動く!話せる!戦う!テディベア!

春海水亭

ぬいぐるみは人間の友だちになるために生まれてきた



 人を呪うのに相応しい時間だった。

 時刻は午前二時、厚い雲にくるまって満月すらも眠る曇天の丑の刻。

 ある神社のことである。

 闇の中にかつん、という何かを打ち付けるような音が継続的に響き渡っていた。

 音の正体はわからない。

 神社内に照明の類はなく、月は黒雲に遮られて真実に光を当てない。

 ただひたすらに、音が続く。


 音の合間に声が聞こえた。


「死んじゃえ」かつん「死んじゃえ」かつん「死んじゃえ」かつん「死んじゃえ」

 少女の声だった。

 ある神社の境内、その本殿の裏にある樹齢二百年にもなるケヤキに釘が刺さった藁人形があった。そして今も進行形でこの釘は打たれ続けている。丑の刻参りという呪いの儀式である。

 少女はパジャマ姿であり、藁人形と釘のセットはフリマアプリで購入したものだ。その藁人形に釘打つ金槌は学校で使用する工具を利用している。

 呪いの儀式として成立する余地は一つとしてないだろう。

 それでも、「死んじゃえ」かつん「死んじゃえ」かつん

 本人だけは真剣だった。

 世間では滑稽に思われるようなどうしようもないやり方であっても、それに思いを吐き出さなければ生きていけない――そんなことはいくらでもある。あらゆる趣味ごとがその部類であり、そして彼女にとってのそれは思いだけしか本物がない丑の刻参りだった。


「死んじゃえ」かつん「死んじゃ――」

「やめろ」


 低く渋い声がした。


「だ、誰!?」

 上ずる声とともに振り返ったが、背後には誰の姿も見えない。

 もしも誰かがいたのならば、ただ何もかも曖昧な影のようなものにしか見えないだろうが、それでもいること自体はわかるはずだ。

 しかし、少女の目は何も捉えることが出来なかった。

「どんなやり方でも思いが本物ならば、それは形を成すかもしれない……だが」

 咄嗟にスマートフォンを取り出し、ライトを点灯する。

 文明の灯りに照らされて境内のケヤキがはっきりと見える。だが、それだけだ。

 声の主の姿は見えない。


「他人を呪ったって君は幸せになれない」

 低い声は少女の鼓膜を震わせるが、心までは震わせない。

「うっ……うわああああああああああああああ」

 声の内容ではなく、声そのものにたいする返答として少女は悲鳴を選ぶと、境内に響き渡る恐怖の残響を置いて、少女は逃げ去った。

 恐怖の残滓が消えると、残されたものは釘打たれた藁人形だけだった。


「やれやれ……お前も災難だったなぁ、おつかれさん」

 残された声の主は嘆息し、藁人形をねぎらった。

 返事はない。

 少女の思いを何も言わずに受け止めたそれは、かつて磔にされた救世主の有様によく似ていた。


「まあ、赦してやってくれ。人間、やり方を間違えることはある」

 声とともに釘が抜かれる。

 藁人形は、声の主の腕に下りると頷くかのように彼の頭部によりかかった。



 ベッドの広さにもようやく慣れてきた。

 睡魔に尾を引かれる鈍い目覚めと共に、エリはそう思った。

 今年で中学二年になる彼女は、二ヶ月前までテディベアと一緒に寝ていた。

 ふわふわの可愛らしい熊で、彼女が三歳の時に父に買ってもらったものだった。

 クマチャンと呼んでいた。

 毎日のように抱いて眠り、辛い時も嬉しい時もエリの感情を黙って受け止めていた。

 ただのぬいぐるみではない、彼女にとって親友と言ってもいい存在だろう。

 そんな親友をエリは二ヶ月前に捨てた。

 ぬいぐるみを卒業したわけではない。

 ただ、二ヶ月前に彼女の父が交通事故で死に――クマチャンはその感情を吐き出す器に成り得なかっただけだ。

 クマチャンを見る度に、優しかった父の姿が浮かび――思い出が彼女を苦しめるために蘇る。

 後悔はある。

 それでも、彼女はそうせざるを得なかった。

 悲しみは癒えないが、クマチャンのいない分だけ向き合わないで済む。


「おはよー、エリ。休みだからってしゃきっと起きなさい」

 お母さんは何でも無いような顔をして、朝食の支度をしている。

 テーブルにはトーストと目玉焼き、そして牛乳といちごジャムの瓶。

「おはよう……お母さん」

 葬式で流した涙が嘘のように、お母さんはお父さんのいない生活に適応していた。

 最初から死んだ人なんかいないみたいで、私だけが悲しみを引き摺っているみたいだった。

 思いっきり泣けたのが母さんにとっては良かったのかな、と思う。

 私は、何故か泣けなかった。

 胸の中に石を入れたような重い気持ちで、ただ悲しみだけが続いている。


「なんか眠そうね」

「うっ……うん……」

 丑の刻参りをしに行った、そんなことを言えるわけがない。

 未だにお父さんを殺した相手への感情は晴れない。

 あの人が悪いわけじゃない――そんなことはとてもじゃないけど思えない。

 死ねばいいと思う。

 殺したいわけではないけれど、生きていることに耐えられない。


(……死んじゃえ)

