春香

山田とり

「お先に失礼します」


 配達に出るスタッフを横に私は帰路についた。外に出たとたん、しゅわと頬が冷える。

 深夜だから誰もいないけどマスクは外せない。二月も後半で花粉が飛んでいるから。いや、この時間だと道路に降り積もっているのかも。乾いた指先がすりすり粉っぽい。

 私がチラシを折り込んだ朝刊を積み、カブが追い抜いていった。たぶん今、花粉が舞った。


 駅前で飲食チェーン店の閉店作業の後、帰る道すがら掛け持ちで折り込みのバイト。

 女子大生がなんで深夜に、て時給がいいから。それだけ。接する人が少なくて楽だし。


 あと、夜が好き。


 店長などは危なくないかと心配してくれる。でもアパートはすぐそこで、街灯もちゃんとある。

 駅は近いものの、この時間ならさすがに人影はなく静かだった。遠くで新聞配達のエンジンが吹かされた。

 アスファルトがぼんやり浮かぶ町あかりをたどる。なんでもない、いつもの道。

 寒さに乾く目を薄くして歩くと、突然マスク越しにも強く香る春に刺された。


 瑞香ずいこう

 甘酸っぱくきりりと。


 アパートの隣の家の門扉脇。夜の中に沈丁花が咲きめていた。闇に薄く沈む花。私はそっとマスクを外した。

 赤紫の蕾。開いた白。知っているけど見えない姿に、香りだけが迫る。鈴蘭と檸檬を合わせたような。

 夜と春を独り占めして、私は満足する。


 踵を返して帰ろうとすると、一階の部屋の扉が開いた。つまらなそうな顔の男が出てくる。私に気づいてぎょっとした手が鍵を掛け損ねた。

 私は、あ、とマスクをした。男も顎に引っ掛けていたマスクを直す。かすかに頭を下げ、すれ違う。


 すっぴんを見られた。真下の部屋の人に。

 外階段を上がり自室に入って、ため息をついた。せっかく夜なのに人に会うなんて。どうせ暗いからいいけれど。

 しばらくして、下からドアの音がした。コンビニだったらしい。彼は花の香には気づいたか。嗅いだのか。


 春が、夜に染み出す。


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春香 山田とり @yamadatori

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