地獄口論
マスケッター
勝手にしろとはいったけど
独り者で趣味らしい趣味のない三十男。そんな人間の休日はたかがしれている。
まず、だらだらDVDで映画を眺める。次にビールやウイスキーをちびちびやったあと一眠りし、春になったのをさいわい……雪でもふらないかぎり冬でも似たようなものだが……散歩する。とうに深夜だが、治安が悪いのでもなし。
一応ひげぐらいはそっているが、中肉中背なうえに美しくも醜くもない面とあっては当の本人が浮いた話など諦めている。
そんな彼、影野 海典の眼下には地獄が広がっていた。二次元で。
正確には、いつも代わりばえしない近所の家なみを十分ほど歩いていたらでくわした。
路上には、めくるめく恐るべき責め苦がぎっしりと描かれていた。漫画やイラストではなく、実写映画さながらに……路面をスクリーンにして……展開されている。止まった絵ではなく、本物同然に動いていた。道ばたには街灯がついてはいるが、重苦しくも薄赤い光が映像から発されている。そのせいで、よりはっきりと中身が見えた。
ただ、腰布一丁の鬼どもが針山だの釜茹でだので罪人を痛めつけるのはいかにもな光景ではあった。そのステレオタイプな様子が、影野に驚きや恐怖よりも好奇心を引き起こした。
幸か不幸か、周囲には彼以外誰もいない。辺りの家々も就寝中とみえて灯りが消えている。ならば、さしあたり彼はこの異常な事態を独占できる。
『おおっ、ついに同調できる人間が現れたぞ』
影野の頭の中で、突然声がした。老いた男性のようにしわがれている。危うく叫びだすところだった。
『ならば、私達と一匹の姿やこの風景も目にできるはずですね』
と、今度は理知的だが冷ややかな大人の女性の声音。
『一匹ってボクのこと? せめて人間扱いしてよね』
三番目はいたずら好きそうな少女か幼い少年かのような抑揚。
『まあまあ、とにかく話を進めようではないか』
なだめるような年配男性の口調とともに、路上の地獄の一部がクローズアップされた。影野の十倍はあろうかという巨大な炎をあげ続ける穴を背景に、三人の男女がいる。
いや、平凡な意味での男女ではない。影野から見て左は地蔵。中央が天使。右は悪魔だ。地蔵はその辺で目にする地蔵そのもので、影野の半分くらいの背丈か。天使は影野より少し背が低く、冷ややかな美しさをたたえ、背中には白い翼と頭上には金色の輪。悪魔は地蔵と天使の間くらいの身長で、額から二本の小さな角を生やしていた。なおかつ、天使よりずっと小さな黒い翼と矢印型の細い尻尾を伸ばしている。
地蔵は石でできているが、天使と悪魔は人間のような肌に思えた。天使ははっきりと若い女性のようだが、悪魔は幼い男の子のようにも女の子のようにも受けとめられた。
『そうですね。そこの人間、影野という名前ですね。私達の話の審判をしなさい』
いくら天使から命じられたとしても、はいわかりましたと即答できたら異常だろう。
『ほらほらぁ、これだから天使はダメなんだよ。ねぇ影野クン、かわゆい女の子に興味ない? なんなら男の子でも……』
悪魔が小首をかしげながら、笑って自分の右人指し指で思わせぶりに自分の唇をなぞってみせた。
『これこれ、それは禁じ手と決めてあっただろう』
地蔵がたしなめ、悪魔はぶーっと頬を膨らませた。
『い、いったいなんの話なんだ?』
台詞にだして喋ろうとした影野は、自分もまた頭の中だけで会話をしているのに気づいた。
『このままいけば人間は滅ぶ。問題は、自分らで自分らを滅ぼそうとしているのに気づいている者らだ』
天使の言い分は、声こそ澄みきっていて美しい代わりに理屈っぽい。
『そんなの本人達の勝手じゃない。死ねば死んだで地獄にいけばいいんだから、今を楽しもう?』
悪魔はふたたび笑った。つい引き込まれて影野も笑いそうになるが、天使がじっと睨んでいるのでやめた。
『まあ、永遠の題材ではあるのだが……今日にかぎっては議論が白熱してなぁ』
申し訳なさそうな呆れ果てたような地蔵の説明が、影野には一番人間臭く思えた。
