薬草の香りに包まれて
蜜柑桜
思考は止めどなく回るばかりだけれど
目の前で、薬草やすり鉢、症例を記した診療記録が卓上を埋めている。雑多極まる様相を呈した作業台に細長い指が伸び、並んだ小瓶の中から背の低いものを拾い上げた。
硝子越しに揺れるのは、春の花びらから抽出した朱の液。爪に差した控えめな桃色とは逆の、落ち着いた深い色。
それを見れば、つと、脳裏に蘇る顔がある。
「まったく、何を考えているのかしら」
答える者がいない部屋の中、答えを言いそうもない
季節性の流行り病はどんどん患者を増やしている。これまでの薬湯では不十分だった。急いで治療薬を作らねばならない。それも新しい薬を。温度と速度を見極めてうまく完成させられるかどうか。
そんな状況だというのに、気持ちが掻き乱されて胸がざわつく。
忙しくしていてしばらく会っていない、とふと気づくと、何の前触れもなくふらっとやって来る。いや、前触れが無いと言えば語弊があるか。公務で訪問のある旨は上から伝え聞く。しかし
とはいえ、来たからといって何をするでも無い。特に重要な話もせず、同じ空間にいるだけだ。
小瓶を開けると甘い蜜の香りが立ち昇る。傍らに置いたすり鉢を引き寄せ、別の瓶を取って中から乾燥させた木の芽を鉢にあけた。
——行ったり来たりだけで体力も消耗するでしょうに。
それでも寄るのは、特別扱いなのか、それとも馴染みの家だからか。人も振り返る容姿とこの上ない身分を持つ身で、女に困るなんてことは皆無だろう。むしろ王都の方が華やかな遊びには溢れていように。
目をきらめかせる女性なら他にいくらでも……
——まあ、似合わないわね。
父王亡き後、いやその前から、考えるのは国のことばかり。
休んでいるところなど見たことがあっただろうか。距離の離れたこの地へ移動し、義務を果たして帰るだけでも身体を酷使するはずだ。
無理をしていないか、大丈夫かと問うても、柔らかな微笑が返ってくるだけ。
すり鉢の中で、木の芽はもう褐色を帯びた砂状になっていた。今期の病は、既存の薬で鈍痛が治らず手を焼いていたところだ。調合の具合も測れない状況で、この台に散乱した材料も行き場を無くしていたが。
鋲で留めた紙を壁から取り外す。上から順に患者の年齢や性別、身体的特徴に基礎疾患、そして日時と投薬の種類、病状の進行状態を改めて確認していく。
この街では不足していた王都の症例だ。間違いのない薬剤配合率の決定打になる。
褐色の砂に朱色の液を一滴、二滴……今期出ている病状なら三滴は要るだろう。水分を含んで砂が崩れる。窪んだところへ擦りこぎを当てて手首を回せば、静けさの満ちた部屋の空気に規則的な微動が生まれていく。
——顔が見られたから、それでいい。
いまと同じように小さな作業音ばかりのこの狭い空間内で、少なく交わした言葉の中にあったひとこと。
その辺りにいる女官ならば一発で熱に浮かされてしまいそうな
本心なのか、駆け引きなのか、試されているのか。
——いえ。何も考えてないわね、きっと。
砂が重さを増した。ここで速度を緩めると薬同士の反応がうまくいかない。手に力を加え、薬剤を底に押し当てるように潰し続ける。
どうせ十中八九、天然なのだろう。あれこれ考えあぐねるだけ無駄な気苦労だ。
甘い蜜を含んだ液と香ばしい木の芽が一体になり、なんとも言えない芳香が鼻腔を通って喉に抜ける。掬い上げれば、ぽとりと小さな音を立てて落ちた。
この薬なら子供でも難なく飲めるだろう。
いい色に混ざり合った一滴がすり鉢の冷たい表面に冷やされる。まるで飴のように美しく透明に固まった一粒を見たら、自ずから口元に笑みが浮かび、安堵のため息が溢れた。
「あ……ら?」
自分の嘆息に我に返ってみれば、心配していたはずの新薬がいつの間にか目の前にある。
燭台の灯火を受け、薬粒の面は深い蘇芳に艶めいていた。
——もう……こちらの心配もよそに。
不思議なものだ。頭の中ではもつれにもつれた感情が出口なく渦巻いているのに、そんな時に限って手作業の方は着実に進んでいく。止まらない思考に沈んで黙々と手を動かしていたら、混乱状態に見えた机上の物が知らぬ間に秩序を得て、然るべき姿になっていた。
まあでも、何かが成る時とはそういうものかもしれない。
——きっとこれは、恋とは違うわ。
ときめきとか、嫉妬とか、昂る想いとか、巷に溢れた恋物語とは程遠い。自分が相手にとって何者なのかもよく分からない。
擦りこぎを置き、すぐそばによけた紙の上で、症例記録とは別の手記で短く書かれた几帳面な文字をなぞった。
——頼んだ。
あの人間が何に代えても救おうとする民を、託された部分がある。
髪留めを外して灰青の髪をほどくと、自分の緊張もすっとほぐれた。
——それで十分だわ。
相変わらず掴めないが、分からないようで分かる気もする。ないまぜな気持ちでもいい。確かな信はそこにあるのだから。
——それ以外も、機が来れば分かるでしょう。
それよりもいまは、仕上がったばかりの小さな粒が、新たな救いの種となりますように。
そして願わくばここが、あの人のわずかな羽休めの場所になっているのなら。
女性は真新しい空瓶をそっと開け、傷一つない透明な壁面に、煌めく粒を滑らせる。
瓶に映った自分の翡翠の瞳とは対照的な、強い蘇芳の色を、記憶の中の瞳と重ねた。
——完
薬草の香りに包まれて 蜜柑桜 @Mican-Sakura
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