味のある声

佐倉有栖

声には味がある

 年末の買い出しに向かう途中で、スマホの充電がないことに気づいた。昨日確かに充電器に挿したはずなのだが、お酒の力でかき混ぜられた記憶は、昨日のものだったのか一昨日のものだったのかハッキリしない。

 自宅からここまでの距離と、ここからスーパーまでの距離はほとんど同じ。吹き付ける北風が、分厚いダウンに守られていない部分を容赦なく撫でていく。

 迷ったのは、一瞬だった。

 もう一度帰ったら、きっと外に出たくなくなる。今だって、重たい腰をなんとかあげて出てきたのだ。

 無心でいれば、きっと音楽がなくても大丈夫。そう自身を奮い立たせ、このあたりで一番大きなスーパーへと歩き出した。




 自動ドアが開き、生温かな風と共ににぎやかな声が聞こえてくる。


「いらっしゃいませー! 今日はお肉がお買い得ですよ!」

「年越しそばと一緒に、年明けうどんも買っておこうか」

「二階でセールやってまーす! 最大八割引きでーす!」

「ママー! アイス欲しい!」

「合計で五千八百二十八円です。あっ、カードですね。こちらに暗証番号の入力をお願いいたします」


 そこかしこから聞こえくる声を、意識から排除する。心頭滅却すれば火もまた涼しと心の中で唱え、聞いていないフリをする。


「すみませーん! タバスコってどこにありますか?」

「今日の夜はお寿司が良い! お寿司買って買って!」

「今ならショートケーキが半額です! おひとついかがですか?」


 聞こえてない、大丈夫。

 声に出さずに、口の中で呟く。ジワリと、唾がたまっていく。


「そんなお肉買っていつ食べるのよ! 今日はお弁当買ったでしょ!」

「うわ、チーズ高っ! 何もかも値上げで参るよな」


 意識から排除しようとしているのに、どうしても耳は声を拾ってしまう。

 口の中に、苦みが広がっていく。


「だから、仕事だって言ってんじゃん! 今年は帰れないんだって!」

「ねえ、初詣はどうする?」

「すみません! 割引されてないんですけど!」


 様々な味が、口の中でぐちゃぐちゃに混じりあう。

 甘み、苦み、酸味。吐きそうなほどの味の洪水に、思わず口元を抑えてうつむく。

 もはや買い物どころの騒ぎではない。今すぐにこの場から離れなければと踵を返した先で、背の高い男性にぶつかった。


「あら? あなた大丈夫? 顔が真っ青よ」


 穏やかな低音に似合わない、しっとりとした女性のような口調に顔を上げる。

 トレンチコートを着込んだ男性の胸元で、ループタイが揺れる。ターコイズ色の石が、明るすぎるスーパーの照明を受けてキラキラと輝いていた。


「具合でも悪いの? 店員さんを呼びましょうか?」


 優しい声に、周囲の雑音が遠ざかっていく。

 混ざりあっていた味が消えていき、トロリとした甘さだけが残った。舌に残る優しい甘みは、懐かしい味がした。

 店員を呼びに行こうとする男性の腕を掴む。見ず知らずの人を困らせるとわかっていながら、思ったままを口に出した。


「そのまま話し続けてくれませんか?」


 男性の目が、大きく見開かれた。




「なるほどね、あなたは本来の味覚がない代わりに、声に味を感じるのね」


 すでに温くなった缶コーヒーを握りしめながら、ゆっくりと頷く。

 男性はあの後、こちらの求めに従って話し続けてくれた。とりとめのない話をし、この場では邪魔になるからと言って三階のフードコートまで連れて行ってくれた。

 微妙な時間のため、フードコートは人がまばらだった。端の席で顔を突き合わせて内緒話をしているカップルが一組と、書店の紙袋をテーブルの上に置き、買ったばかりの小説を読みふける女性が一人。それと、遠くの席では疲れた顔で荷物番をしている男性が一人。時折家族と思しき母娘が来て、買ったばかりの袋を置いて行っている。

