苦い記憶は、泥濘にも似て

五色ひいらぎ

苦い記憶は、泥濘にも似て

 やっぱりダメだった。

 ぐちゃぐちゃになってた考えを、なんとか、ぬいぐるみシスター様のおかげでまとめ直せたってのに。

 いざレナートと話をしに来てみれば……即時の反論に加えて、絶え間ない弁舌があらゆる方向から攻め立ててきやがる。四日後の来賓は、山岳地帯からやってくる辺境伯だ。山中の客人を海魚でもてなしたいと思うのは、そんなに変か。


「食材供給に安定を欠き、かつ初夏の今は食当たりの危険もある。来賓の舌の慣れ、および従来の伝統も考慮すれば、今回の歓待にあたって、鮮魚という選択肢ははじめからありませんよ、ラウル」


 ああ、頭の中がまた、言い返したいあれやこれやでぐちゃぐちゃだ。言うことは山とあるはずだ、だが、混線させられたた考えは、さっぱり頭の中でまとまる気配がねえ……どうあがいても、俺はレナートに口じゃ勝てねえのか。


「ラウル、今のあなたはどうして、そこまで魚にこだわるのです。あなたの腕なら最高の肉料理も作れるでしょうに」

「レナート、あんたこそ、どうしてそこまで肉にさせたい。美味けりゃ魚でもいいじゃねえか……マグロやカジキのカルパッチョとか最高じゃねえかよ。オリーブ油をかけりゃ脂のコクが増すし、レモンと合わせりゃさっぱりした酸味が――」


 そこで、不意に俺は気付いた。

 カルパッチョの名を出した瞬間、レナートの顔に少しばかりの影が差した。気のせいか、と見直してみると、天才毒見役たる「神の舌」様は相変わらずの鉄面皮だ。

 見間違いなのかどうなのか……念のため、もういちど同じ話を振ってみる。


「レナート、あんたカルパッチョは食べたことねえのか?」

「ありますよ。……それが何か」


 表面上、レナートは平静を保っている。だが、纏う気配が一瞬揺らいだ。


「ひょっとして、何か……嫌な思い出でもあんのか?」

「なぜそうなるのです。あったとして、公務に私情を挟んだりはしません」


 言葉と裏腹に、声にはわずかな怒りが滲んでいる。レナートらしくねえな。


「あったとして、か……否定はしねえんだな?」

「いやに絡んできますね。あなたには関わりのないことでしょう?」


 関わりがねえ、か。

 あんたの口からその言葉が出るとは思わなかったぜ。あんたは――「神の舌」たる毒見人レナートは、国王陛下から全幅の信頼を得て、王宮の食事に関するほとんどあらゆる口出しを認められている。そんな人間に、食事に関する嫌な記憶があるとしたら……俺と無関係だなんて、口が裂けても言えるわけがねえ。

 あんたは俺の運命を握っている。事実、もう既にいろいろと運命を変えてくれた。だったら、話ぐらい聞かせてくれてもいいだろうが。


「関わりはあるぜ。あんたの一声は王宮の食卓を左右する。だったら判断に曇りがないことは、その思い出が本当に影響してないのかどうかは、せめて証立ててくれ。でなきゃ俺もやってられねえ」

「……わかりましたよ」


 これ見よがしに大きな溜息をつき、レナートは話し始めた。


「国王付きの毒見人になったばかりの頃、私は一度……判断を誤ったことがあります。初夏の、ちょうど今頃の季節。当時の料理人が、カジキのカルパッチョを王宮の食卓に供しました。美味でした……が、ほんの少しだけ、嫌な生臭さがありました。私はそれを、暑さゆえに鮮度がわずかに落ちたのだと解釈しました。ですが、それが間違いだった」


 レナートの顔には、いまや明確にわかる憂いが刻まれていた。


「当時は、私が食べた後、国王陛下が召し上がるまでには若干時間を置いていました。その間に……私は毒に当てられました。立っていられないほどの眩暈めまいを感じ、床に倒れつつ、私は胃の中のものをすべて吐きました……魚の生臭さと近い味の毒が、カルパッチョに仕込まれていたのです」


 レナートは、静かに首を振った。


「幸い、国王陛下は皿に手をつけてはおられませんでしたが……一歩間違えれば、陛下の命を危険に晒していた。床に散った、鮮血混じりのぐちゃぐちゃの吐瀉物を見ながら、私は心の底から悔いました。そして誓いました。以後、決してわずかな異変も見逃すまいと」

「もしかして、だけどよ……今の季節の魚を避けたいのは、そのせいもあるか?」


 俺は声を潜めて訊ねた。想像もしていなかった、重い話だった。今、おそらくこいつの心の中は、そのとき吐いたもの並にぐちゃぐちゃに乱れてるんだろう。古傷を掘り返しちまったことに若干の申し訳なさを感じつつ、返事を待つ。


「否定したいですが……完全に否定しきることは、おそらくできませんね。どうしても、あの時の生臭さが口の中に蘇ってくる。あの時の失態を繰り返してはならない、重要な賓客であればなおのこと……そう、無意識に考えていたかもしれません」

「私情、入りまくりじゃねえかよ……まあ、でも、だとすりゃあ、やりようはいくらでもある」


 俺は、拳を天へ振り上げてみせた。


「俺としちゃあ、食材の臭みや癖は極力活かすのが好みだがよ……そういう事情なら話は別だ。魚の生臭みを気にしなくていい、あんたの記憶を塗り替えるような絶品の皿……用意してやるぜ」

「それだけが難点ではありません。問題は他にも――」

「大筋に影響がない前菜アンティパストなら、大丈夫だよな?」


 なおも何か言いたげなレナートを遮り、俺は続ける。


主菜セコンド・ピアットは、あんたの言う通り伝統的な肉料理で。その分前菜アンティパストは、全く違う魚の皿で……あんたの記憶を塗り替えながら、客人の記憶にもしっかり残してやるぜ!」


 ああ、そうだ。

 俺は天才料理人ラウル。俺の腕なら、忌まわしい傷を拭い去ることも、鮮やかな思い出を生み出すことも、できるはずだ。

 勝負は四日後。供する皿を考え始めれば、ぐちゃぐちゃだった思考の渦の中から、いくつかのアイデアが泡になって浮かんでくる。

 俺の血は、滾り立ち始めた。



【了】

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苦い記憶は、泥濘にも似て 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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