お化け郵便局の思い出
清瀬 六朗
第1話 お化け郵便局の思い出
引っ越し前に、一日、時間が空いたので、東京に来てぼくが最初に住んだアパートの場所まで行ってみることにした。
ぼくとうさぎのぬいぐるみを介してみょうな縁があった女はもうここには住んでいない。ぼくが住んでいたアパートももう建て替えられて存在しないことは知っていた。いまは戸建ての個人の住宅になっていて、まったく見知らぬ人が住んでいる。
それでも、東京に出て来て最初に住んだ街に、独身の日々最後のあいさつをしておきたい、という、まあ、感傷だ。
あのころは駅は地上駅だったが、いまは高架になっている。たぶん駅の位置は昔と少し違っているだろう。
下りのエスカレーターは動いていたが、ぼくは、ゆっくりと、体が揺れるに任せて、その横のコンクリートの階段を下りる。駅の屋根に当たる春先の太陽が間接照明になって足もとを照らす。
改札を出たところの街並みは昔とぜんぜん違っていた。
駅の場所が違う以上、改札の場所も違うのだ。だから、そこが、ぼくが住んでいたころのどこにあたるのか、見当もつかない。
ぼくの住んでいたところは高台だったので、とりあえず、緩い上り坂になっている道を選んで進む。
ふと、小さいながら、道の横にガラスがきらきらした建物があるのに気づいた。
街の郵便局だ。
郵便局!
ふと、ぼくの足が止まる。
建物はあのころとは違っている。いまどきの郵便局らしく、正面はガラス張りで、奥のほうへとカウンターが続いている。
でも、場所は、ここだ。
同じ場所に建て替えたのだろう。
ぼくがここに住んでいたとき、この郵便局は、いかにも安普請という感じの古ぼけた建物だった。しかも、前が花壇のようになっていて、そこに何本も木が植わっていた。そのせいで郵便局だとは気づきにくい建物だった。
ぼくはひそかにこの郵便局を「お化け郵便局」と呼んでいた。
それは、ある夜、深夜の散歩で起きたできごとと関係がある。
この街に住み始めて半月ほど経ったころ、ぼくは深夜の散歩に出た。
アパートの隣の部屋の住人のせいだ。
このひとは、同年代の学生で、気さくないい人だったけど、少しだけ問題があった。
それは、この学生が軽音サークルでドラマーをやっていて、ドラムの練習をやることだ。ふだんは夜中に練習したりしないのだが、本番が近づいたりすると深夜でも練習をやる。
練習用のドラムで、大音響はしない。でも、隣のぼくの部屋ではスティックが硬いゴムを叩くペタペタいう音だけで十分にうるさいし、何より振動が伝わってくる。
その夜もそうだった。
夜十一時ごろになって、いきなり練習を始めたのだ。
まあ一時間ぐらいしたら終わるだろうと思って、ぼくは散歩に出ることにした。
そのころ、ぼくはまだこのあたりの街にも慣れておらず、知っている道は駅へ行く道だけだったので、とりあえず駅のほうに向かう。
駅まで行っても電車に乗るわけではない。駅の向こうのコンビニで時間をつぶして帰ろうかと思ったが、べつにそのとき買わなければいけないものもなかった。コンビニの棚を見ていると、いらないものを衝動買いしてしまいそうで怖い。貧乏学生のことで、おカネは節約したかった。
だからといって、すぐに引き返したら、隣はまだドラムを叩いているだろう。
いつもとは違う道を通って帰ってみよう。
ぼくはそう思った。
ぼくの家は、駅から線路に沿って緩い坂を上がり、自転車屋さんの角で曲がり、少し行ってからもういちど左に曲がって、まっすぐの坂道を登ったところにある。
登った突き当たりが大きい公園で、その入り口の斜め前だ。
その自転車屋さんのほうに行かず、駅前商店街を歩いて行ったらどうなるだろう?
