ぐちゃぐちゃ池

飯田太朗

ぐちゃぐちゃ池

「ぐちゃぐちゃ?」

 僕は訊き返した。

「変わった名前の池だな」

 僕の言葉に担当編集者の与謝野明子くんが答える。

「ですよね! 沖縄県F村の外れにあるそうです」

 これはいつもの通り、文芸誌『野性時代』に連載している長編、『幸田一路は認めない』の打ち合わせをしている時の一コマだった。『幸田一路は認めない』はフィールドワークを得意とする学者の主人公、幸田一路が日本各地のさまざまな民俗学ミステリーに会ってそれを解決していく作品なのだが、当初予定していたトリック十二本の内三本が駄目になってしまった(人種差別や貧困問題に踏み込んでしまった)ため新たなネタを探していたのだった。

「……毎度思うんだが、君はどうやってそんな意味の分からん情報を仕入れるんだ?」

「企業秘密です」

 うふふ、と与謝野くんが笑う。

「『作家は経験したもの以外書けない』って言いますしぃ」

「一部正しい」

「取材、行きませんか?」

「まぁ、魅力的な提案ではある」

 それからしばらく二人でああでもないこうでもないと今後の展開について話したのだが、どうにも結論に至れぬまま時が過ぎた。しばらくして、与謝野くんがこっそり訊いてきた。

「こうなれば先生。行きます? F村!」

 僕はしぶしぶ頷く。

「まぁ、行くしかないだろうな。新しいネタが浮かぶ気配もないし」

 僕は旅行用の小型タブレットを思い浮かべた。あれに外付けの折りたたみ式キーボードを接続すればどこでも小説が書けるという寸法だ。家のパソコンよりは書きにくいが、久しぶりにあれを使うのもいいだろう。

「日取りはどうしましょう」

 ノリノリの与謝野くん。僕はカレンダーを思い出しながら答えた。

「来週の金曜はどうだ」

「いいですねー! 海水浴のシーズンは終わりましたけど、来週なら、それも沖縄ならまだ間に合うかな……?」

「遊びに行くんじゃないんだぞ」

「分かってますー。出張申請しないと……!」

 さて、そんなうきうきの与謝野くんを連れて。

 僕は一路沖縄県に向かった。海に囲まれたこの島で、僕はある奇妙な経験をする。



「せっかく沖縄に来たのに……」

 到着するや、与謝野くんが萎れる。

「海じゃなくて山なんて……」

「F村にあるところまで調べた段階で察しはつかなかったのか」

 F村は、沖縄県国頭郡くにがみぐんの外れ、離島の山の中にある。島に浜辺はなく、僕たちは近隣の漁師の船に乗せてもらって海岸から上陸することになった。聞くところによるとF村は何十年か前に廃村になったらしく、今は人がいないらしい。

 さて、ここで与謝野くんの嘆きというわけである。この離島、口屋島くちやしまの周囲は渦潮が多く、また浅瀬もないため海水浴はおろか泳ぐことさえ禁止されていた。まぁ、僕は下調べの段階でそこまで把握していたので与謝野くんのように凹みなどしなかった。

「せっかく水着も新調したのにぃ」

「僕はそもそも泳ぐことを想定していないから持ってきていない」

「先生、取材さっさと終わらせてどこかビーチ行きましょうよぉ」

「断る」

「そんなぁ」

「……おたくら、口屋島に行くってぇのに呑気だな」

 船を貸してくれた漁師――往復で二十万円だとふっかけてきた漁師だが、他に手を貸してくれる漁師がいなかった――が暗い顔でつぶやく。

「人を喰う魔の島だぞ。遊び半分で行っちゃならねぇ」

「僕は仕事で行くんだ」

 遊び半分なのは与謝野くんだろう。僕は怒られた義理じゃない。

「君も金をもらった以上は仕事で行くんだろう。とにかく船を走らせるんだ」

 漁師はムッとすると静かに船のモーターの様子を見に行った。僕はチラリと与謝野くんを見て、「余計な口を叩くな」とつぶやくと、船の向かう先を見た。

 果たして二十分後、その島は見えてきた。

「ぐちゃぐちゃ池」、その不思議な名前の池を持つ、口屋島……。



 海岸は一応コンクリートで整備されていたが傷みが激しく、また波も高かったため上陸に手間取った。特に与謝野くんはこういう場所に来るにも関わらず呑気にマーメイドスカートなんかでやってきやがったので――海辺でマーメイドスカートなんて素敵じゃないですかぁ? とのことだ――彼女の手を取って島に引き上げてやる必要まであった。上陸後、「三時間後に迎えにきて欲しい」旨告げると漁師は、

