蠅ィ鬟溘>陌ォ、それから客と店主

三浦常春

蠅ィ鬟溘>陌ォ、それから客と店主

 夜、人類の大半が寝静まったころ、久方ぶりに外出する気になった。


 近頃、妙に減りの早いコーヒー豆を補充するため、行きつけのコーヒー屋へと向かうことにした。


 自宅の明かりが全て消えていることを確認して、しっかりと戸締りをする。鍵はあまりにも小さくて、少し気を抜けばすぐに失くしてしまいそうだ。


 腹のあたりにある袋に大切に突っ込んで、もう一度鍵がかかっていることを確認する。どれだけ確認しても不安に駆られるのだから、いっそのこと鍵や明かりを消さずに出かけてみようか。


 なんてことを思ったけど、万が一にも泥棒に入られたら大変だ。人類の血液は掃除しにくい。


 さて。時刻は午前二時。草木も眠る丑三つ時――なんて呼ばれる頃合いだ。この時間帯になると幽霊やら妖怪やらが活発になる、そう日本国では言われているそうだが、にわかには信じがたい。


 幽霊や妖怪は、人類の恐怖心と想像力から生まれたという。つまり錯覚であり、存在の是非を問うこと自体が非現実的であると言えるだろう。


「おや、こんばんは。いい夜ですね」


 ふと声が聞こえる。数秒経って、ようやく自分に話しかけているのだと気づいた。


「あ、ぁ……」


 挨拶の言葉はすっかり抜け落ちていた。ただぺこりと頭を下げて応じる。とても人類っぽい仕草だなと思った。


 話しかけてきたのは老人だ。日本国の民族衣装に身を包み、手には杖、頭は丸々としていて重たそうだ。


 人類だ! ぎょっとするとともに、ひどく不思議に思った。この人間は己を怖がらないと。


「そこの廃屋で書肆しょし……本屋を営んでいる方でしょう、お会いできて光栄です」

「し、知ってる、ですか……!?」

「ええ、もちろん。存じ上げていますとも。何度かお茶をご馳走いただきました」


 丸い頭を満足気に振って老人は応える。はて、と首を傾げれば、老人は「そういうものだ」と笑った。


 妙なことを言うご老体だ。しかし、『そういうものだ』という納得の仕方はある意味正しいような気がする。


 科学は万能ではない。確かに人類と異星の技術力は異なる。だが優劣があるというわけではなく、ベクトルに差があるだけなのだ。今回の例で言うならば、妖怪や幽霊の類がそれにあたる。


「ええと……お口に合ったなら、よかった、です」


 また来てください、と言うと、老人はにこりと笑った。


 カランコロンと音を立てて老人は去って行く。いつの間にか身体中に力が入っていたようだ。触手の先が少し痺れている。


 とにかく言葉が通じてよかった。練習の成果が出たというものだ。長らく音声言語の反復練習につき合ってくれた友達に手を合わせた。


 音が完全に聞こえなくなったところで、ようやく歩き出す。


 目的のコーヒー屋は、自宅から三百十五メートルほど歩いたところにある。人類の住宅街を通り抜けて、シャッターの閉まり切ったアーケード街へ。そこから細い路地へと入り込むと、ピカピカと光る外壁に辿り着いた。


 コツコツと扉を叩いてドアノブを捻る。カランと鳴るのは扉になぜかぶら下がる楽器だ。次いで漂うコーヒーの香り。


 コーヒーの香りは存外強くて、本の香りを上塗りしてしまう。だから本がたくさん置いてある場所で嗜むのは褒められた行為ではないのだが、この店に来ると悪くないと思ってしまう。


「こんばんは。あの、豆、コーヒーの」


 そう声をかけると、カウンターの向こうからのそりと女性が顔を出した。宇宙のような髪と染み一つない真っ白なワンピース。コーヒー屋の店主だ。


 店主はこくりと頷いて、体格にしては小さな匙を取り出す。窮屈そうに身を屈めながら、紙袋にコーヒー豆をザラザラと注いでいった。


 いつも思うのだが、この店の物は小さい。天井も店主の頭がついてしまうほど低いし、カウンターもコーヒー豆の保存箱も低いところにある。人型に近い彼女にとってはさぞや使いにくいことだろう。


 曰く、先代から引き継いだとのことだから、ひょっとしたら先代は小さかったのかもしれない。人類と同じくらい。


「あ、ちょっと多く……二倍、で」

「ぽ」

「そう、すぐ終わっちゃって……昼と夜、一杯ずつ、なんだけど」


 コーヒーを頻繁に嗜むという『社畜』なる人種と比べると、かなり控え目な摂取量のはずなのだが。首を捻ると、店主も同じような仕草をする。


 世間話(我ながらたくさん話せたと思う)もほどほどに、店主は二つの紙袋を差し出した。コーヒー店のロゴを印刷した、いつもの袋だ。この袋もコーヒー豆に負けないくらいよい匂いなのだ。


「ありがと、ます」

「ぽ」


 袋を受け取って対価を支払う。もちろんきちんと日本国の通貨である日本円で支払った。腹のあたりにある袋に残りの貨幣を突っ込んで、コーヒー豆の袋を胸に抱える。店の数倍は濃い香りが嗅覚器を刺激する。


 うん、これだ。


「ぽ」

「え……? あ、はい……」


 ふいに投げかけられた言葉。それにぱたりと瞬きをする。何のことだろう、そう思いつつも、幸せの塊が帰路を急かした。


 ――お客さんに気をつけて。

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蠅ィ鬟溘>陌ォ、それから客と店主 三浦常春 @miura-tsune

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