 遠くからは元気な呼び込みの声や子供の嬌声が聞こえてくるが、今はあまり気にならない。


「においは感じるんです。でも、味が分からなくて」


 塩を舐めても、味はしない。唯一辛みだけは感じるのだが、あれは痛みと同じなのだと聞く。

 においがあれば、それなりに美味しくことが出来るのだが、においの薄いものは全て無味だ。口の中で感じるのは、食感だけ。


「声に味があるって言うのは、昔からなの?」

「……おそらくはそうだと思うんですが、自覚したのは幼稚園の頃です」


 なんとなくボンヤリと、両親の声を美味しいと感じていた記憶がある。祖父母の声も美味しく、逆に近所の口うるさいおばさんの声は不味かった。駅前の書店のお姉さんの声は美味しく、コンビニのお兄さんの声は不味かった。


「両親に、声に味があると言ったことがあるんです。そしたら、そんな人はいないと言われて……病院にあちこち連れまわされて、どんどん両親の声が不味くなっていって……」

「どうして不味くなったのかしら?」

「分かりません。でも、苦みが酷くなってしまって、両親の声を聞くことができなくなったんです」


 ママとパパの声を聞くと、お口に苦いのが広がってイヤなの!

 最初のうちは、そんな訴えも一笑に付されていた。声に味などしないというのが両親の共通認識で、来年には小学校に上がるのにそんな嘘ばかり言っていたらいけないと、怒鳴られる日々だった。

 嘘ではないのに、確かに声に味はするのに、普通ではないからと受け入れてもらえない。

 激しい苦みが口の中に広がり、吐き出してしまうことも多くなった。はじめのころは、両親が説教をしだすと吐いていたのだが、次第に彼らが話すだけで激しく嘔吐するようになった。


「そんな時母方の祖母が、しばらくの間うちにいたら良いと言ってくれたんです。祖母の声はほんのりと甘くて美味しくて……」


 トロリと舌に残る優しい甘みを思い出し、男性の声に感じていた懐かしさの正体に気づいた。


「あっ……あなたの声、おばあちゃんの声に似てるんです」

「あら? お祖母様はこんなに低い声だったの?」

「いえ、声自体は全然違うんですけど、なんとなく味が似ている気がするんです。甘さの加減が同じだと言うか、トロっとした感じが似ていると言うか。あ、でも、おばあちゃんのほうがもっとコッテリしていたかな……」


 上手く言語化できないため、悩んでしまう。何かに似ている味と言えるのならば簡単なのだろうが、残念ながら例えられるような味を知らない。


「もしかしたら、味付けの仕方で変わっているのかもしれないわね」

「味付けの仕方、ですか?」

「例えば、トウモロコシをそのまま食べたときの味と、焼きトウモロコシにしたときの味は違うでしょう? お醤油をかけて、焼いてるからね。でも、どちらもトウモロコシ自体の味は変わらないでしょ? それと同じように、声自体に味があって、どう調理するのかによって味が変わるのよ。あなた、小さいときから両親の声が不味かったわけじゃないんでしょう?」

「最初のころは、美味しかった……と、思います」

「不味くなったのは、あなたが声に味があると言って、両親が否定してからよね」

「たぶん……」

「両親があなたに向ける感情が変わったから、味が変わったんじゃないかしら」


 大切に育てていきたい愛しい我が子から、嘘ばかりついて訳の分からないことを言う気難しい子供に変わってしまった。嫌悪と拒絶に味付けされた声は、激しい苦みとなって舌を襲った。


「お祖母様は、あなたを心配していたんだと思うわ。……今も私の声は、最初のときの味のまま?」

「多少は変わっているのかもしれませんが、大体は同じですね」

「だとしたら、あなたを理解しようとしていたのよ。あなた、お祖母様の声のほうがコッテリしてたって言ってたじゃない? 孫に対する愛情の差が味に影響したんじゃないかしら。私はあなたを好意的に思っているけれど、愛してはいないもの」


 楽しそうに笑う男性の声が、また少し味を変える。甘い味の中に、アクセントのように爽やかな酸味が入る。


「でも、声に味があるなんて不思議だけど素敵ね。だって、あなたにしか味わえない味があるってことだもの。共有はできないけれど、特別な美味しさを感じることができるなんて、素晴らしいわ」


 甘くスッキリとした味が、舌をくすぐる。ミントを嗅いだ時のような爽やかさが、トロリと甘い味に溶け込んでいく。クセのある味だが、どこか不思議で美味しい。初めて感じる味だった。


