月光の下、毒蜥蜴の血は蠢く

五色ひいらぎ

月光の下、毒蜥蜴の血は蠢く

 頭がくらくらする。寒気がひどい。全身に震えが走る。

 吐き出したぐちゃぐちゃの食物が、石の床を汚している。みっともない、だが、吐き気はなおも治まらない。胃の中身を全部ぶちまけ、胃液と鮮血以外が出てこなくなっても、なお、私は吐き続けていた。


「へ……陛下は、ご無事ですか」


 嘔吐の合間、震える声で小姓に問えば、優しい手が私の背を撫でてくれた。


「ご安心ください、レナート様……陛下は、まだ手を付けてはおられません。残りの食事は警備兵が回収しました。追って調査がされるでしょう」

「いえ……わかります。魚です。マグロのカルパッチョ……あれに、少しばかりおかしな味が――」


 最後まで言い切ることができず、私は激しく咳き込んだ。口を押さえた手が、熱い液で濡れる。見れば、掌も指も真っ赤に染まっていた。

 私は、ここで死ぬのか。

 迂闊だった。わずかに感じた生臭さは、落ちた鮮度ゆえではなかった。あれを正しく異物と認識してさえいれば。

 ああ、だが、悔やんでももう遅い。

 生ける盾として、陛下をお守りすることには成功したようだ。だが願わくは、もっと長く、末永く、お傍で――



 ◇



 ……気がつけば、夜着はぐっしょりと汗に濡れていました。

 心臓が激しく打っています。息を吐けば、胃が裏返るような吐き気と悪寒が蘇ってくるようです。「あの時」のこと、最近は思い出すことも少なくなっていましたが、今日のこの夜に夢に見たのは、やはり宮廷料理長ラウルとの会話のせいでしょう。

 あの時と同じ初夏。気温が上がればすぐに悪くなる、魚。


「合理的な理由……だと、思うのですがね」


 荒い息と共に、独り言が漏れます。

 四日後に訪れる辺境伯を、魚料理でもてなしたい――というラウルの提案。受け入れられない正当な理由は、いくつもあります。決して、個人的な恐怖のゆえではない……はずです。事実あの時の犯人は、特有の臭気を持つ猛毒「バジリスクの血」を、初夏の魚の臭いに紛れ込ませることに成功していた。少なくとも、同じ手口が使われる危険はあるはずなのです。

 寝汗を拭い取り、私は寝直そうとしました。ですがどうにも眠気が来ません。夢での強い苦痛が、頭か身体のどこかを覚醒させてしまったのでしょうか。

 しかたなく、私は枕元のランタンに火を入れました。おりしも今日は満月。月明かりの下、しばし夜風で涼んでくるのもいいかもしれません。


 廊下を抜けて庭園に出れば、外は雲ひとつない月夜でした。盛りを過ぎた薔薇の花壇が、青白い光を受けて静かに揺れています。私はランタンに蓋をして光を隠し、背丈ほどある垣の合間を歩き始めました。

 甘い匂いが、微風に乗って漂ってきます。

 月は人を狂気に陥れる、とも聞きます。ですが今夜の清浄な月光は、私の内に残る傷と恐怖に染み込み、やわらかく溶かし去ってくれるように感じました。

 薔薇の香を味わおうと、大きく息を吸い込むと……不意に、脳裏を見慣れた顔が過ぎりました。


(……ラウル)


 吸い込んだばかりの空気が、溜息になって出ていきます。

 くっきりと思い出された、人好きのする笑顔。同時に胸中に灯ったのは、月光の如くやわらかい何かでした。


(私は、少し意固地だったかも……しれません、ね)


 彼とて、悪意で提案してきたわけではない。それはわかっています。わかっていました。

 ですが、わかっていたなら……もう少しだけ歩み寄れたかもしれない。

 薔薇垣の間を戻り、私はランタンの蓋を再び開けました。橙色の光が行く手に満ち、城内への入口を照らしました。

 今なら、眠れそうな気がしました。



 ◇



 ランタンの灯りを頼りに廊下を歩んでいると、不意に中庭から人の声が聞こえました。

 はじめは巡回の警備兵かと思いました。が、どうやら声は二人です。どこか不穏なものを感じ、私は中庭の入口にそっと近づきました。ランタンの蓋を閉じ、聞き耳を立てます。


「……日後の……、会見…………辺境伯……」


 聞き覚えがある声の気もします。が、声が遠くて判別はできません。

 が、続いて聞こえてきた声に、私は凍りつきました。


「会食……魚……、鮮度……臭み…………」


 内容が聞き取れないほどに、遠い声。

 ですが確かに声色は、日々聞き慣れた相手――宮廷料理長ラウルのものでした。

 ランタンを落としかけた指を、すんでのところで支えます。心臓の拍動が早まっていく間にも、話し声は聞こえ続けていました。

 そして、その言葉を発した声は、確かにラウルでした。


「……毒…………バジリスク……」


 バジリスクの血。

 かつて陛下の命を狙う者が用い、私を死の淵へ陥れた毒物。

 私はその名を、ラウルには話していないはず。なぜ彼が、忌むべき毒の名を口にするのか。

 そして、話の相手はいったい誰なのか――

 さらに聞き耳を立てようとすると、話し声は不意に止まりました。二つの足音がこちらへ向かってきます。

 とっさに私はその場を離れ、急ぎ、部屋へと戻りました。


 私は、この出来事にどう対処すればよいのか。寝台の上で、考え込みます。

 城の誰かに相談するわけにはいきません。そうすれば疑いがかかるのはラウルです。彼は比類なき腕を持つ料理人。多少素行に問題があるとはいえ、我が王のためにはかけがえのない人材です……彼の立場を危うくする動きは、できれば避けたい。

 しかし、だとすれば、私はどう動けばよいのか。

 一度疑いが生まれれば、黒いものは胸中で際限なく膨らんでいきます。月光によって浄化された身の内が、みるみるうちに蚕食されていきます。

 彼とて、悪意で魚料理を提案してきたわけではない――さきほどまで、私は確かにそう思っていました。

 ですが、本当にそうなのか。

 あの時と同じように、特有の臭気を持つ毒を、魚の臭いに紛れ込ませようとしているのではないか。

 そう考えれば、あの執拗な態度も納得できます。……納得できて、しまうのです。


「ですが、同じ手は二度と通用しません……一度口にしたものの味、この舌が忘れるはずはないのですから」


 自らに言い聞かせるように、呟きます。

 彼の真意はどこにあるのか。私にはわかりません。

 ですが、私のなすべきことはただひとつ。毒見人として、生ける盾として、国王陛下のお命を悪しき者の手から守り抜くこと。

 その使命さえ達成できるのなら、自らの命など、惜しくはありません。

 ですが、そのために私がとりうる最善手は、いったいどこにあるのか――

 今夜はどうやら、眠れそうにはありません。それでも、疲れは少しでも取らなければならない。

 動き続ける頭を休める術を持たないまま、私は、寝台に身体を横たえました。



【了】

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月光の下、毒蜥蜴の血は蠢く 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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