暁、あるいは暮夜

深雪 了

暁、あるいは暮夜

固い床、灰色で覆われた無骨な壁。私がよく知っている家の知らない一室に私は居た。

両の腕と脚にはいくつものあざ。手足の自由を奪われたりはしていなかったけど、私はこの部屋から出ることができない。


私をこの部屋に閉じ込めたのは、私の隣の家、この家の住人である奥嶋宏史おくしまこうじだった。隣人だったから奥嶋のことはよく知っていたけれど、こんなことになるとは思っていなかった。

奥嶋は母親と二人暮らしだったけど、この無機質な部屋の影響で母親は私の存在に気づいていない。


ここに入れられてから、どれくらいだろう。二、三日くらいだろうか。この部屋は日の光が届かないので、はっきりとした日付の経過は分からない。奥嶋が食糧を持って来る回数と、睡眠サイクルからなんとなくそのくらいだと判断しただけだ。



ここの音は外に漏れないようだけど、外部の音は少し私の耳に届いた。ある日、家のドアが開けられる音と共に、奥嶋の母親の「いらっしゃい~!」という声。掛けられた相手も愛想の良い返事をする。その声の主は・・・私の母親だった。


二人が食堂に入って行って歓談する声が聞こえる。私の母親は私に気づくだろうか。けれど私一人では、どうすることもできない。


奥嶋の母親と私の母親の話す声が小さいながらに聞こえる。家が隣同士だから二人は仲が良かった。


「明日小澤さんと夕食を食べに行くんだけど、良かったらあなたもどう?」

「・・・ごめんなさい、せっかくだけど、行けそうにないわ」


———助けて。


「最近物の値上がりがひどいわよねえ。それなのに何だかやけに食べ物の消費が早いような気がして」

「あら、息子さんがよく食べるのかしら?」


———助けて。


祈るような気持ちでいると、私の母親は帰っていった。私は虚脱したようにぐったりとした。涙がとめどなく流れていった。



眠ったタイミングと奥嶋が食事を持って来た回数から考えて、次の日の夜だったと思う。数十分前に、誰かが出掛けていく気配がした。奥嶋の母親が小澤さんとやらと食事に出掛けたのかもしれない。


そしてインターホンが鳴る音がした。奥嶋が対応しているらしく、「はい、今開けます」という声が聞こえる。その後彼が玄関のドアを開けた。

「ごめんなさいね、昨日お伺いした時に、忘れ物をしてしまって」


私の母親の声だった。私の心臓が一気に激しく鼓動する。これがチャンスだと思った。体が抑えきれないくらい震えたけど、今しかないと思った私は勢い良く立ち上がり、——そして部屋のドアを開けた。


私がひきつった顔で玄関になだれ込むと、それを見た私の母親は驚いた顔をした。奥嶋も振り返って私を見る。・・・その彼に、奥嶋に、私はあらかじめ持っていた包丁を手渡した。奥嶋はそれを素早い動きで受け取ると、正面に向き直り——驚いて硬直していた私の母親に突き立てた。私も、手に持っていたもう一本の包丁を母親の体に呑み込ませる。一回では済まなかった。何度も何度も、床に突っ伏した母親の体に包丁を振りかざす。母親からは大量の血がほとばしり、一方の私からは大量の涙と鼻水が流れていた。


その私を、奥嶋——宏史こうじさんは、「莉音りお」と言って制した。その声で私はやっと少し我にかえる。そして私の母親が二度と起き上がれないことを確認すると、私達は二人で顔を見合わせて頷き、奥嶋家を飛び出し夜の闇の中に駆けて行った。



 薄暗い町を、人気ひとけの無い場所に向かってひたすら走る。宏史さんに手を引かれて走る私の瞳からはまだ涙が溢れていた。

両の腕と脚にはいくつものあざ。——私の母親から、長年にわたって刻まれたものだった。



私が小学校に上がった頃から、私の母親は私を度々ストレスの捌け口にした。

お酒に酔っている時や、私が何か失敗をした時。母親の仕事が上手くいかなかった時。少しでも母親の機嫌を損ねると、私は体も心も傷つけられた。


学校や近所の人達に告げ口をしたら許さないと言われていたから、誰にも相談せずにずっと一人で耐えていた。けれど八年ほど耐え続けて、私はもう限界だった。そうして助けを求めた先が、隣の家に住む三歳年上の宏史さんだった。



宏史さんとは幼い頃から仲が良く、彼は優しくて面倒見が良かった。母親の脅威に怯える日々の中、宏史さんと過ごしている時は束の間の安寧を得られたものだった。


普段は痣を隠す為に長袖の服を着ていたけど、数年振りに半袖の服を着て痣だらけで泣きじゃくりながら彼を訪ねると、宏史さんは驚きながらも私の話を聞いてくれた。


最初は警察に行こうという話になったけど、数年経って母親が釈放された時を思うと怖かった。母親あのひとがいるうちは安心して生きていけないと私は言った。



そして、私達が下した決断はあの人を葬ることだった。



まず宏史さんは私を、宏史さんが普段サックスを練習する時に使う防音室に匿った。そこは彼の母親が立ち入ることは無いらしく、私は上手く隠れおおせることができた。


そして私がとても懐いていた宏史さんの所に居ると踏んだ母親は様子を探りに昨日の昼やって来た。そこで宏史さんの母親が食糧の減りが早いとぼやいたことで、母親は私がここに匿われていることに気づいた。母親が気づいたであろうことも私達には察しがついた。


宏史さんの母親が今日の夜食事に出掛けるというチャンスを、私の母親はきっと逃さないだろうと思った。今日の夜あいつはここにやって来る。だから私はあらかじめ宏史さんから包丁を二本借りて、防音室に身を潜めていた。・・・そして夜になってここを訪れた「あの人」を二人で葬った。



 どれくらい走っただろうか。気づくと辺りは真っ暗になっていて、私たちは見知らぬ河原に来ていた。立ち止まって、息を整える。久し振りに着た半袖の服はなんだかスースーして落ちつかなかった。


「大丈夫?」


痣は痛まないかと宏史さんは心配してくれた。私はこれらのほとんどは古傷だから大丈夫なのだと返事をした。


「ありがとう」

色々な意味を込めてそう言った。長い間、凄惨な境遇に居た私の支えになってくれたこと、母親あのひとから匿ってくれたこと、・・・そして、共に生涯逃れられない宿命を背負ってくれたこと。この人はどこまでも他人の為に自分を犠牲にできる人なのだと思った。


二人で並んで河原に腰掛ける。取り返しのつかないことをしてしまったけど、気分が高揚していて今はあまり現実味が無かった。宏史さんは目の前の闇を黙って見つめていて、何を考えているのかは分からない。

その二人の間を夜風が吹き、草を撫でて、私の髪もなびかせた。それが顔に当たってくすぐったい。その髪が私を隠しているのをいいことに、夜空を仰いだ私は最後にもう一度だけ、涙を流した。

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暁、あるいは暮夜 深雪 了 @ryo_naoi

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