蠅ィ鬟溘>陌ォ、文字列を解く

三浦常春

蠅ィ鬟溘>陌ォ、文字列を解く

 蠅ィ鬟溘>陌ォの本屋には、時折ある本が持ち込まれる。


 全編に渡って真っ黒に塗り潰された書籍。タイトルも目次も本文も奥付も、挿絵の類もすっかり識別できなくなっている。


 『真っ黒な本』はかつて普通の本であった。しかし何らかの拍子に


 少しよれた黒色の紙を撫でて一つ、を摘まむ。ぺろりと剥がれるのは書籍の横幅ほどの墨。それを別の紙に移すと、ようやく墨が文字へと変わる。


 ああ、やっぱりだ。そう思うと同時にほっとしたものだ。


 『真っ黒な本』は書籍の圧縮により発生したバグとされている。言うなれば、空間転送装置における弊害だ。


 実際に見て触って気に入った本を店に置くことを何よりの喜びとする己とは違い、多種多様の書物を大量に購入して送付するよう要求する物好きがいる。


 同業者の怠惰が、何の罪のない書籍を痛めつけて、何の罪のない文字を愚弄したのだ。


 大衆が許しても、ただ一人の書店員は許さない。


 『小さな人間』が見守る中、極めて慎重に作業を続ける。


 破けやすい文字列を、決して細くない手で扱うのは骨が折れる。触手を削って細くするのも悪くはないが、普段とは異なる感覚になるため失敗のリスクが高まる。ピンセットか何かがあれば楽なのかしら。


 一連の作業に、編み物にはまっていた頃を思い出した。ぐちゃぐちゃに絡まった毛糸をほどく作業と、潰れて一体化してしまった文字列を剥がす作業はよく似ている。異なる点といえば、一本の線で繋がっているかどうかだろうか。思えば毛糸を解く方が簡単だったかもしれない。


 『真っ黒な本』から剥ぎ取った文字列は、新たな紙へと移植する。しかしそれで終わりではない。移植した文章を、『本』に戻す作業が待っている。


 圧縮バグが起きてしまった回の輸送リストは既に受け取っている。これを見れば、どんな書籍が圧縮されて『真っ黒な本』が生まれたかが推測できる。


 幸いにもリストの書籍欄に書かれた本うち八割が自宅にあったから、それを参考に本来の文章へと戻していく。もちろん使用する紙にこだわるのがポイントだ。


 文章に戻し終えたら紙をページ順に束ねて片辺を縫い合わせる。


「――うん」


 上製本用の厚い表紙は在庫があるけど箔押しまではできないから、あとで印刷業者に頼まないと。頭の片隅にメモを残して、二冊目の復元に取り掛かる。


 おとめ座銀河団内ラニアケア超銀河団天の川銀河オリオン腕太陽系第三惑星――もとい地球に存在する生物とは異なり、短周期的に睡眠を摂る必要がない。今は人類の生活習慣にのっとって、朝起きて夜に眠る生活をくり返しているが、本来であればもっと長い活動が可能だ。


 『真っ黒い本』を始めとした長い時間と集中力を要する作業の時ばかりは、人類に生まれなくてよかったと思う。ある記録では、二百六十四時間しか連続して起きていられないのだとか。その上、一切の睡眠を摂らないと死んでしまうというのだから、きっと本の復元作業を任せるとしたら命を使い捨てにするしかなくなるだろう。


 人類の文化を愛する自分からしてみればゾッとするような話だ。悪用されないことを祈るばかりである。


 さて。


 実際の書籍と照らし合わせて復元したものは五冊。残りは文脈から推察してまとめた。一応本文としての意味は通っているから、本来の形の書籍を迎えて答え合わせとしよう。


 ふと息を吐いて身体を伸ばす。ふと目をやった鉢植えの花は萎れている。慌てて水とを取りに走って、栄養剤の入ったボトルを突き刺した。


 今度こそ一息つこう。軽く片づけをしようとした。


「あれぇ……?」


 どこに入れ忘れたのかしら。三つほど、紙面に文字列が残っていた。

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