推しメーカー【ぐちゃぐちゃ】

沖綱真優

第3話

『卵かけご飯は、米飯に生卵を絡めた料理、またはその食べ方であり、日本で主に朝食として広く用いられている』

 ——Wikipediaより


 卵かけご飯。現代では珍しくも何ともないこの料理が一般的となったのは、昭和も三十年になってから。石器時代から稲作が始まったコメ、弥生時代には伝来していたニワトリを考えると、より古い時代からのソウルフードであっても良いのに。それでも、昭和が残り三十数年、令和が三十年、令和になって早五年の、合わせて七十年ほど食べられている料理である。


 食べ方として『一般的』——といえば親子でも夫婦でも兄妹でも友人関係でも恋人だろうがケンカになること待ったなしの食べ方は幾通りもあり、最も大雑把に分けると、卵を混ぜてからご飯に掛けるか、ご飯の上に卵を割り入れてから混ぜ合わせるかである。前者には、卵と調味料を混ぜ合わせるか、ご飯に調味料を混ぜ合わせるかのバリエーションもあり、使用する調味料の種類も含めると天文学的数字には届かないものの、ヒトの数だけ卵かけご飯、TKGは存在する——



「すみませーーん。これ、別々にしてもらえますか?」


 カウンター六席とテーブルふたつだけの狭い店内に響く男の声。

 茶碗を持った手の影から上目遣いに覗う者、カウンターから振り返る者、外で順番を待つ者まで暖簾を手で押さえて注目する。


「あ、ウチはこういう形式なんで。メニューにも書いてあります」


 カウンター向こうの店員が説明した。上げた手を下ろして、男は困ったように言った。


「えーー?あ、じゃぁ、いいです」

「ねぇ、どうしてそういうことするの?書いてあったし、お店の人が運んできたら、文句なんて付けないでしょう?目立って恥ずかしいって」

「うーん、あ、そうだ……先に味噌汁飲んでこっちで混ぜよ」

「聞きなさいよッ」


 ひそひそ声で叱って、女は、自分もまた店員から見られてのに気付いて、小さく会釈した。どちらにせよ、男は聞いていない。いつものことだ。家でも、外でも


 夫婦のやりとりを見ながら、那珂野なかのクレアは祈った。女がを口にすることを。

 思い浮かべるだけでも多少は効果があるのかもしれないが、発することにより明確に世界に影響する。存在を認められるには、口から出して誰かの耳に入る、または、書き記して誰かが目にする、読み取るという動作が必要だ。


 男は、セットになった味噌汁を一気に啜った。茶碗で湯気を立てるご飯の上に割り入れられた卵を、空になったお椀へと移す。女は呆れた顔をするものの、これ以上騒ぎたくはないと、黙って自分の茶碗へと箸を運んだ。


「ほかの……やったら、おられたんやろか」


 つぷり。

 女の箸が、白色の米の上に乗った黄身の薄皮を破る。

 女の箸に、生まれたての太陽のような黄色が纏わり付く。

 女の箸は、ゆっくりと回転しはじめ、白色は黄色に染まり、黄色は白色に自らの色を分け与えていく。


 クレアは意識が薄れていくのを感じた。

 目の前の女は、明らかに考えていた。しかし、口にはしない。

 恥ずかしい。時代遅れ。古くさい。十数年前には流行語大賞にノミネートされたというのに。

 もう、誰も口にしない。

 こういうもあったよね、と話題になれば良い方だ。それだけでは、クレアたちは存在できない。KYの那珂野クレアは、存在できなくなるのだ。


「もう、ぐちゃぐちゃやね……」


 空気の読めないニンゲンなど、いつの時代にも存在した。KYということばを誰も使わなくなったからといって、空気を読めないニンゲンはいなくならない。明確で敵対的ともいえる同調圧力に相違ないことばKYが、嫌われ、廃れるのは仕方ないかもしれないが、それでも、クレアたちは広める努力をしてきたのだ。

 もっとも、この仕事の意味合いを理解したのは、今。

 ほとんど使われなくなったTKGは生き残るのに、KYに服属するクレアたちは生き残れない。

 なぜなら、形のあるモノではないから——


 黄身のようなクッキリした姿でなくては。白米と混ぜ合わされてはもう、見えない。

 使われなくなったことばは、概念として存在しても、姿としては認識されない。空気のように。


 空気を読めば、アタシは居るかも……それじゃあ、逆か……。


 男のお椀に白米が投入されるころ、クレアの意識は完全に、世界から。

 消えた。

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