第9話 にんじんを食べようとしているうさぎのぬいぐるみ

 そのあと、ぼくも引っ越した。

 会社で毎月きちんと給料がもらえる、ということが実感として定着して、もう少し会社に近く、もう少し家賃の高いところに引っ越した。

 このぬいぐるみを、いつ、どうやってこの押し入れの隅に置いたのか。

 まったく覚えていない。

 たぶん、引っ越してきて、学生時代に使っていたものを手当たり次第にカラーボックスに入れたときに、いっしょに置いたのだろうけど。

 十年間、このぬいぐるみはここにいつづけた。

 たぶん、淳子じゅんこのところにいたときのほうが、この子は幸せだっただろう。

 ところで、淳子から十年遅れて、ぼくも結婚することになった。それで新居に引っ越すので、荷物を整理しているわけだが。

 普通に考えれば、このぬいぐるみは捨てるところだろう。

 ただでさえ二人分の荷物を新居に運び込むわけで、余裕はない。

 それ以上に、恋仲になったことなんかないとはいえ、四年間、別の女に預けていたぬいぐるみを大事に持っていていいものだろうか?

 でも、捨てないことにした。

 十年間、暗い押し入れの隅に入れた忘れていたぬいぐるみが、日の目を見たとたんにゴミ箱行きとは、かわいそうすぎる。

 いや。

 かわいそう以前に、呪われそうだ。

 それは、避けたい。

 新しく妻というのになるらしい彼女には

「これ、ぼくの生涯で初めてクレーンゲームで取ったぬいぐるみなんだ」

と言えば、笑ってくれるだろう。

 ぼくが不器用なことは、彼女だってもう十分に知っているはずだから。


 (終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うさぎのぬいぐるみ 清瀬 六朗 @r_kiyose

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