 頭の中で、釘を打つかつんという音が鳴る。それと同時に私の身体は震えた。

 昨日のアレはなんだったんだろう。

 声だけで、姿は見えない。

 わからなかったなんてもんじゃない、本当にいなかった。

 本物――そんな言葉が頭の中に浮かぶ。

 それが本物の呪いなのか、悪魔なのか、もしかしたら悪霊や神様なのかもしれない。けれど、もしも本物のそういうものがあるのならば。


 私の頭の中に父さんを殺したアイツが浮かんだ。

 顔は思い出せない。もしかしたら、最初から見ていないのかもしれない。

 浮かぶのはいつだって土下座して私達に謝っている姿だ。

 謝ったぐらいで許されるわけがないのに。


 かつん。音が鳴る。

 私は頭の中で釘を打っている。


(死んじゃえ)かつん(死んじゃえ)かつん(死んじゃえ)かつん(死んじゃえ)

「どうしたの?」

「うっ……ううん、なんでもない」

 私は頭の中から釘の音を振り払い、トーストに手を伸ばす。


「……美味しいね」

 塗りすぎたいちごジャムが溢れて、テーブルを汚した。

 濃い赤色は、血を思わせた。

 かつん。


 呪いが成就する。

 何故か、そんな気がした。


 ◆


 多分、人が死ぬ。

 そのことに対する罪悪感はなかった、やり返してやっただけって感じだ。

 私は大きな隙間の空いたベッドに寝転がって、不謹慎ながら心を弾ませていた。


「……まいったな」

 声がした。

 低く渋い声、昨日の声だ。私は身をもたげ部屋の中を見回す。

 やはり声だけで、その姿はない。


「エリ、下だ」

「えっ!?」

 はっきりとその声は私の名前を呼んでいた。

 足元を見れば、ベッドのマットレス部分に隠れるようによく見た姿があった。

 丸くふわふわの可愛らしいテディベア。クマチャン。


「私だ、エリ」

「うわああああああああああああああ!!!」

 クマチャンは私の様子を気にせず、ベッドに跳び乗った。

 信じられないことに動いているし、ジャンプまでする。


「……こっ、声渋いね」

「うん」

「昨日の声って……」

「私だよ、足元にいたからエリは気づかなかったんだね」

「そっ、そうだ……」

 かなりどころじゃなく驚いている。

 自分が捨てたぬいぐるみが歩いて喋って跳んでいたら、それはビビる。

 なんで動いたのか、そう聞きそうになって答えはすぐにわかった。


――私はクマチャンを捨てたんだ。


 捨てられた人形やぬいぐるみが復讐のために帰ってくる話はいくらだってある。

 

「やっぱり怒ってるの?」

「怒ってないよ」

 落ち着いた声でクマチャンが言った。

 その響きの中に本当に怒りはなさそうに聞こえた。


「でも」

 言いかけた言葉を、クマチャンはもこもことした丸っこい指のない手で制した。


「捨てられたことは辛くなんかないんだ、それよりも私は君が私を見て悲しい思いをすることのほうが辛かった。だから、いいんだ」

 なんでもないことのようにクマチャンが言った。


「時間が君を癒やしてくれるならそれで良かった。けれど、君がしていることを見過ごす訳にはいかない」

「……っ」

 クマチャンがベッドの上に立ち上がって、私の目をまじまじと見上げた。

 

「……じゃあ、どうするっていうの?」

「エリ、私を担ぎ上げて彼の元へ運んでくれないか」

「断ったら?」

「私は一人でも行けるんだ、けど……君に私を連れて行ってほしい」

「……うん」

 抱き上げたクマチャンは柔らかくて、暖かかった。

 優しくて小さい太陽を抱いているみたいだった。



 隣町の小さいマイホーム。

 行ったことはないけど、アイツの住所は知っていた。

 行くかもしれないから、ずっと覚えてた。

 走ったり、歩いたり、私は急ぎたいのかそうじゃないのかわからないまま、アイツの家に向かった。

 アイツの家の車道を挟んで向かい側にいる。

 家に車はなかった。あるわけがないけれど。

 今日は日曜日、多分家にいる。


 鏡はない。クマチャンの黒い目は人間の瞳と違って私の顔を映さない。けれど、今の私がどんな顔をしているかはわかる。クマチャンの表情は変わらないまま、なんだか悲しそうに見えた。


