初めての家出

深夜に出会ったのは……

「ママのバカ!」


 わたしは夜の町に飛び出した。

 後ろは振り向かない。


「待ちなさい!」


 ママが必死に止める声は聞こえていたけれど。


 思えばあれが初めての家出だった。

 ううん。

 初めてで、最後の、わたしのわがまま。


 ママがずっと一人でがんばっていたことは分かっていた。

 だから、小学生のわたしも、まっくらな夜が怖くても、家で独りぼっちでも、我慢していた。


「おかえりなさい!」


 ママはいつも遅くに帰ってきたけど、わたしは眠い目をこすってでも必ずママを出迎えた。


「ただいま」


 ママはそれをすっごく喜んでくれる。

 わたしを抱きしめてくれる。

 だからわたしはママが大好き!

 パパがいなくても平気だった。

 さびしいと思うことあっても、ママは必ず帰ってきてくれる。


 パパは、わたしがずっと小さいときにお空に旅立ったんだって、ママはいつだったか、いってた。

 その意味がもう分かる年になっていたけど、それ以上パパのことを聞くとママは悲しい顔をしたから。わたしはパパのことはその一度きりしか聞いたことはない。

 おうちにはパパの写真はなかった。

 きっとママはパパのことが大好きだったんだ。大好きで、大好きで……。ママは泣き虫だから。知っているよ、夜、泣いているのは。声を掛けようとしたけど、どういったらいいか分からなくて。(わたしがいるよ)って、声にならない声をママの哀しい背中にかけただけだった。


 わたしは大丈夫!

 パパがいなくてもママがいるから、大丈夫!

 大好きなママの哀しい顔は見たくない。


 その夜はでも……。


 ママはいつまで経っても帰ってこなかった。

 時計の針はコチコチと進んでいく。

 もうすぐ短い針がてっぺんも過ぎる。


「今日は絶対、早くに帰るからね!」


 わたしの誕生日を一緒に祝ってくれるって。

 年に一度だけのケーキも、奮発するって。

 必ず。絶対。指切りげんまんって約束したのに。


 なのに……。


「わがままいわないで!」


 遅くに帰って来たママを、ついついとがめるような、口をとがらせちゃったら、ママは……。

 わたし、わがままなんていったことないのに。

 ちゃんとお利口に待っていたのに。

 なんで?

 どうして?

 そんな怖い顔するの?

 わたし、わがままなの?


 今ならわかる。

 きっとママは大変だったんだって。

 仕事でトラブル、それで。

 わたしのことも気にしながら、でも……。

 急いで、それでも急いで、私の誕生日が過ぎる前に、精いっぱい。


 帰ってきたらでも、わたしは……。


 ごめんなさい。


 昼間は暖かい春の空気も、夜になればすっかり冷たい。

 知らない夜の町をさまようと頭は冷やされて、頭の中ではずっと「ごめんなさい」が繰り返されていた。なのに、恥ずかしいとか、怒られるかもとか、寂しいとか。もういっぱいいっぱいで。頭の中はごちゃごちゃになって、帰るに帰れなくなっていた。


 町をさまよって、どこを歩いているのかもう分からなくなっていた。


「ママ……」


 どこ?


「パパ……」


 なんでか、パパの、知らないはずの笑っている顔も浮かんだ。


「お嬢ちゃん?」


 ふいに声をかけられた。


 顔を上げたら、大人の男の人だった。


 怖い!


『いいですか、知らない人についていっちゃだめですよ? 知らない人に声をかけられたら、助けて!! って、大きな声を出して、逃げること』


 先生がいってた。


「た……」


 声は出なかった。

 本当に怖いときって、声なんて出ない。


 でも、逃げた。足は動いた。

 走れた。

 後ろも見ず、走って、走って。


 ドンって、誰かにぶつかった。


 知らないどこかの公園の中だった。


「どうしたのかな?」


 私はもう、泣きじゃくるばかりで。

 逃げることも出来なくて。


「困ったなあ……」


 さっきの人とは違う。

 優しい声。

 街灯から外れていて、男の人のお顔は陰になって見えなかったけれど。

 声が違った、さっきの人とは。


 今でもなんで? って、思うときがある。あの人はダメで、なんでこの人は大丈夫と思ったのか。声が、やっぱり違ったんだと思う。それしか思い当たらない。


 その声に安心……、したのかな?

 優しくて、あったかくて。なんだかふわっと包まれたような。


 わたしはもう感情が抑えられなくなっていた。

 大きな、おおきな声で泣くばかりだった。

 夜の公園によくく響いていたなあ、泣き声。何故かそんなことも思い出される。怖かったよりも恥ずかしかったって。


「おじさん、夜の散歩をしていたんだけど、お嬢ちゃんも……、って、わけないよね?」


 きょろきょろと、たぶん、子どもが一人なんておかしい、ママでも一緒にいるんだろうと捜しているんだという気配はした。

 迷子だと思われたかな。

 それとも、家出ってわかったかな。

 おじさんはしゃがんで、わたしに目線を合わせてくれている。

 わたしはまだ泣き止めない。

 おじさんの顔は見られなかった。だって、恥ずかしくて。


「おじさんとお話ししようか」


 そっとベンチに誘われた。

 くちゃくちゃのハンカチを取り出して、それで私の涙を拭いてくれた。

 なんだか安心する。そのハンカチの匂いが、なんだか。

 おじさんは黙って、そばについていてくれた。

 わたしの話を聞いてくれた。

 わたしの頭を優しくなでながら。


 何を話したのか、思い出せない。

 きっと寂しかったんだって。

 怖かったんだって。

 がんばっていたんだって。

 泣きじゃくりながらも訴えていたんだと思う。

 知らない男の人なのに。


 おじさんはやわらかく、うんうんって、うなずいてくれていた。


 あたたかい。


 心がぽかぽかする。


「じゃあ、おじさんがついていってあげよう。一緒に、ママにごめんなさいしようね」


 どれほど経ったか、わたしはおじさんに手を握られて歩き出した。

 しゃくりあげて、まだ涙は止まらなくて。

 ずっとうつむいていたけれど。

 おじさんの手は大きくて、やっぱりあたたかかった。


 お父さんがいたら、きっとこんな感じだったのかな?

 このおじさんがお父さんだったらいいな。


「春奈!」


 家の前で、お母さんに抱きしめられた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! ごめん……、なさい……」

「いいのよ、いいの! 私が悪かったんだから。春奈は何も悪くない。良かった、無事で、本当に良かった」

「うん、うん……」


 私はまた泣くだけ。

 そんな私を抱きしめながら、お母さんは顔を上げた。

 おじさんにお礼をするため。泣き顔のままで。


「娘を、ありがとうございました。本当に……、本当に……」


 いや、ぼくこそ、ごめん……


「え!?」


 ママが驚いた声を出した。

 私はそれにびっくりして、顔を上げた。

 初めておじさんの顔が見えた。でも……。


「ママ……?」


 ママは必死におじさんを捜している。

 おじさん、もう行っちゃったの?

 お礼、わたしからもいいたかったのに。


「そのハンカチ……!」


 おじさんに返しそびれた、おじさんのハンカチ。

 ママはそれを見ると、受け取ると、わたし以上にわんわん泣いていた。




「さあ、パパにも春奈が10歳になったこと、ありがとうって、いおうね」


 ママは一枚の写真を箪笥の奥から取り出した。

 笑っている男の人の写真。ママと一緒に。幸せそうな、二人とも。


 お父さん?


 おじさんと同じ顔だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

初めての家出 @t-Arigatou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