夢食みの夜
秋待諷月
夢食みの夜(上)
とっぷりと日が暮れ、あたりがすっかり暗くなった真夜中のこと。
お世辞にも都会とは呼べない、とある田舎町のさらに町外れ。緩やかな高台に建てられた小さな神社を取り囲む、これまた小さな森の中。
齢百歳をはるかに超える、立派な木の洞の内側で、
象よりは短いけれど長く垂れた鼻をぶるりと震わせ、頭とおしりは黒いのに、お腹のまわりは白い体を、ううん、と伸ばしてほぐします。
そうして、洞の中からのそのそと這い出してきた夢路は、ちらほらと星が散りばめられた夜空を仰ぐと、にやりと楽しそうに笑いました。
「さあ、散歩の時間だぞ!」
陽気に呟き、地面を後ろ足で蹴った夢路の丸っこい体が、ふわりとその場に持ち上がります。
短い手足を前後に動かして宙を掻いたかと思うと、夢路はそのまま、まだ冷たさの残る三月の空気の中を、よちよちと歩くように飛び始めました。
夢路は
あやかしに大人と子どもの区別があるのかと問われれば返答に窮しますが、他の獏と比べて体が小さく、生まれてからの歳月もさほど経っていませんので、子どもと表現して差支えないでしょう。
夢路に家族はいません。とは言え、そもそも生まれたときに「家族」というものがあったのか無かったのかすらも覚えていない夢路は、それを寂しいと思ったことはありません。
友だちはいます。獏ではなく、
ですが夢路は、そんな仲間たちから遊びに誘われても、それが夜のことであったなら、すげなく断ってしまうことも少なくありません。
なぜなら夜は、夢路にとってとても大切な、「散歩」の時間なのですから。
森を一気に飛び越えて高台から麓へと下り、夢路は適当な民家の屋根へ、ぽてん、と音を立てて着地しました。「転げ落ちた」という表現のほうがふさわしい気もしますが、夢路にも夢路なりの「ぷらいど」がありますので、言わないであげることにしましょう。
これだけ遅い時間になっても、あちらこちらの窓にはまだ眩しい燈が灯っています。狭い道路の両端にひょろりと伸びた街路灯の明かりもぽつぽつと浮かんで、屋根の上からぐるりと見渡した光景は、まるで夜空の星を引っ張り落としてきたかのようです。
人間は昼間、あれだけ活発に動き回っているというのに、夜もあやかしに負けず劣らず夜更かしなのですから、呆れを通り越して感心してしまいます。
黒々と光る瓦の上で四つ足を踏んばった夢路は、ふんふん、と鼻をひくつかせ、「夢」の匂いを嗅ぎ取ります。
人間たちが住まう家々を気ままに渡り歩きながら夢を探し、そして糧とすることを、夢路は「散歩」と呼んでいるのです。
もっと立派な、大人の獏になれば、その夢がおいしいか否かを匂いで嗅ぎ分けることもできるそうなのですが、残念ながら夢路には、そこまでの力は備わっていません。
そんなわけで、ただただ夢の匂いにつられた夢路が、いくつかの屋根を飛び移って辿り着いたのは、これといって変わったところもない、二階建ての素朴な一軒家でした。
一階の掃き出し窓からは室内の明かりが薄らと漏れていますが、二階の出窓の中は黒一色に染まっています。夢路が嗅ぎつけた夢の匂いは、どうやら、その二階から漂ってきているようでした。
「よし。今夜はここに決めた」
ぺろりと舌なめずりをして、夢路は狙いを定めた部屋の真上にあたる屋根の上で、四つ足をぎゅっとすぼめて力を込めます。すると夢路の体は、とぷん、と、まるで水中へ沈むように、家の中へと入り込みました。
屋根裏も天井もすり抜けて、そのまま真っ逆さまに落っこちた夢路の体を、柔らかい何かが受け止めます。
ぽてん、ころり。ふわふわとした、ほんのり温かい小山のようなものの上に落ちて転がった夢路は、頭を振りながら起き上がり、あたりをきょろきょろと見回します。
狭い部屋でした。頼りになるのはカーテン越しに忍び入ってくる月明かりだけで、ほんのりと青さを帯びた暗闇に染まる室内の様子はよく見えないのですが、壁や天井が近いことは分かります。とは言え、この部屋が例えどんな場所であろうと、夢路にとってはまったくどうでもいいことなのです。
乗っている小山の上空――部屋のちょうど真ん中あたりを見上げ、夢路はきらりと円らな瞳を輝かせます。
そこに漂っているのは、雲か綿菓子のように白くふわふわとして、靄か湯気のようにぼんやりとした、薄灰色の奇妙な煙でした。
そう。これこそが、夢路たち獏にとっての主食。人間が見る「夢」を、獏が嗅ぎ取ることで現れたものなのです。
煙は揺らぎ流れながら、天井ぎりぎりまでゆったりと広がっています。夢路はごくり、と唾を飲み込んで、後ろ足だけですっくと立ち上がりました。
「いただきまーす!」
意気揚々と告げ、同時に高々と伸ばされた夢路の鼻が、まるで人間が使う「掃除機」のように、あたりに揺蕩う煙をぐんぐんと吸い込みます。
十秒と経たず、全ての煙を綺麗さっぱり吸い込んだ――その直後。
「……っ! げぇっ? げほっ、げへぇっ!」
夢路は目をまん丸に見開いたかと思うと、鼻の穴から煙の切れ端をまき散らし、激しくむせ込み始めてしまったではありませんか。
「うぇ、ぺっぺっ……なんだこれ、しょっぱい!」
唾を飛ばし、舌をだらりと出す夢路は、しょぼしょぼの涙目になってしまいました。
獏が食べる「夢」の味は、内容によって変わります。甘い夢も、すっぱい夢も、苦い味もあります。そして、今しがた夢路が勢いよく食べてしまった夢は、強烈なまでに塩辛い味だったのです。
思いがけず酷いものを食べさせられた――もちろん、夢路が勝手にやったことなので、自己責任なのですが――ことに憤慨し、夢路が怒りを向けた先は、そんな夢を見ていた張本人でした。
「ええい、なんてもの食べさせてくれるんだ! 一体、どんな夢を見てるんだよ?」
ふんわりとした小山――夢を見ている人間がくるまっている布団の上を、怒りに任せてよじよじと這い上り、布団と枕の間からちろりと見える顔を覗き込んで。
そこで、夢路はぎょっとしました。
夢の主は、人間の子どもでした。おそらくは、いわゆる「小学校」とやらに通っているかいないか、という年頃で、やはりおそらくは雄、つまり、男の子のようです。
男の子は、泣きながら眠っていました。
窓から差し込む月明かりでぼんやりと照らし出される、丸いふっくらとした頬に、涙が流れた跡がまだ乾かずに残っています。手でぎゅっと掴んだ布団のシーツと、顔の下にある枕が、ぐっしょりと湿っているようでした。
男の子の顔をじっと眺めているうちに、夢路の怒りはどこかへ引っ込んでしまいます。お腹いっぱいに吸い込んだ夢が、あんなにもしょっぱかった理由が、夢路にもなんとなく分かった気がしました。
ですが、そのまま立ち去るにはあんまりに、文字どおり、「後味が悪い」ように思えて。
ふん、と鼻を鳴らして気合いを入れた夢路は、先ほど屋根の上でやったのと同じように、布団の山の上で四つ足をぎゅっとすぼめて力を込めました。
とぷん。
水音のような小さな響きが聞こえたかと思うと、もうその時には、夢路の姿は部屋の中からすっかり消え失せていました。
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