みちづれ
飯田太朗
みちづれ
「やだ! これ欲しい!」
娘が駄々をこねる。俺は困り切って、妻の方を見る。
しっかり叱って。妻の顔はそう言っていた。叱ってって言ってもなぁ……。
昔から女に弱い。それが大人だろうと幼児だろうと、とにかく俺は女性に弱い。多分それは生物学的優位によるものだろうが――生き物の基本形は雌だし――日本の社会は「男ならしっかりしろ」というのを求められていて困る。いや、俺だってしっかりしてるさ。仕事でもプライベートでもやりたいことはハッキリ言うクチだ。でも、ただ、こと女の話になると、どうにも。
「欲しいー!」
娘が指をさす先にある人形。ストラップより少し大きいくらいのクマのぬいぐるみ。値段九百八十円。このくらいなら買ってやっても……と思うが、妻の表情は険しい。参ったなぁ……。
ただ、そう。このぬいぐるみを……こういう小さなぬいぐるみを見ると、思い出す。
「なぁ、えり。ジュース飲みたくないか?」
娘がパッと顔を上げる。よしよし、釣れそうだ。
「お父さん疲れたからさ。喫茶店で休憩したいな。そこでならそのお人形買うかどうか相談できると思うんだけど……」
ちらっと、妻を見る。またも険しい顔。首を横に振っている。そんな作戦じゃダメ。しっかり怒って。暗にそう言っている。
しかしまぁ、ここは、この人形から離れるのが先決だろうな……。
と、いうのも、さっきから疼くのだ。体の芯、体の奥。具体的に言うと、海綿体。
「下の階にタリーズがあったな」
妻の顔はますます険しくなったが……しかし俺は自分の男としての疼きの方を優先した。
そういうわけで辿り着いた喫茶店で、やはり妻は不機嫌だった。ムスッとしてスマホをいじっている。えりがちょっかいをかけるのにも構わず、だ。
俺は苦い思いをしてしながら喫茶店のソファに体を沈めた。目を瞑り、頭の中にある無数の記憶の中から、それを探す。
――見つけた。
それは、そう。俺が高校の夏休み、伯父にもらった中古のヤマハドラッグスターで旅に出た時のことだった。
旅、なんて言ったが、俺は四国の小豆島出身で、島全体をくまなく一周しようと考えて出たお遊びの旅だった。
小さな島だ。隅々まで堪能して回ったとしても四〜五時間で済む。
ただ俺は、昼過ぎに家を出て、島の反対側、土庄町の田井浜海水浴場で民泊兼海の家をやっている伯父――バイクをくれた伯父だ――の家で一泊して家に帰るというルートを想定していたので、まぁ一泊ではあるが「旅」の認識でいた。
そこでの出会い、だった。
島のそこかしこを走って夕方六時頃伯父の運営する民泊に辿り着いた。
駐輪スペースにバイクを停めようとしたところでそれに気づいた。俺と同じヤマハのドラッグスターが、それも新品と見紛うばかりに綺麗なのが一台、停まっていた。
「おお、
と、いいタイミングで伯父が夕闇の中にぼんやり姿を現した。海の方からゆっくり歩いてくる。さざなみの中をドタドタ歩いてくる伯父は何だか海の妖怪じみていたが、しかしちゃんと人間だった。伯父は俺のそばに来ると俺の肩を叩いた。
「元気しとっか?」
俺はうんとかああとか笑顔で返した。すると伯父が綺麗な東京弁でこう続けてきた。
「すまんな。本家の方で揉め事があって。伯父さんこれから行かなければならん」
東京の大学に通っていたという伯父さんが東京弁を話す時は、たいてい緊張している時だ。
本家。
俺の家は一応、小豆島の中では名士と言われる家系だった。俺の父の世代の長男である伯父は、家のことを何かと背負う機会も多かった。ここで言う「本家」とは、島中に散っている一族の皆を集めて行う集会みたいなもので、いずれは俺もそこに出ることになるのだろうが、未成年である俺は、当時まだ出席権がなかった。しかし伯父が行くということは俺の親父も行くことになる。そんな話は聞いてない。
すると俺の表情を読んだのか、伯父は、
「昼過ぎに決まったことでな」と頭を掻いた。傍目に見ても困っているのは明らかだった。
「今日はお客さんが来てるんだ。民泊の方を使ってるんだが、俺がこの始末じゃなぁ……良紀、悪いが店番してくれないか?」
「えっ、店番?」
伯父はニカっと笑った。
「本州から来てるお客さんだ。女のお客さんだぞ。綺麗だぞー」
「な、何だよそれ」
しかし内心、興味がないわけではなかった。綺麗なお姉さんが嫌いな男子高生は少ないだろう。
「風呂、覗くなよ」