行ってみることにした。
深夜のことで、その時間、駅前の商店街に開いている店はほとんどなかった。
そんな夜中でも写真館の大きい看板には煌々と明かりが灯っていた。安い洋食屋さんは店の戸を開けて店の片づけをしていた。魚屋さんの前には簀の子が立てかけて乾かしてあった。たぶん、昼間はこの簀の子の上に魚を並べて売っているのだろう。
ぼくは、この商店街を通っても、左に曲がれば、あの公園に出られるはず、と見当をつけていた。
しばらく行くと銭湯があった。
銭湯はまだ開いていた。白い明かりが漏れている。もちろん風呂に入り来たわけではないから通過する。
この銭湯が商店街の果てだったらしい。
銭湯の向こうには店がなく、戸建ての家や高層ではない集合住宅が並んでいた。
そのあたりで左に曲がれば、自分の家に帰れるはず、とぼくは安易にも思っていた。
ところが、いくら行っても、着かない。
アパートは坂を登ったところにあるので、道は上り坂になるはずだ。
ところが、左に曲がってしばらく行っても、上り坂にならない。
かなり行っても上り坂にならない。
道は、突然、車通りがないわりには道幅の広い道路に出た。道の向こう側はフェンスで仕切られただけの空き地で、手前にはやっぱり個人住宅が並んでいる。
これは、違う。
それに、いくらなんでも、うちはこんなに遠くない。
道をまちがえた、というか、適切ではない道に来てしまったのは明らかだった。
そこで、そこから、来た道を逆にたどって駅まで戻ることにした。
もう、行きに
ここまで迷うと、早く家に帰りたい、という思いが強くなっていた。
隣がまだドラムを叩いていてもいい。
いや。ぜんぜん知らない街に迷い込んだあとでは、むしろ「隣のドラムの練習がうるさいあの場所に帰りたい」という思いが湧いていた。
要するに、ぼくは、このとき、もう落ち着きを失っていたのだと思う。
駅まで帰って、駅からの帰り道をたどり直せば家に着くはずだ。
でも、早く家に帰りたい一心で、ぼくは、あの看板が夜も明るい白い光を放っている写真館の横で道を曲がった。
そこはたしかに上り坂になっている。上り坂になっている以上、駅からぼくの家まで続く道の途中に出られるだろう、と思った。
ポールで自動車が入れないようにした道だ。両側にも店はない。明らかに「店の裏」、「家の裏」の感じが漂う路地が続く。
その細い路地を上がったところに、いきなり郵便局が現れた。
街の郵便局のことだから、深夜には閉まっていて、人気はない。店の前に植え込みがあって、あまり育ちのよくなさそうな木が並んでいる。その向こうにはすりガラスの窓があり、窓には少しの明かりも見えなかった。ただ赤い郵便マークだけがここが郵便局であることを示している。
ぼくは、その郵便局に、何か近寄りがたいものを感じて、道を引き返した。
こんどは堅実に駅の改札口まで戻る。
そこからいつもどおりの道をたどることにした。
夜も深夜なので、いつも通っている道が、しずまりかえっているだけでなく、よそよそしく見えた。
道を上がって、道を曲がろうと顔を上げたら、そこに郵便局があった。
前に植え込みがあることといい、人気がまったく感じられないことといい、さっきの郵便局らしい。
違う。
こんなところに出るはずがない!
