しあわせ書房4~サクラ、ひらひらと~

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サクラ、ひらひらと。

 鎌倉から帰った後、杏樹からの音信は全く無くなった。

 僕はLINEでいくら謝っても、彼女は返信してくれることはなかった。電話をかけても、なしのつぶてであった。

 そこで僕は、一縷いちるの望みをかけてゼミの友達・志田浩太朗しだこうたろうに仲介役をお願いした。

 浩太朗は杏樹と一年生の時の語学のクラスが一緒であり、その頃から「友達」として杏樹とも気軽に連絡を取っている仲だった。


 夜、僕は駅前で浩太朗と待ち合わせした。


「ごめんよ浩太朗、あとは本当にお前だけが頼りなんだ」

「お前さあ、時期を選べよ。どうして花粉の飛び交う時期に、よりによって鎌倉に? 」

「だ、だって、杏樹が行きたいっていうからさ。俺が行きたかったわけじゃないし」

「杏樹は昔から花粉症がひどいんだよ。そこらへんはちゃんと配慮すべきだったんじゃねえの? 今頃だったら、花粉も収まって桜もきれいで最高なのに」


 浩太朗は思っていることを歯に衣着せずズケズケと言ってしまう性格である。いつもならば、僕は浩太朗と面と向かって反論しているけど、今日は世話になる以上、黙って聞き続けていた。


「まあいいや、今回だけは面倒みてやるか。そこの居酒屋に入ろうぜ」


 浩太朗と僕は駅のそばにあるチェーン店の居酒屋に入り、杏樹を呼び出して説得する作戦に出た。

 浩太朗はあらゆる手段を使って杏樹を呼び出そうとしていた。直接LINEにメッセージを送ったり、電話をかけたり、杏樹の女友達を通して連絡するようお願いしたり……。

 待つこと数時間、やっと浩太朗は杏樹と連絡が繋がった。


「杏樹か? 志田だよ。今どうしてる? 俺さ、今、堀田と一緒に飲んでるんだ。お前も来いよ。色々話したいからさ」


 志田は杏樹を必死に説得していた。しかし会話が進むにつれ、志田の言葉は次第に勢いを失っていった。


「そうか……そこまで言うならしょうがないや。じゃあ、また今度な」


 浩太朗はスマートフォンを閉じると、頭を左右に振ってため息をついた。


「ごめんよ、堀田。どうしてもお前には会いたくないって」

「そうか……ありがとな。結果は残念だけど、お前には感謝してるよ」

「ま、落ち込むな。杏樹以外にもいい女はいっぱいいるって。さ、イヤなことは忘れて、今夜はとことん飲んで帰ろうぜっ」


 それから僕と浩太朗は、何杯ものジョッキを空にした。浩太朗は僕のつまらない話に最後まで付き合ってくれた。時々涙を流しながら延々と吐き続ける愚痴を、浩太朗は呆れつつも決して突き放さず聴き続けてくれた。


