。

「だ、だから、誰でもいいだろ。それより、だったらじゃあ、お前はなんで泣きながら眠ってたんだ?」

 夢路の誤魔化すような質問に、男の子は言葉を失いました。再びぎゅっと膝を抱いて丸くなると、しょんぼりと項垂れて、ぽつりと言います。

「すごくいやなことがあっても、布団の中でしか泣けないもん。パパが怒るし、ママが困っちゃうから。でも、そうやってぐしゃぐしゃの気持ちのまま眠っちゃうと、決まって悲しくて怖い夢を見るんだ」

 今度は、夢路が言葉を失う番でした。

 男の子が言う意味が、なんとなく分かるような、分からないような。でも、なんだかすごく、胸がぎゅっと締め付けられるような、落ち着かない気持ちになりました。

 さっき夢路が味わった、強烈にしょっぱい味。もしも、あの味を食べるだけでなく、あの味の中にずっと浸かっていなければならないとしたら。

 それは、とても耐えられないことのように、夢路には思えました。

「――だったらさ。お前が見るその夢、おいらがこの先、全部食べてやるよ」

「え?」

 男の子が驚いた声を出し、背後へ首を回します。丸い体を男の子の背にもたれかけ、夢路は続けます。背中がじわりと温かくなるのを感じました。

「そうすればお前は、さっきみたいに、怖い夢を見てもすっかり忘れられるだろ? おいらは立派な大人だからな。しょっぱいのも辛いのも苦いのも、全然平気だし。その代わり、甘くておいしい夢を見たときも、ちゃんとおいらに食べさせるんだぞ」

「――それ、ぼくは何も夢を見られなくなっちゃうんじゃないの?」

 ちょっぴり呆れたような男の子の指摘に、夢路は「あっ?」と声を上げました。言われてみればそのとおりだと気付き、慌てて付け加えます。

「それじゃあ、ええと。お前の夢をおいらが食べた夜は、おいらが夢の中でお前と遊んでやるよ! それならお前も退屈しないし、おいらもいっぱい、夢にありつけるだろ?」

 思いつきをそのまま口に出しているうちに、夢路はその思いつきが、なんだかとっても素敵なものに思えてきました。自然と、声もうきうきと弾みます。

 ところが、夢路と背中合わせになった男の子は……何やら、ぷるぷると体を小さく震わせているようなのです。

 俄に不安を覚えた夢路が、おそるおそる振り返って、首を無理矢理伸ばしてみれば。

 男の子は、噴き出しそうになるのを必死で堪えて、可笑しそうにお腹を抱えて笑っていました。

「いいね、それ。楽しそう」

 その明るい笑顔を見た途端、きょとんとした夢路の鼻先で、甘くておいしそうな「夢」の匂いがふわりと漂います。

 そしてその瞬間、夢路のお腹が、ぐう、と大きく鳴り響きました。

 ついに男の子は、声を上げて笑い出します。足をばたばたさせながら笑い転げる男の子に、夢路は「笑うなよぉ!」と情けない声を上げ、男の子の背中を短い手足でぽふぽふと叩くのでした。




 とうの昔に日が昇り、あたりがすっかり明るくなった真昼間のこと。

「おい、夢路! ゆーめーじ!」

 とある田舎町のさらに町外れ。小さな森の中、立派な木の洞の内側に顔を突っ込みながら、丸いお腹とふさふさの尻尾を持つあやかしの子ども、化狸の平吉へいきちが苛立たしげに大声を上げました。

 しかし、洞の中で仰向けにひっくり返っている夢路は、ぐっすりと眠り込んで見事な鼻提灯を膨らませており、平吉の呼びかけにも全く起きる気配がありません。

 二足歩行で立ち上がり、腰の両側に手を置いて、平吉はこれ見よがしな溜息をつきます。

「だめだこりゃ、起きやしねぇ。せっかく花見に誘ってやろうと思ったのによ」

「仕方ないわよ。最近、夜中に散歩へ出かけたら、朝方近くまで帰ってこないらしいし」

 平吉の後ろから洞の中を覗き、長い爪で髭をぴん、と弾きながら、白い毛並みが美しい鎌鼬の子ども、風子ふうこが諭します。が、平吉は不服そうな様子で、締まりの無い夢路の顔を見下ろして口を曲げました。

「どこで油売ってやがるか知らねぇけど、夜は夜で付き合いが悪いし、昼は昼でこの調子だし。全然遊べやしないじゃねぇか。つまんねぇやつだぜ」

「『つまらない』のは、平吉、あんたのほうなんじゃない。夢路と遊べなくて拗ねてるだけでしょ」

「ちがっ……俺はただ、こいつだってたまには誰かと遊ばないと寂しいだろうと思ってだなぁ!」

 意地悪く図星を突く風子のからかいに、平吉は赤面し、大慌てで弁解します。

 騒がしい二匹を尻目に脇から洞の中を窺って、大きな黒い翼と嘴が目立つ烏天狗の子ども、天彦あまひこは目を細めています。

 そして、彼の背後に隠れるようにして、やはり洞の中をじっと見つめている別のあやかしを振り返ると。

「どうする? 無理矢理起こして連れて行くのも、我はありかと思うが」

 背中に甲羅、頭に皿を載せた、気の弱そうな河童の子ども、河太郎かわたろうは、天彦にそう問い掛けられ、しばらく返答に迷います。

 しかしやがて、ふるふると頭を横に振ると、はにかみながらこう言いました。

「遊べないのは残念だけど、このまま寝かせておいてあげようよ。だって」

 お腹を大きく上下させ、口の端から涎を垂らしながら、夢路はむにゃむにゃと寝言のようなものを唱えています。何やら、誰かの名前のようなものを呼んでいるようにも聞こえました。

 満足そうな友人の顔をじっと眺め、河太郎は優しく微笑みます。

「すごく幸せおいしそうな夢を見てるみたいだから」






 Fin.

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夢食みの夜 秋待諷月 @akimachi_f

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