花と月と雪と
梓馬みやこ
夜の散歩は美しい
夜の散歩が好きだ。
昼間はごちゃごちゃとしてみえる風景も、人も、余計なものは何も見えない。
私が現在暮らしているのは地方である。誰かに会えば挨拶必須のこの地域では、遠くに人影があればその移動ルートも逐一視界に入れておく必要があった。
昼間の散歩は非常にストレスフルだ。
だから、それが見えない夜は良い。
無論、田舎で灯りが少なかったり、視力の問題で数十メートル先は闇に沈んで何も見えないという日もあるのだが、進んでみると意外とその先が見通せるようになるのはある意味、人生に似ているとも思う。
暗闇を恐れて踏み出せないと、その先にはたどり着けないが行ってみると怖がるほどでもなかった、という典型的な現象だ。
私は、大学時代は都内の出生地で暮らしていたが、都会でも真夜中になればなるほど街が静けさに沈んで落ち着く空気になっていく。
一階の角部屋で灯りを落としていると、ジャリッジャリッとすぐ横の道路を歩く人の足音や、ゴトンゴトンと少し離れた線路を通る貨物列車の音、真夜中に鳴く烏、それから救急車のサイレンすらも夜が更けるほど静かに聞こえる。
田舎であろうと都会であろうと、昼は「動」の時間なら、夜は「静」の時間なのだ。
例外はもちろんあるが、そんな静けさの中で散歩に興じると、ひどく落ち着く。
行き交う人がいない地方は特に、まるで自分一人の世界のようにとても自由さが感じられる。
この辺りの感性は、すこし人とずれているのだろうとは思う。
私は一人でいる時ほど自由であると感じている。
それは何をしても、何を見ても、何を聞いても、どこへ行っても許される時間だ。
孤独というものを感じるのは人といる時くらいのものだろう。
「孤独を孤独と思わない人は孤独ではない」
いつだったかそんな偉人の言葉を目にしたことがあるが、たぶん、そう言うものなのだろうと思う。
むしろ私は一人の時ほど周りに何があるのか、何があるのか、より多くの存在を認識しているように思う。
例えば花。
どこにでも生えている白い野花は、夜になるとまるで存在感を変える。
闇の中に浮かぶ無数の白く小さなそれは、まるで先導する様に道脇に生えている。
例えば星。
それが出ている時は、見上げればほとんど独り占めである。
大抵、一人でいる時は「ギフト」があって、流れ星を見ることができる。
例えば樹木。
特に冬は、木々が葉を落とし、シャープな影が人の手では表現できない繊細さで細く、黒い影になって紺色の空に映える。
そして月。
満月の夜が最高だ。
足元にくっきりと浮かぶ自分の影を見ながら歩くのが楽しい。
滅多にないことだが良く晴れていて、うっすらと雨が降る日はムーンボウが見られそうだと思いながら歩く。
そんな、真夜中の散歩のもっとも思い出深い話をしよう。
ほんの一瞬の出来事だからここから長くはかからない。
もう少しだけお付き合いいただきたい。
その日はやはり満月だった。
雪もそれなりに降る地域だが、除雪は割合しっかりしているので道は以外は雪がそれなりに深く積もり、月明かりに照らされる様はますます、開放感を底上げしてくれた。
足取りも軽く、自分の影も実際、とても身軽に動いていた。
歌や踊りと言ったものは嗜まないが、気分はすこぶるよく、踊り出したい気分にはなる。そういう夜だ。
私は運動も嗜まなかったが、身体を動かすのは好きだ。
踊る代わりに、なんどなく走りたくなって、誰もいない、何もない直線の道を私は月明かりの下、駆け出した。
ジョギングのスピードは助走程度。本当に、久しぶりに本気で駆けたくなった。
結果。
スニーカーの底でも踏めるほどの厚さの新雪。その下が凍っていることに気付かず、私は転倒した。
全力疾走のスピードがそれなりに早かったため、そのまま前方に三回転して、片手付き、片膝立ちの態勢になったところでぴたりと回転は止まった。
スタントマンか私は。
ほんとうに一瞬の出来事だった。
新雪の下に氷、という現象はしばしばあるのだが、その場合、雪の下で眠る氷はスケートリンク並みのつるっつる加減で、摩擦係数ゼロの世界である。
普通に歩いていても死ぬるレベルの恐ろしいトラップである。
そんなトラップを受け身も知らない人間が、あんな芸当を身をもって体験する。
これが私の真夜中の散歩の一番印象的な出来事である。
かすり傷ひとつ追わなかったあの夜は、私にとっても奇跡の夜だと思う。
きっと氷の上で転びなどして、大流血していたら
真夜中故に誰も助けてくれない
何事もなかったかのように散歩を再開してそれから30分くらいは歩いただろうか。
あの時も信じがたい出来事だと心に仕舞いこんだままここまで来た。こんな機会でもなければ書き記すこともなかっただろう。
そして、今にして私は思うのだ。
動画に撮っておけばよかった(どうやって)。
花と月と雪と 梓馬みやこ @miyako_azuma
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