「あ、もうすぐ十一時か。悪いな健斗。終電無くなっちゃうから、これで帰るわ」

「ええ、もっと付き合ってくれよ。俺んちに泊って行ってもいいんだぞ」

「悪い、明日デートなんだ。上野公園に花見に行くんだ。混みあうから早朝から行く約束をしたんだよ。お前んちに泊まるのはまた今度な」

「デ、デ、デートォ? 誰だよ? まさか、杏樹じゃ……」

「違うって! 杏樹はあくまで『お友達』だって。俺が付き合ってるのは、同じサークルの千恵里だよ。お前も一緒に合コンしただろ? 」

「な、なあんだ。そうだったか。ごめんよ、勘繰って」

「杏樹への未練はあるだろうけど……今は諦めて、違う女を探しなよ。そうすればいつか杏樹のことも忘れられるからさ」


 浩太朗はそう言うと僕の背中を何度も軽く叩き、「元気出せよ! 」と大声で叫びながら、僕を一人テーブルに残して帰っていった。

 僕は完全に酔いが回り、頭がふらふらしていたが、何とか立ち上がると、千鳥足で駅前の商店街へと歩きだした。

 浩太朗のおかげで、少しは心の傷も癒えてきたが、時折杏樹の顔が脳裏に浮かび、そのたびに僕は大きなため息をついていた。

 商店街を抜けると、一枚の花びらがふわりと僕の目の前を舞っていた。

 どこから飛んできたんだろう? この辺りは建物しか見当たらないのに。

 僕は歩みを進めると、花びらの数は一枚、さらに一枚とだんだん増えて行った。

 僕は花びらを追いかけるように歩いていくと、突然目の前の視界が広がった。

 辺りを見渡すと、建物の間を縫うように小川が流れ、川沿いには、枝までびっしりと花をつけた桜の木が所狭しと並んでいた。


「すげえ……」


 僕の目の前を、はらはらと花びらが舞い落ちていった。

 さっき僕の目の前を舞っていた花びらは、ここから来たのだろう。

 僕は酔い覚ましも兼ねて、川にかかる橋の欄干にもたれながら、しばらくボーっと桜を見つめていた。


「こんばんは」


 突然、僕の真後ろから、どこかで聞いたことのある声が耳に入ってきた。

 トーンの高い、透き通った声。

 その声に聞き覚えがあった僕は、「まさか」と思い、慌てて後ろを振り向くと、思わず手を口に当てて驚いた。


「あなたは……『しあわせ書房』の……」


 そこには、ポニーテールを揺らしながら片手を振る椎菜の姿があった。


「どうしたんですか、こんなに遅い時間に……」

「今日は棚卸しがあって、帰りが遅くなっちゃったんです」


 椎菜は心配する僕を気にすることもなく、軽やかなステップで橋の欄干に飛びつくと、満開の桜並木を見て「わあ~! 」と高らかな声をあげて感嘆していた。


「ここの桜並木、すごく綺麗ですね~!」


 椎菜はそう言うと、片手を開いて、一枚の花びらを僕の目の前に差し出した。


「仕事から帰る時、この花びらが私の目の前に落ちてきて、どこに桜の木があるんだろうって追いかけていったら、ここにたどり着いたんです」


 僕は椎菜が差し出した花びらを指でつまむと、椎菜は満面の笑みを浮かべた。

 チャームポイントのぷっくらしたえくぼが可愛くて、僕は徐々に心臓が高鳴りだした。


「見てください。この花びら、きれいなハートの形をしているの」

「あ……」


 僕は驚き、慌てて椎菜からもらった花びらを凝視した。

 良く見ると、丸い花びらの真ん中に少し窪みがあり、綺麗なハートの形になっていた。僕はその形を見た時、うつろだった目が全開になり、抑えていたげっぷが思わずこみ上げてしまった。


「やだ、げっぷなんかして。お酒でも飲んできたんですか? 」

「ま、まあ、ちょっとですけどね」


 本当はちょっとどころの量じゃなかったけれど……。

 僕が色々思い込んで動揺している一方で、椎菜はポニーテールを揺らしながら、満開の桜をうっとりとした目で見つめていた。


 その時、椎菜のスマートフォンから明るくテンポの良い着信音が流れ出した。確か、aikoの曲だったような記憶があるけど……。


「もしもし、あ、お母さん? うん、大丈夫。今日は仕事終わるのが遅くなっちゃったんだ。もう少ししたら帰るからさ」


 椎菜は飄々とした様子で会話をしていた。

 会話が終わると同時に、僕は椎菜のスマートフォンを指さしながら口を開いた。


「あの……今の着信音って、確かaikoの曲ですよね? 」

「そうですよ、『桜の時』って曲。この曲を聴くと心がウキウキしてくるし、口ずさんでると小さな悩みも吹っ飛んじゃうし」


 そう言うと、椎菜は「桜の時」のメロディを小さな声でハミングし始めた。椎菜のイメージにぴったりくるキュートで可愛らしい一曲である。


「桜ソングっていい曲がいっぱいありますよね。僕はコブクロの『桜』かなあ」

「ふーん、切ない曲が好きなんですね。確か、叶わなかった恋を乗り越えて大人になっていくって歌詞でしたよね」

「まあ……そうだけど」


 僕は今の自分の心情を見破られたような気がして、思わず横を向いて口に手を当てた。


「どうしたんですか? 急に神妙な顔しちゃって」

「な、何でもないですよ」


 僕たちはしばらく黙ったまま、橋の上から満開の桜をじっと見つめていた。

 桜並木の上から満月が淡い光を放ち、川の水面を美しく照らしていた。


「『桜の時』の歌詞ってね。すごく前向きな気持ちになれるんですよ。好きな人と一緒に手を繋いで、どんなに辛い過去やどんなに困難があっても、明るい未来に向かってまっすぐ突き進んでいこう、みたいな」


 椎菜は橋の欄干に両腕を置き、川の流れを見つめながらそう呟いた。


「いつか、私の右手を繋いでくれる人に会いたいなあって思いますね」

「え? 今、何か……言いました? 」

「ううん。何でもないですよ、アハハハ」


 椎菜は声をあげながら笑うと、ちらりと腕時計を見て、突然「ヤバいっ」と悲鳴を上げた。


「ごめんなさい、これ以上帰りが遅くなると親に怒られるから、私、これで帰りますね。それじゃ、おやすみなさ~い」


 椎菜は僕の方を向いて片手を何度も振りながら、橋を渡って暗闇の中へと走り去っていった。フレアジーンズの裾を揺らしながら、息を切って走る椎菜の背中は、いつも以上に愛おしさを感じた。

 僕は、握りしめていた手のひらを開き、椎菜がくれたハートの形の花びらを見つめた。僕の好きなコブクロの「桜」……確かに失恋の歌だけど、最後に『誰かの声でまた起き上がれるように』って歌詞があった。必死に追い続けていた恋は叶わなかったけど、花びらを見つめる僕の中には、また新しい気持ちが芽吹いていた。

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