ぼくは駅前まで引き返した。
ところで、こんなのはスマホの地図を見れば一発、と思うところだけど、当時はまだスマホがなかった。世のなかにはあったのかも知れないが、ぼくの身のまわりにはなかった。さらに言えば、もしスマホの地図があったとしても、ぼくはそのころ自分の家をプロットできていなかったので、やっぱり役に立たなかっただろう。
イナカとは言えないまでも、平坦で見通しが利き、しかも道が単純な街に住んでいたので、家とかビルとかが並んでいて見通しが利かない、という、ここの環境にぼくはまだ慣れていなかった。
途中で近道をしてもだめ、いつもの道を通ってみてもだめ。
だったら、一度、商店街をさっきの銭湯のところまで行って、あの道幅の広い道に出る前に引き返してみたらどうだろう、と思った。
遠回りになるかも知れないけど、トラップのように待ち構えているあの郵便局の前は通らずにすむ。
さっきは平坦なほうに行ってしまったので、こんどは少しでも上り坂になる道を探してみる。
何度か、細い道を右へ曲がり左へ曲がりしたあと、やっと上り坂になっている道に出た。その坂道を上がってみる。
しばらく、というより、かなり歩くと、見たような町並みに出た。
そして。
そこに、あの郵便局があった。
植え込みがあって、明かりはついていなくて。
どう見ても、あの、さっきから何度も前を通りかかった、あの郵便局だ。
もうこのころにはパニックに近い状態になっていたのだろう。
ぼくは、いつもの街を歩いているように見えて、ぜんぜん違う時間と空間に迷い込んだのだ。
世のなかから切り離されて、ぼくは、あの郵便局のところにすべての道が引き寄せられる異空間に来てしまったのだ。
そして、この切り離された異空間で、ずっと、ずっといろんな道を歩くのを試して、これからずっと過ごすんだ、と思った。
体の底から、じわじわと大きい恐怖が湧いてきた。
その恐怖にとらわれて、身動きできなかった時間がどれぐらいだったか、わからない。
たぶん、客観的な時間で言えば、ほんの数秒だったのだろう。でも、ぼくはそんな恐怖に、五分とか、十分とか、いや、そんな単位では計れないぐらいとらわれていた、と思っていた。
電車の音がして、われに返った。
そうだ。
電車というものがあった。
電車に乗ろう。
この空間でも電車は走っているらしい。ならば、電車に乗ることで、この閉ざされた異空間の外に出られるはずだ。
ぼくは、慌てて改札まで走り、切符を買って、電車に乗った。まだ「交通系ICカード」がどの会社線でも使える、という便利な時代ではなかったので、切符を買わなければいけなかったのだ。切符を買っているあいだに電車が出てしまったらどうしよう、とあせったのを覚えている。
乗ったのは、たぶん、終電の何本か前の電車だっただろう。
電車のなかで、普段どおり、隣駅の名まえがアナウンスされて、ぼくはほっとした。
大きく、大きくため息をついたのだったと思う。
ぼくは、隣の隣の駅で降りた。
隣の駅はわりと近かったので、もしかするとそこまで異空間にのみこまれているかも知れないと警戒したのだ。
そして、その隣の隣の駅でタクシーに乗り
「
と言った。貧乏学生には、タクシーの深夜料金は痛い出費だったが、またあの駅に戻って異空間にとらえられる恐怖を思うとしかたなかった。
当時は、深夜のタクシーは近距離を行くのをいやがるというのが常識だったけど、その運転手さんが親切だったのが救いだった。深夜放送の流れているタクシーのなかで、ぼくは、たしかに現実の世界に戻ってきたと感じた。
それでも、タクシーを降りるまではぼくは疑っていた。
「はい、ここが鳥毛公園前だよ」
と下ろされるところが、ぼくのぜんぜん知らないところで。
「いや、ここじゃないんですけど」
とぼくは抗議する。しかし、
「何言ってるの? 鳥毛公園なんてここにしかないんだから」
と言われて、タクシーは行ってしまう。
……そんなことになったらどうしよう、と思った。
でも、そんなことにはならず、タクシーはぼくの住んでいるアパートの斜め前で止まった。
ぼくのアパートは、しっとりした夜に包まれていた。
さっきの異空間で感じていたぴりぴりした感じは、ない。
ぼくはアパートの階段を上がって自分の部屋に帰った。
鍵を開けるまでまだ恐怖が残っていたけれど、部屋のなかはぼくが出たときのまま、奥の部屋だけ電気がついているのも変わらない。
隣のドラムの練習はもう終わっていた。
もういちど、大きく、ほっと息をついた。
ぼくが散歩に出てから、一時間半が経っていた。
その異空間の謎が完全に解けるまではしばらくかかった。
でも、大ざっぱなことはすぐにわかった。
いつも駅まで歩いていた道の横に、もともと、あの郵便局はあったのだ。