 かつん。


 釘を打つ音。


 理不尽に奪われた命を、理不尽に奪い返したい。

 取り戻せないなら、取り戻せない分をただ奪ってやりたい。

 そんな私の思いを叶えるかのように、突如現れたトラックが突然にハンドルをアイツの家の方向に切った。


「えっ!?」

 瞬間、クマチャンがエリの手から降りた。

 駆ける。目で動きを追いきれない。

 トラックよりも速いスピードで、ちっぽけなテディベアは駆けた。


「……ルゥゥ」

 小さい熊が唸り声を上げる。

 柔らかな身体の中には綿だけが詰まっている。

 発声器官は無く、筋肉も骨も血も無い。

 愛されるためだけに生まれたものであったが、愛を覚えておくための脳も無い。

 それでも、獣のように唸るトラックに並走し――その下に潜り込んだ。

 車体の下に潜り込んだ小さな体の、さらに小さくて柔らかい両手。

 その熊に爪はない。

 誰かを害するという機能は生まれた時から存在しない。

 あらゆる点において、車に立ち向かえる道理はない。


「ウォォオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」


 小さい両足が歪む。

 小さい胴体が歪む。

 小さい両手が歪む。

 トラックのタイヤが空を切る。

 どのような車両であっても、その車輪が地面に設置していなければ進むことは出来ない。


 小さい綿の身体はトラックを持ち上げていた。

 否、それだけではない。

 進めべき大地を求めて狂乱する車輪が、永遠にその身を地につけぬようにした。

 トラックが宙を舞い、その上下が入れ替わる。

 何が起こったのか、それを表すのに相応しい技が一つだけあった。

 バックドロップという。


 道路に叩きつけられたトラックはひっくり返った虫のように蠢いた後、消滅した。

 ぬいぐるみがトラックに立ち向かえないというのは人間の道理である。

 玩具の道理にそれは通用しない。


「えっ……なにこれ?」

「呪いが形になったものだよ、エリ」

 驚き戸惑うエリに平然とクマチャンが返した。


「こんなに凄まじいことあるの?」

「あるよ」

「あるんだ……」

「だって、エリがそう願ったから」

「そっか、じゃあ……」


 かつん。頭の中で釘が打たれる。

 口の中になにか苦い味が広がる。

 血が出た。

 

「お父さんと同じように、アイツを轢き殺してやりたい」

「……させないよ」

 青色の軽自動車が突然に現れて、猛加速しながら男の家の窓に突っ込もうとした。

 テディベアは飛び上がり、左回転回し蹴りを軽自動車に放つ。

 軽自動車はあらぬ方向に走って消えていく。


 白のミニバン。テディベアは天井に飛び乗り、踵落としを放つ。

 その威力が、ミニバンを道路に埋め込む。

 埋め込まれたミニバンは道路の損傷ごと存在しなかったかのように消滅する。

 そして、迫り来る赤いスポーツカーの先端を掴んで、宙に放り投げる。


「クマチャン、全部防いじゃうんだね」

「……うん」

 頭の中で音がする。

 グシャリという脳を刺す五寸釘の音。

 そこに金槌を打ち付けてグチュと潰れる音。

 鼻血が垂れて、アスファルトを赤く染めていく。


 緑色のファミリーワゴン。

 よく知っている車だった。当たり前だ。

 私の家の車だもん。

 事故で廃車になった、もうこの世に存在しない車。


「なんで、お父さんは助けてくれなかったの?」

「……」

 小さい熊の身体からは綿が臓物のように洩れていた。

 綿のバランスが崩れておかしくなった身体は手足が萎びた部分もあれば、やけに膨らんだ部分もある。

 ゴミと変わらないような姿でテディベアは車の前に立ち塞がった。


「……だから、君を守ると決めたんだ。エリ」

 綿の目に涙を流す機能はない。

 綿の身体に流すべき涙もない。

 だから、ぬいぐるみの分も少女は泣いたのだろう。


 ファミリーカーはぬいぐるみを轢く寸前で止まり、もう一度この世から消えた。


「……なんで!?なんで、そんなボロボロになってまでそんなコトしてくれるの!?」

「君は優しいから後悔すると思った。あの男が死に……遺された家族を見て」

「違うよ!私クマチャンを捨てたんだよ!」

「誰だっていつかはぬいぐるみから卒業する、けれど……そんなことで私たちは子どもたちを憎んだりはしない。私の商品説明を知っているかい?子供の永遠の友達さ。いいだろ?私は自分の商品説明を知った時、とても良いと思ったよ。だからそうしようと決めたんだ。世界は理不尽で、容赦なく何かを奪っていく。だったらどんな時でも味方をしてくれるぬいぐるみがいるぐらいの理不尽に良いことだってあっていいだろう?」

「っ……ぇ……」

 泣き続ける少女に、ボロボロのぬいぐるみは自ら抱かれに行った。

 ぬいぐるみは暖かく、ボロボロになっても柔らかかった。


「君はこうして私を抱いてくれたね、毎日毎日……だから良い。私は君に愛された。それこそ動けるぬいぐるみになるぐらいにね。本気の感情があれば、くだらない呪いの儀式で本当に人を呪い殺すぐらいのことが起こるんだ。本気の愛情があれば、それぐらいのことだって起こるだろう?」

 嗚咽で少女の返事は具体的な言葉にならなかった。

 少女はただただ頷き続けた。

 やがてぬいぐるみは動かなくなった。




 ボロボロのクマチャンを見るとどうしても悲しくなって、出来る限りの修理をしたけれどツギハギで、見ている泣きたくなった。

 けれど、泣いたりはしない。


「黙ると悲しくなるなら、喋ってるよ」


 クマチャンは私が悲しむのが嫌だから。

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