ぐちゃぐちゃ ぴしゃぴしゃ ~ぴしゃがつく~

木の傘

あの子は、自称ぴしゃがつく

 僕の家は田んぼに囲まれていて、周りには、やっと車が一台通れるくらいの細い道しかない。しかも土が剥き出しの悪路だ。


 だから雨が降ったりすると、僕はぐちゃぐちゃの泥の中を登下校する羽目になった。


 でも、別に雨は嫌いじゃない——寧ろ下校時刻に雨が降っていると、僕はソワソワしながら泥道を歩いた。


 ぐちゃぐちゃ ぐちゃぐちゃ ぐちゃぐちゃぐちゃ ぴしゃ——僕の後ろで、水の跳ねる音がした。思わず、口元はニンマリ緩む。


 ぐちゃぐちゃ ぴしゃぴしゃ ぐちゃぐちゃ


「待ってよ~」


 足を止めて振り返ると、ずぶ濡れの女の子が立っていた。

 歳は僕と同じ位。黄色いカチューシャが似合うその子は、初めて会った時から【妖怪・ぴしゃがつく】を自称している。


「もっとゆっくり歩いてよ~」

「やだよ。早く帰りたいもん」


 僕は悪態を吐きながらも、ゆっくり、踏みしめるように歩き始めた。


 ぐちゃ  ぐちゃ  ぴしゃぴしゃ ぐちゃ  ぐちゃ  ぴしゃぴしゃ


 その子は、僕の隣を歩かない。

 いつも僕を見守るように、少し後ろをついて来る。


「学校楽しい?」

「まあまあ」


「彼女できた?」

「……教えない」


 何気ない会話を交わしていると、毎回いつの間にか玄関に着いている。


「たまには、あがっていけば?」

 声を掛けつつ振り向けば、彼女はもういない。


 いつも、僕が家に着くのを見届けて——彼女は消える。


「またね……」


 返事は無い。ただ、雨音だけが煩く響いていた。


(ぴしゃがつくは、一体何者なんだろう)


 雨が降ると、あの子はどこからともなく現れる。それも、決まってあの泥道に。


 あの子と初めて会った時は、僕が小学校一年生の頃。

 その頃から、彼女は今と変わらない姿。今では、僕が彼女の歳に追いついてしまった。


(本当に、妖怪だったりして)


 土砂降りの中、傘もささない女の子。

 いつか彼女を僕の傘に誘おうと思って、ずっと言えずにいる。


「ただいま」

 考え事をしている内に、母さんが帰ってきた。


「凄い雨だね。大丈夫だった?」

「まあね」


「こんな日は、用水路に近づいたら駄目よ。昔、あの泥道の辺りで女の子が流されたんだから」


「……女の子?」


「そう。黄色いカチューシャが似合う子だったわ。その子が、水路に落ちたのを見た人がいたんだけど、結局——見つけてあげる事は、できなかったって」



 ぴしゃがつくと初めて会った時——僕はいつもより流れが早くなった水路に、葉っぱを流して遊んでいた。

 あの子は、水路を覗き込んだ僕が落ちない様に、後ろに引っ張ってくれたんだ。



(ぴしゃがつく……僕の事を心配した癖に、自分はまだ帰れずにいるのか?)


 窓に視線をやれば、雨脚はさっきよりも強くなっていた。

 風も出てきたようで、雨を激しく窓に打ち付けている。


(君はこんな嵐の中でさえ、ずっと、あの泥道を彷徨っているのか?)


 気が付けば、僕は傘を掴んで走り出していた。


「ぴしゃがつくーーーー!!」

 泥道を駆けながら、大声であの子を呼んだ。

 大雨の中、傘をさすのも忘れて、ひたすらに叫んだ。


「どこにいるんだ! 返事をしてくれ!」


 叫びながら、ふと、出会った日の事を思い出した。



「危ないよ。お姉ちゃんが送ってあげるから、早く帰ろうね」


「お姉ちゃん、誰?」

「えっと、えっとね、妖怪ぴしゃがつく」


「ぴしゃ? 変なの」

「嘘!? 知らないの?」



「知ってる訳ないだろ! そんなマイナーな妖怪なんて! べとべとさんじゃ駄目だったのかよ——」

 泥濘に足をとられ、泥の中に顔から突っ伏してしまった。


「大丈夫?」


 顔を上げれば、ぴしゃがつくが目の前にいた。


 僕はぐちゃぐちゃの泥濘から立ち上がると、泥で汚れた顔を綺麗にしようとして、手で拭った。でも、その手もドロドロだったから、汚れは顔全体に広がってしまったようだった。


(あれだ。母さんがたまにやる、泥パック。それをした時みたいな顔になってるかもしれない……。)


 ぴしゃがつくは、笑いながら僕の顔をハンカチで拭ってくれた。


「べとべとさんじゃ、道を譲られちゃうから」


(また変な事言ってる)


 僕は呆れながら、彼女の——その楽しそうな笑顔を、しっかりと目に焼き付けた。


「なあ、ぴしゃがつく」


 二人共ずぶ濡れ、加えて僕は泥まみれ。


 それでも、僕は傘をさした。


「今度は僕が送っていくよ」


 僕は、この先ずっと忘れないだろう——君と並んで歩いた、雨降りの帰路を。

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