『とにかく、自らたすくる者を増やせば自ずと破滅は回避できる。それが神の配剤だ』
『でも人間は面倒くさがりやが多いし自分のことで頭がいっぱいだから無理だよね』
天使の主張を悪魔がまぜ返した。
『説明の途中に議論を挟むでない! まだ影野は話を把握していないのだぞ!』
地蔵は司会進行役というわけか。わかったからといって積極的にはかかわりたくなかったが。
『俺はただ散歩してただけだし、なにかのカルト宗教ならほっといてくれ!』
『ほらごらん、誰だってこんな調子だよ』
勝ちほこったように悪魔は腕を組み、小さな胸をそらせた。天使は唇を噛んで黙りこんだが、そうなるとどこか気の毒になってきた。
『俺だって自分の面倒さえ持てあましているけどな、だからって滅びたいなんて思っちゃいないよ』
『ふーん。君、数日前に人身事故で電車が遅れたときに死ぬならよそで死ねよとかって思ったよね』
悪魔はにやにやしながら両手を頭のうしろで組んだ。
『そ、そりゃあ仕事が遅れるかもしれないから当たり前だろ』
『うんうん。そのとおり! いじめにあおうと虐待されようと、他人に迷惑かけずに訴えて欲しいよね! ていうか、そもそもそんな話知りたくないよね! じゃあボクが叶えてあげるよ! 君の欲望の……痛いっ!』
いつのまにか、地蔵が悪魔の足を踏んでいた。
『じゃあなにか。教会にでもいってお祈りしろというのか。俺キリスト教徒じゃないけど』
『建前上は仏教徒だが、現実にはただの無宗教だな。日本人はたいていそんなものだ』
地蔵はすべてを悟ったように影野の意見を捕捉した。
『今からでも悔い改めるがいい。自らの非をざんげし、恵まれない人々に神の愛を伝えるのだ。そうすれば破滅は遠ざかる』
勢いを取り戻した天使に、影野はさきほど感じていた判官びいきが弱まるのを自覚せざるをえなかった。
『ご覧のとおり、我らは地獄でこの議論を始めた。罪人どもはみな悔いておるが、今の人間どもは昔ほど善悪の区別がはっきりしてはおらんから揉めることがときどきあってなぁ』
地蔵の説明は、どこか影野の勤務する会社の中間管理職めいたものを感じさせた。
『てっとりばやく、人間はぜーんぶ地獄いき確定! その代わり、滅ぶまでは快楽漬けにしてあげる!』
まさに悪魔の結論だ。
『そんな要領を認めてなるものか。人は、正しき人は天国に至り永遠の至福を手にする。それが多ければ多いほど望ましいのは明白だろう』
天使の言葉は非現実すぎてつきあいきられない。
『俺に……どうしろというのだ……』
ただの散歩がここまでこじれるなど一生に一度あるかないかだろう。二度目など願い下げだが。
『天使が正しいのか悪魔が正しいのか、お前の意見を聞きたい』
地蔵の要望は簡単に把握できるが難しすぎる。
『破滅! 快楽!』
悪魔が両手をチアガールのポンポンさながらに振り回した。
『祝福! 節制!』
天使が両手を自分の前で握り合わせた。
『い、いや、そもそもなんで俺なんだよ!』
『世俗の人間としてはこの辺りでもっとも欲が薄くて誰にも負担をかけておらず、良くも悪くも他人に影響されていないからだ』
地蔵が淀みなく応じた。
『好きにやってくれ! あと、俺の散歩の邪魔をするな!』
影野は心底うんざりした。
『やったー! 好きにできるって!』
路面から、悪魔が両腕を影野にむけて伸ばしてきた。水面から陸地にあがるかのように悪魔は地上に現れ、影野にいきなり抱きついた。余りにも馬鹿げた事態に開いた口が塞がる暇がなく、悪魔は影野の中に溶けるように収まった。はたからは、影野にはなんの影響もなく思える。
『おいっ、どういうことだ』
『うふっ。感じている通りだよ。ボク、久しぶりに人間の身体をのっとった……』
『そうはさせるか!』
悪魔と同じ要領で天使も実体化し、影野の体内に飛びこんだ。
『あ、あんたらなんなんだ! 人の身体に勝手に入ってきて!』
『だって君、好きにやってくれっていったじゃなーい!』
あおるようなあざけるような、悪魔の笑い声が響いた。にもかかわらず、頭がくらくらするような甘美な響きがあった。
