「持病の癪が……」と彼女は言った
烏川 ハル
「持病の癪が……」と彼女は言った
今思うと、学生時代……特に大学時代は、かなり贅沢というか勿体ないというか、そんな時間の使い方もしていた気がする。
例えば、何かやるべきことがあるわけでもないのに何となく夜更かしをして、だらだらテレビを見たりゲームをしたり。それにも飽きたら、無駄に家の近所を歩き回ったりしたこともある。
友人の鳩山が嫁さんと出会ったのも、そんな深夜の散歩で起きた出来事だったという。
鳩山の嫁さんは、いつも年齢より十歳は若く見られる童顔美人だ。俺から見たら「友人」の範疇には入らないけれど、鳩山と彼女が付き合い始める前から俺も彼女のことは知っていたので、一応「共通の知人」という形になるのだろう。
先ほど「大学時代は例えば深夜の散歩みたいに無為な時間を過ごすことも多かった」と述べたが、それは大学生活に慣れて、退屈も感じるようになってからの出来事だ。
しかし鳩山の場合、まだ大学に入って数日後、授業も始まっていない頃だったというから、なんとも呆れた話ではないか
鳩山が当時住んでいたのは、大学から歩いて十数分。学生向けアパートも多い住宅街だった。
そろそろ日付も変わるという深夜、ふらりとアパートを出て、近所をぶらぶら歩いていると……。
大通りから裏道に入ったあたりで、電柱にもたれかかるように立っている若い女性を発見。
おそらくは自分と同い年くらいだろう。可愛らしい若い女性のようだが、せっかく整った顔に、苦しそうな表情を浮かべている。
困っている人を見過ごせないという義勇心か、あるいは美しい女性に惹かれる男性の本能か、それともその両方か。理由はともかく、鳩山は彼女に歩み寄って、声をかけてみた。
「お嬢さん、どうしましたか? 大丈夫ですか?」
彼女はうなだれた姿勢のまま、顔を上げようとしない。鳩山に気づいていないようにも見えたが、それでも呟くような声で、彼に返事をしてくれた。
「持病の癪が……」
鳩山はその時、状況も忘れて、思わず笑いそうになったという。
まるで時代劇みたいな……というより、今時もはや時代劇でも聞かないほど、古臭いセリフだったからだ。
とはいえ『癪』というのだから、胸から腹のあたりが苦しいはず。そんな女性を前にして笑うのは不謹慎であり、鳩山は笑いをこらえて、さらに近づいていく。
「痛いのですか? 胸か腹のあたり? えーっと、撫でてあげたら少しは楽になるのかな?」
すると彼女は、ハッと顔を上げる。まるで「今ようやく彼の存在に気づいた」と言わんばかりの様子だった。
そして……。
「きゃあっ! 痴漢!」
大声で叫びながら、鳩山の頬にビンタ一発。そして逃げるように走り去っていったという。
彼と彼女の最初の出会いは、このように印象最悪。これで終わって二度と再会しなければ、二人が付き合うことも結婚に至ることもなかったわけだが……。
そんな二人が再び顔を合わせたのは、大学の教室だった。教養科目の一つとして選択していた「西洋史学」の第一回目の授業だ。
「あっ!」
担当講師の先生が部屋に入ってきた瞬間、最前列に座っていた鳩山が、小さな声を上げる。
女性教師の方でも、眉間に皺を寄せて、一瞬足を止めていた。
彼女こそが、深夜の散歩中に出会った女性。あの「持病の癪が……」と言っていた彼女だったのだ。
あとで聞いた話によると、彼女は「持病の癪が……」ではなく「授業の尺が……」と言っていたそうだ。これから受け持つ授業のスケジュールを頭の中で考えていたところであり、時間のやりくりに少し悩んで、ふと明るい電柱の下で立ち止まった瞬間だったらしい。
元々「十歳は若く見られる童顔」ゆえに鳩山からは「同い年くらい」と思われてしまったが、彼女は大学の学生ではなく、教える側だったのだ。
彼女の方では、鳩山の最初の「お嬢さん、どうしましたか? 大丈夫ですか?」は聞こえていなかった。だから「持病の癪が……」ならぬ「授業の尺が……」は完全に独り言。
彼女の認識としては、いきなり見知らぬ若い男が「胸か腹のあたり? えーっと、撫でてあげたら……」と言いながら近寄ってきた格好だ。しかも鳩山は笑いをこらえようとしていたタイミングであり、それが少し漏れて微妙にニヤニヤ顔。ならば彼女がビンタして逃げるのも当然だった。
そんな二人が、次第に仲良くなって、今に至るわけだが……。
あの「西洋史学」の教室における再会は、二人にとっては大きな衝撃だったに違いない。俺もあの時、同じ教室……どころか鳩山の隣に座っていたから、彼の様子をよく覚えている。
鳩山の横顔を見ながら、俺は心の中で思ったのだ。「鳩が豆鉄砲を食ったような」という言い回しは、こういう顔を指すのだろう、と。
鳩山だけに。
(「持病の癪が……」と彼女は言った・完)
「持病の癪が……」と彼女は言った 烏川 ハル @haru_karasugawa
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