「あ……また味が変わった……」


 声とはこんなにも、味を変えるものなのだろうか。

 ふと疑問がわくが、もしも声の味付けを変えている要因が感情だとしたら、頻繁に味は変わっていたのだろう。それを、こちらが感じ取ることができなかっただけだ。


「ねえ、あなたがさっき具合が悪くなってたのって、いろんな声が聞こえてきちゃうせい?」

「……はい」

「そうよね、声が食材で感情が味付けだとしたら、口の中にいろんな料理を放り込まれてるのと同じだものね」


 そりゃ具合も悪くなるわ。とつぶやいた男性の声に、トロリとした甘さが口に広がる。


「でも、声を選んで聞くことは出来るんでしょう? 今のあなた、顔色が良いもの」


 その声にかぶせるように、遠くから子供の楽しそうな叫び声が聞こえてくる。一瞬だけ弾けるような酸味が広がるが、すぐに甘さへと変わる。刹那の酸味は、舌の上に残ることはない。


「なら、選んで聞けるようになれば良いんじゃないかしら。食べ放題だって、何も考えずに全部取って口に入れてるわけじゃないでしょう? 声も一緒じゃないかしら。より美味しい声に耳を澄ませれば良いのよ」


 そんなことができるのだろうか? ふつふつと湧き上がってくる不安を、無理やり押しとどめる。今やらないと、ずっとやれない気がした。

 目を閉じ、耳に集中する。

 ぐちゃぐちゃに混ざる味の中から、美味しいものを探す。


「最近太ったんだけど、年末年始ヤバいよね」

「今なら、二枚買うともう一枚無料です!」

「ねえ、明日にはパパ帰ってくるんだよね?」


 透き通るような子供の声が、舌をくすぐった。柔らかな甘みに、優しい酸味が合わさっている。


「そうよ。楽しみね」


 柔らかな女性の声は塩味と甘味が合わさった、ほっと一息つきたくなるような落ち着く味だった。以前お味噌汁のパッケージに、“ほっとする味”と書かれているのを見たことがある。もしも言葉通りの味だとしたら、彼女の声がまさにお味噌汁の味だった。


「早く明日にならないかな。パパが帰ってきたら、いっぱい遊んでもらうの!」


 少女の甘酸っぱい声は、バニラビーンズの香りとミカンの皮の香りを連想させた。頭の中で二つが合わさり、ミカンのパウンドケーキとなる。舌に残る味を頭が理解したことで、自動的に食感まで再現される。ふわふわとした柔らかさに、小さく切られたミカンの食感が良いアクセントになっている。

 二人が何か言うたびに、細やかに味が変化する。父親の帰宅を心待ちにしている親子の声は、じんわりと体に染み入るような優しい味がした。


「美味しい声だけ選んで味わえば良いのよ。食べ放題のバイキングにいると思えば良いの。誰も、自分の声を味わってる人がいるなんて思ってないんだから、好きに食べれば良いのよ。色んな声を聞いて、色んな味を覚えて、あなたにしかない特別なを楽しめば良いのよ」


 透き通るような甘さに、モヤモヤとしていた心が軽くなる。

 声を楽しむだなんて、考えたことがなかった。今まではただ席に座って、流れてくる料理を手当たり次第に口に入れているだけだった。美味しいものを味わうだけの心の余裕がなかった。

 でも、今は違う。美味しい声だけに集中すれば良いのだ。


「人の感情って、その時々で変化するし、声だって年とともに深みを増すわ。苦手だと思っていた声も、案外良い味になってるかもしれないわよ」


 遠回しに、両親のことを言っているのだろう。

 何年も聞いていない両親の声は、今どんな味になっているのだろうか。舌を抉るような苦みしか感じない声だったが、よく味わえばまた違ったものを感じるかもしれない。

 苦みの中にも旨味のある味というものもあると聞く。

 今年は久しぶりに、実家に帰ってみようか。突然行ったら驚くだろうから、連絡だけは入れて。


 誰の声も聞いていないのに、口の中にほのかな甘みが広がる。

 泣きたくなるほどに懐かしいこの味は、変わってしまう前の両親の声の味だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

味のある声 佐倉有栖 @Iris_diana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