表に植え込みがあって目立たないので、ぼくがそれを郵便局だと認識していなかっただけだ。
だから、駅からふだんどおりの道を歩いても郵便局に出る。
ただ、昼間や夜の早い時間には角の自転車屋さんの印象が強かった。自転車屋さんの店先にはたくさん新品の自転車が並べてあったからだ。ぼくは東京に来てその店で自転車を買ったのだから、なおさら印象が強かった。
その店が閉まると店頭の自転車は片づけられるので、その自転車屋さんは目立たなくなる。そのかわり、隣の郵便局のほうが目立つのだ。
それで、いつもの道を帰っているはずなのに、いきなり郵便局が出現するように見えた。
あの写真館の路地を上がると、何のふしぎもなく、その郵便局の前に出る、ということもわかった。路地は斜めについていて、商店街の途中から、その郵便局の前まで緩やかに上り坂になって続いていたのだ。
銭湯からの道筋を理解するには少しかかった。
でも、かんたんなことだった。
その道は、ぼくの家に上がっていくまっすぐの坂道に曲がる手前で、駅へと向かう道と合流するのだ。その道の横に郵便局があるのだから、当然、そこを歩くと郵便局に出る。
その合流した地点で、そのまま進むのではなく、斜め後ろの道に行けば家に戻れたのだけど、そんな考えは浮かばなかったものだから、けっきょくその郵便局のところまで行ってしまった。
そういうことだった。
その後、ぼくは、あの郵便局を「お化け郵便局」と呼ぶようになった。そんな言いかたはぼくしか使わなかったけど。
そして、速達を出したり、定形外郵便を出したり、電気代・ガス代を払ったりするときには、たいてい、このお化け郵便局を使っていた。
道幅の広い道の謎が解けるまではもっとかかった。
その年の梅雨のころまでは、郵便局の謎は解けても、あの道幅の広い道はやっぱり幻だったのではないかとずっと思っていた。
夏になって、自転車で遠乗りに行くときに、たまたまそこを通り、「ああ、ここだったか!」と思った。
それで、その道が実在すること、その道は、ぼくの家のある公園とはぜんぜん違う方向にあることがわかった。
そのころには、すべての現象の元凶も探り当てていた。
呪いとか、そんなのではない。
単純なことだ。
道が直角についていないこと!
このあたりでは、曲がり角が直角でも、どの道も微妙にカーブしているのだ。そのカーブのせいで、道はいつの間にか斜めになり、ときには九〇度以上曲がっていたりする。
あの郵便局のあるところは、そうやって微妙にカーブした道が集まるところにあたっていた。
逆に、銭湯のところで曲がる道は、公園とは反対側へと少しずつ曲がっていき、ついに公園のある高台とは正反対のほうに向かうようになる。それで、正反対の場所についているあの道幅の広い道に出るのだ。
ちなみに、その道幅の広い道が、大規模な開発計画が途中で行き詰まって、その部分だけ広い直線道路を造成して終わってしまった結果だ、ということを知ったのはだいぶ後のことだ。
あのうさぎのぬいぐるみを持って行った子にその話をすると、「なんであんなところで迷うのよ? あんたってちょー方向音痴でしょ!」とバカにされた。
ここで生まれ育った彼女には、道が直角についていないのなんてあたりまえのことらしい。
そして、いま。
ふと、あのときといっしょだ、と思った。
あの植え込みの向こうで目立たない郵便局から建て替えられたガラスのぴかぴかの郵便局の前で、ぼくは身動きできなくなっていた。
その時間は、客観的な時間で言えば、ほんの数秒だったのだろう。
でも、ぼくには、五分とか、十分とか、いや、そんな単位では計れないぐらいの時間に思えた。
あのとき、電車に乗らずに、あの異空間にとらわれたままになっていたら、ぼくはどうなっていただろう。
いまも、建て替えられる前の郵便局が世界の中心になった異空間のなかを、家に帰る道を求めてうろついていただろうか?
そうだとして、と、ぼくは思う。
その空間から脱出して、ぼくはそれだけいい時間を過ごせたのだろうか?
もしかすると、異空間のなかを迷っていたように、いまの空間のなかを同じように迷っているだけではないか?
ちょっと、ぞっとした。
だから、ぼくは、昔のアパートがあった場所を再訪する前に、あの深夜、迷った道をたどり直してみることにした。
昔の改札口のところ、写真館の路地、銭湯、そして、できれば、あの不自然に道幅の広い道。
それをぜんぶ再訪してから、アパートのあった場所まで行ってもいい。
どっちにしても、まあ、感傷なのだから。
(終)
お化け郵便局の思い出 清瀬 六朗 @r_kiyose
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