「何かあったらキモドリさまを拝むんだ」

 と告げた。

「キモドリさま?」

 僕が首を傾げると、漁師はポケットの中から石ころを五つほど取り出した。

「この口屋島に何があるか、俺たちゃあ知らねえ。けど古くからのしきたりで、俺たちゃあ口屋島に近づく時はこうしてポケットに石ころを入れていく。キモドリさまは石をぶつけると目を覚ます。ぐちゃぐちゃ池の畔にもキモドリさまの祠はあるらしいから、そこに向かって石を投げるんだ」

「バチが当たりそうだが……」

「祠の中にある大きな石目掛けて投げるんだ」

 しかし漁師は頑なだった。

「キモドリさまは巻き戻してくれる。キモドリさまは時の神だ。いいな。守れよ」

 そういうわけで、僕は道中石ころを拾いながらそのぐちゃぐちゃ池へと向かった。山の中を、かろうじて残っている獣道みたいな道を進んでいったのだが、案の定マーメイドスカートの与謝野くんは何度かヘルプを出してきた。まぁ、ハイヒールじゃなかっただけよしとしよう。まるでお姫様をエスコートするように彼女の手を取り先へ進むと、その池は見えてきた……が、最初は池だと思わなかった。

「うわー! すごい! 先生! 見て!」

 はしゃぐ与謝野くん。まぁ、気持ちは分かる。

 池、と言うにはあまりに緑だったそれは、どうも水面に水草が浮いている池らしかった。辺り一面、緑な理由は……。

「大きな蓮!」

 そう、直径優に三メートルは超える巨大な蓮の葉が水面を覆い尽くしていたのである。蓮の葉が描く円と円の間の僅かな隙間も、おそらくこの蓮の幼体と思しき葉っぱがびっしり生えていた。汀と地面の境界を示すのか、祠がひとつ、池の側に立っていた。これが噂のキモドリさまか? 不思議なもので、祠のくせに正面がこちら側ではなく沖の方を向いていた。つまり岸からは祠の背中しか見えない。故にこれがキモドリさまかどうかも分からない。

 しかしは今は、祠よりもこの蓮。

「見たこともないくらいでかい蓮だな……」

 僕は思案する。

「オオオニバスの仲間だろうか。あれも二メートルくらいにはなるしな……」

 と、つぶやいていると与謝野くんが見つけた。

「ねぇ! 先生あれ見て!」

 彼女の示す先。沖の方。直径四〜五十センチの大きな、ピンク色の花が咲いていた。それは美しかった。

「綺麗……!」

 ほんのりと、甘い香り。匂いも強い花らしい。

「あれ、取れないかな……」

 与謝野くんが目の色を変える。

「よせよせ、桜の枝を折っちゃいけないって言うだろ」

「自然に咲いてるものは別ですよ」

「あんなでかい花取ってどうする気だ」

「写真撮って、放流です。なので厳密には枝を折るわけでは……」

 まぁ、そういうことなら、と僕は納得する。

「オオオニバスの仲間なら八十キロまで乗れる個体もあるそうだぞ。この一帯の葉っぱはどれも大きいから、どれか捕まえて乗ってみたらどうだ」

 しかし僕がアドバイスするかしないかのタイミングで……。

「先生! 乗れましたぁ!」

 まったく呑気な女だ。

 とまぁ、そんな具合に与謝野くんは蓮の花目掛けて葉っぱの上を歩いて行った。飛び石を飛ぶように、ちょいちょいと。マーメイドスカートなのがとにかく危なっかしくて、よくここまで危機感のない女に育ったものだと逆に彼女の親を尊敬する気になれた。

 そんな具合に、彼女との距離が適当に離れ始めると、僕は彼女が不安になり――親じゃないんだぞ――彼女を追いかけるべく大きい葉を見繕って足を踏み出した。不思議な感触で、トランポリンのように沈みはするのだが、葉脈の弾力で沈んだ足を跳ね返す、そんな踏み心地だった。これはこれで、癖になりそうだ。

 与謝野くんを追いかける。

 彼女はひょいひょいと先に進むと、花の前に着くや、かがんでスマホを取り出した。カメラを起動し、花に向ける。だがその時だった。

 葉がくるんとひっくり返った。悲鳴をあげて、彼女が沈んだ。

「おい、だから言わんこっちゃ……」

 うんざりして僕は彼女の方を見つめる。救助しないといけない。ああ、面倒くさい。しかし、沈黙。そして僕は気づく。

 彼女が落ちた水の音……バシャ、という感じではなかった。とぷん、と沈んだ。そしてその深さに関わらずするであろう与謝野くんの暴れる音が、一切しない! 彼女の手は間抜けにも水面から天に向かって伸びているが一切暴れない! 

 まずい! 僕は歩を早めて彼女の沈んだ地点に向かった。そうしてひっくり返った蓮の葉の近くに着くと、水面から伸びている彼女の手を掴んだ。

「与謝野くん!」

 しかし、驚くほどあっさり、彼女の手は抜けた。そう、彼女の手、だけ。

 腹の底から悲鳴が上がる。大根みたいに抜けたのは彼女の手! 手だけ! 

 蓮の葉の上で座り込む。何だ。何が起きているんだ? 

 水面を覗き込む。暗く澱んだ水。中は伺えない。だがかろうじて、彼女が着ていた衣服の類が見えた。紺のスリーブシャツに、白のスカート、ベージュのインナー、黒の……あれは見なかったことにしよう。

 とにかく、手。

 僕は手に持っていた与謝野くんの腕の付け根を見た。そしてギョッとした。

 ――溶けてる!

 彼女の手が溶けていた。それは例えば強い酸に焼かれたような溶け方ではなく、まるで氷が水に溶けるような……しっとりした溶け方をしていた。ドロドロ……いや、ぐちゃぐちゃと溶け出したそれは白と赤のマーブル模様を描いた……骨と、筋肉が溶けているのだ! 

 と、近くからクエエという声がした。何事かと振り返ってみると、そこには水面に飛び込んだのであろう、鳥が一羽いた。ただ様子がおかしい。まるでそう、沈む船のような……。

 もしや、と僕はポケットからメモ帳を取り出すと、ページの端を破って水面に落とした。着水したそれは、まるで雪が溶けるかのように一瞬でなくなった。僕の仮説は裏付けられた。

 特殊な液体なんだ! 酸のように強く溶かす液体ではないが、物質の結合を……おそらく原始レベルでほどくのかもしれない。さらさらと溶けていく様はまるで氷が溶けるようだ。角砂糖が紅茶の中に溶けていくかのようだ! 

 そして再び鳥の方を見て、気づく。

 ……あの鳥も、花のそばで沈んでいる!

 しまった! 僕は辺りを見渡した。この池はただの池じゃない! 花の香りと色で生き物を誘き寄せて食する、食虫植物のような池なのだ! この水面は水じゃない。消化液なんだ! 

 ズブズブ沈んでいく鳥を見て思う。静かに着水すればゆっくり溶かされて、ダイブするように着水すれば一気に溶かされる。与謝野くんは一気に飛び込んだ。だから、跡形もなく……。

 再び水中を見る。もう、衣服の類も見えない。

 くそ! 僕は再び辺りを見渡す。与謝野くんをどうにかする前に、僕だ。僕の身だ。彼女のカケラを持ち帰る意味でも、まずは僕の身を……! 

 駄目だ。僕は絶望した。これは風のせいか? 

 振り返ると、僕が乗ってきた蓮の葉が見えなくなっていた。代わりに人が乗るには頼りない小さな葉がいくつも続いている。水面を走る風。その風に乗って葉が、それぞれの位置を変えている。元来た葉っぱを辿って戻ることもできない! 

 駄目だ、もう終わりか……? 僕がいるのは岸から十メートルほど離れた場所。辺りを見渡す。何か、何か手掛かりは? ロープじゃなくて蔦でもいい。この状況を脱する手、奇跡の一手は……。

 何か、道具は? ポケットに手を入れる。石ころがあった。ちくしょう、何でこんなのがポケットに。

 と、思い出す。岸の方を見る。あった! 祠だ……! 

 それは漁師の言葉だった。



「写真撮って、放流です。なので厳密には枝を折るわけでは……」

「駄目だ与謝野くん。帰るぞ」

「えーっ? 何でですか先生!」

 強引に、彼女の手を取る。

「帰るぞ」

「えっ、ちょっと先生!」

 さっきは嫌になるくらい軽かった彼女の手の感触が、しっかり重いことに安心感を得る。彼女は生きている。僕も生きている。

 それから僕は、この島に上陸した時のことを思い出した。

 キモドリさまは巻き戻してくれる――漁師の言うことは正しかった。そして彼の言う通り石を持っていてよかった。これのおかげで、僕たちは……。

 キモドリさまが池の沖の方を向いていた理由。キモドリさまは時の神。そして、キモドリさまは石をぶつけられると目覚める。

 あれは「ぐちゃぐちゃ池」に食われそうになった人間を救済する手だったのだ。キモドリさまは巻き戻してくれる。そう、キモドリさまに石をぶつければ、池の中に入る前の時間まで……。

「えーっ、ちょっと先生、待ってくださいよぉ!」

 よたよたと、スカートで歩きにくそうな彼女に向かって話す。

「君、ビーチに行きたいって言ってたな」

「はい?」

「帰ったらビーチに行こう」

 作家は経験したもの以外書けない、と言う。

 これは一部正しい。

 確かに実体験に勝る取材はないだろう。リアリティは大事だ。神は細部に宿る。

 しかし、全部が全部正しいわけではない。

 経験しなくていいことは経験しなくていいのだ。それに、そう、何のために神は僕らに「想像力」を授けたのか。

「この取材は『経験しなくていいこと』だ」

 僕は続ける。

「君の黒の水着も拝みたいしな」

 と、与謝野くんが頬を染める。

「せ、先生どうして――」


 了

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ぐちゃぐちゃ池 飯田太朗 @taroIda

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