『ふざけるな。約束が違うだろう。さっさと出るぞ!』
天使は本気で怒っている。割れるように頭が痛むものの、おかげで正気を保てた。
『やはりこうなったか。こんなこともあろうかと、二段目を用意しておいた。決着はそこでつけるがいい』
いきなり目の前が白熱した。場面が急激に切りかわった。
影野は、心の中に天使と悪魔が同居したまま自宅の近所にある駅の乗り場にいた。まっくらなさなかに、頼りない灯りが一つだけ時刻表を照らしている。スマホをだして確かめると、時間帯は深夜だが日付は数日前になっていた。駅員はおらず、自分以外に客は一人しかいない。若い女性だ。美人だが表情には張りどころか生気そのものがない。
安物の上着をまきつけるように身につけた彼女は、うつむいてじっと線路を注目していた。
『数年間、会社の上司とつきあって不正の片棒まで担がされたのに上司側の不倫だとわかってから捨てられて、おまけに不正の責任まで全てなすりつけられた状態だ』
路面の地獄からは離れていても、地蔵がわざわざ説明してくれた。
『早く声をかけなよ。ボクが手伝うからさ、お一人ですかとかなんとか身の上話を聞くんだ。そうしたら、寂しさから二人きりになりたがるんでとんとん拍子に話が進むから』
悪魔がささやいた。
『電車がきた瞬間、お前は彼女を止める。弾みでお前の方が線路に落ちて死ぬが、生き残った彼女は自分の人生を見据え直して多くの人々を救う』
天使が宣言した。
線路の奥にうずくまる闇から、電車の警笛が聞こえた。単調だがリズミカルな、鉄の震えも。
『このまま無視だと、全てなかったことになり議論は別な人間がくるまで持ち越しだ。ただしその場合、彼女は死ぬ。そうなったらここ一連について、お前の記憶は消しておいてやろう』
地蔵のくせに無慈悲な未来を明かしてきた。
『非常スイッチをつければすむだろうが!』
『議論の邪魔であるから無効としておく』
『それでも地蔵かよ! 人でなし!』
『お前は決断から逃げたくてわしを罵倒しているだけだろう。早く決めろ』
欲望のために助けるのか他人のために身代わりになるのか安心のために無視するのか。
闇の中で、電車のライトがキラッと光った。
影野の人生で、かくも真剣かつ重大な決断をくだしたことはかつてなかった。彼はつかつか女性に近寄ると、いきなり両腕で抱えあげ肩に担いだ。
「きゃあああぁぁぁ!」
当然ながら女性は悲鳴をあげて暴れ回った。
「えええぇぇぇっ!?」
悪魔が絶叫した。
「なにいいいぃぃぃっ!?」
天使が驚愕した。
影野は女性を肩に担いで駅をでた。すぐ近くに交番がある。担いだままの状態で交番までいくと、すぐに逮捕された。彼が。
翌日、影野はこってりと警官に絞られてから釈放された。担がれた女性が自殺を考えていたこと、彼のお陰で思いとどまったことなどを証言したためである。会社には適当に説明してことなきをえた。
『こんなのってないよ。やり直しだ!』
留置場をでて自宅に帰るまでのあいだ、悪魔はずっと駄々をこねていた。影野の心の中で。
『なんだかだまされた気がします。地蔵の陰謀に違いありません!』
天使は別な意味で不満げだった。影野の心の中で。
『あんたら、いい加減に人の心からでていってくれ』
げっそりしながら嘆願する影野をよそに、天使と悪魔は果てしなくぶつぶつ言っていた。
『議論は引き分けだ。お前には感謝の印としてわしからささやかなきっかけを用意しておいた』
地蔵が呼びかけるとともに、自宅のアパートの前で一人の女性が影野を待っていたのがわかった。夕べ、彼が力ずくで助けた人間だ。
「こんにちは。夕べはお世話になりました」
丁寧に、彼女は頭を下げた。
「こんにちは。明けない夜はないですね」
万感こめて返事をする影野の背を、地蔵に引きずられた天使と悪魔が未練がましく見つめていた。
終わり
地獄口論 マスケッター @Oddjoh
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます