【KAC20232】狼の中身
青月クロエ
第1話
その部屋は至るところにぬいぐるみがたくさん飾られていた。
戸棚の上には世界各国から集めたテディベア。背の低い本棚には白、黒、ピンクのうさぎ。鏡台の脇にはフェルトのひよこ。ベッドの枕元には抱き枕サイズの犬や猫。そして、裁縫道具や綿が乱雑に拡げられた作業台、一心不乱に羊毛フェルトに特殊針を突き立てる彼女の周りにはミニチュア狼。
「すごいね、地味な作業でこんなのできちゃうんだ」
「だめ!さわっちゃ!」
作業台にあるのは売り物だろうから、と、うさぎに紛れて一つだけ本棚にあった狼を手に取った瞬間、彼女が勢いよく顔を上げる。
大人しい質の彼女の剣幕に少し驚いていると、「あ、えっと……、ごめん、それも売り物なの」と眼鏡の奥で目を泳がせ、拙い弁解が始まった。
「いーよ、全然気にしてないし」
「ご、ごめんね」
「だからいいってば。ねえ、それよりさ」
作業台にゆっくり近づく。腰を落とし、彼女の肩をそっと抱く。
びくっと跳ねる肩の動き、初々しさに思わず唇の端が持ち上がる。
赤茶の前髪の下、少し怯えた目を見つめ。針を握ったままの手に手を重ね、壁時計を見るよう視線で促す。
「夜も遅いし、仕事終わりにしない??」
「え、で、でも……」
「今日のノルマは達成したんでしょ??」
「う、うん……」
「じゃあいいよね」
なにが、なんて言わせない。
言わせる前に言葉なんて塞いでしまえば、あとはこっちの思い通りに全部事は運ぶ。
「……って、ちょろすぎて気が抜けたし」
夜さえ明けない未明の時間。
ベッドで熟睡する彼女の背を一切振り向きもせず、手早く身支度を整える。
そのまま省みることなく去る、かと思いきや、彼は本棚の狼を素早く持ち去った。
独特の優しい手触りは一緒。違うとしたら、作業台に並んでいた狼は灰色でこちらは白。大きさも一回り近く大きい。
安アパートの鉄製の階段を音もなく駆け下りる。
薄闇に包まれたアパート周辺の裏通りへ出ると、崩れかけの廃屋の壁に酩酊した酔っ払いがもたれかかり、盛った野良猫の喧嘩が遠く響いてきた。
この手の場所はいつ何が飛び出してくるかわからない。
さっさと
ぽたぽた。ぽたぽた。
癖のある髪から茶色い雫が流れ落ち、ブルネットへ変化していく。
狼を握った左手の甲に現れたのは、オルトロスに似た双頭の
「中途半端な変装でごまかせるとでも??」
「僕が出てくるまでわざわざ水張ったバケツ用意して待ってたわけ??寒い中ごくろーさま。よくやるね」
薄闇からの声に動揺するでもなく、彼はその場に佇んだまま飄々と答える。
モッズコートからブーツまでぐっしょり濡れそぼっても彼は顔色一つ変わらない。薄闇からの声に幾分苛立ちが混じっていく。
「で、どうする気??
「ほざけ。どうハッタリ言おうとも、今のお前があの女と逢うために銃を持たない丸腰なことくらい知っている」
「ふーん、よくご存じで。にしてもさ、あの子も初心でおとなしい割にヤクの売人とかよくやるよね。てゆーか、男にそんな細かい個人情報まで知られてるのなんかキモいんだけど。見えないところでごちゃごちゃ言ってないでさっさと出てくれば??それとも僕が怖くて出てこれない??肝ちっちゃ……」
最後まで言葉を待たずして、薄闇から五、六人、全身黒装束の男たちが飛び出し、彼を取り囲む。
「やっとおでまし??
「ほざけ!」
男たちが一斉に銃を構えたと同時に悲鳴が薄闇を切り裂く。
悲鳴が呻き、泣き声に変わる頃には男たちは目や耳を抑え、地に蹲っていた。
「アードラ、おしゃべりが長すぎる。あと少しおしゃべりが続こうものなら、捨て置こうかと思ったぞ」
両手に握る
思いの外小柄な酔っ払いは赤らんだ間抜け顔の端を掴むとべりべり引き剥がし──、現れた素顔は鈍色の長短髪、犯罪者顔負けの凶悪な目つきの青年だった。
「あー、ごめんごめん……、って、スタンもお喋りしてる暇なくない??ひとり逃げてったけど追いかけなくていいの??」
「お前が行け!俺にばかり面倒な仕事押しつけるな!」
「ちょ、蹴らないでくれる??」
「さっさと行け!!」
青白い顔を真っ赤にさせたスタンがぶん投げた銃を空中で受け取ると、「じゃあ、これ、代わりに預かって」と狼人形を投げ返す。
「証拠品雑に扱うな!」
「
後方のスタンの怒鳴り声を背に、密集する建物群、入り組んだ路地を静かに駆け抜ける。薄闇は徐々に白み始めている。夜明けが近い。人が動き始める前に終わらせなければ。
「見つけた」
大人一人が通れるか通れない程度の狭い路地に男はいた。
細身だが長身のアードラでは入り込めない──??
「別に撃つ分には何の問題もないよね??」
爽やかな顔立ちにふさわしい柔らかな笑顔でトリガーを引く。
一際高く猫が諍う声に断末魔が重なり、夜明けの紫の空に轟いた。
【KAC20232】狼の中身 青月クロエ @seigetsu_chloe
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