と、伯父さんは俺の手に民宿の鍵を渡してきた。俺はドキドキしながらそれを受け取った。じゃあ、そうか。あの新品みたいなバイクは、その……。
そういうわけで、俺は小さな民宿で、あの人と二人になることになった。
名前も知らない――でも俺の大事な何かを奪った――あのお姉さんと。
*
伯父がフロントと呼んでいる小さな店番用の台に座って、俺はぼやぼやと明日のルートを考えていた。と、いつの間にか夜八時になっていた。俺は店番台の上に置かれていた煎餅を食べると、腹が減ったなぁ、と再び時計を見た。
何か作るか。そう思って、番台の奥にある台所に立つ。料理は得意だった。病弱な母に代わって家のことをする機会が多かった俺の特技のひとつは、誰が食べても唸る卵焼きを作れることだった。
冷蔵庫を見る。新鮮な卵があった。こりゃいいや。俺は卵を二つつかむとお椀の中に割ってくしゃくしゃと溶いた。
頭上の棚から出汁パックを取り出して、破いて中身を少し卵の中に混ぜた。この残った出汁粉は軽く醤油で炒ればふりかけに早変わりする。出汁粉を溶いた卵。そこに醤油を少し。砂糖と塩で味を調整して、胡麻油を一滴垂らしてまた混ぜる。
卵焼き用のフライパンをコンロで熱する。サラダ油を敷いて、程よくなったところで卵液を垂らした。爆ぜるような音がして、鉄板の上で卵が白く固まった。
半分ほどを流し込む。菜箸でくしゃくしゃとかき混ぜながら熱して、程よいところでくるんと丸める。時折フライパンをあおって、くるくる丸めると空いたスペースにまた油を敷く。それから残りの半分の卵液を垂らした。またも爆ぜるような音の後、俺はくるくると巻いて卵焼きを完成させた。
皿に盛る前に、牛乳パックを開いて作ったまな板の上に卵焼きを乗せ、包丁で半分に切った。
そうして半分を皿に乗せ、もう半分を乗せておいた半分に立てかけるようにして置いた。料理人の修行をしている、同じ中学の
「へー、美味しそう」
背後からいきなり女の声が聞こえたのは、俺が出来上がった卵焼きに満足していた時だった。
番台の向こうに、女がいた。Tシャツ姿の。その人がお客さんだと悟るのに少し時間がかかった。お姉さんは台の上に肘をついて気怠げにこちらを見ていた。俺はズボンの腰のあたりで手を払うと応対した。
「すみません、夕飯を作ってて。何かありましたか?」
俺が訊くと、女性は品よく笑った。
「私もお腹すいちゃって」
ちら、と俺が落とした目線の先。襟ぐりの大きく開いたTシャツがあった。もう少しで……。
「それ、半分もらえないですか?」
お姉さんが俺の背後を指した。俺の卵焼き。それが欲しいと、言っているらしい。
「あー……」
俺は迷った。個人的にはあげてもいいが、しかし俺は料理人じゃない。衛生面に気をつけたとは言い難いし、他人様にあげていいものなのか……。
「お願い」
しかしこう、綺麗な女性に頼まれると断り難いものがある。
俺は台所に向かうと皿をもうひとつ出し、卵焼きの半分をそれに乗せた。食器棚の引き出しから箸を取り出す。そしてお姉さんの方に持っていった。
「ありがと」
お姉さんは俺から皿を受け取るとすぐに退散した。仕方がないので、俺は残った半分を食べると、再び番台の椅子に座ってしばしうとうとした。
目を覚ましたのは、夜中のことだった。
*
「お兄さん、お兄さん」
蒸し暑かった。ひたすらに暑くて目が覚めた……ような気がした。
だが実際は違った。いつの間にか落ちていた照明の下、艶かしい曲線が俺の目に留まった。何だろう。そう思うのより先に。
すっと頬に手が添えられた。ふんわりと、酒の匂い。親父たちが発散するそれは明らかに悪臭だったのに、この人の発するそれは……。
「卵焼き、ありがと」
その声で、気づく。
さっきの、お姉さん。
「ふふ」
暗闇の中、お姉さんが笑う。
「かわいいね」
それは、男を褒める言葉にしては嫌になるくらい甘ったるい表現だったが……でも、お姉さんが放ったそれはとても甘美だった。甘いだけじゃない。美しかった。
しかしそこで、気づく。
「お客さ、さけ……」
慌てていたからか、ついつい言葉が打つ切れになってしまう。しかし息を整えて、俺は続けた。
「酔ってるんですか?」
また、酒の匂い。お姉さんが息を吐いたのだと分かった。
「君、高校生?」
俺の質問には答えないで、逆に質問で返してくる。
「え、はい……」
俺が答えると、お姉さんは――暗闇の中で――ふふ、と笑った。
「私ね」
また、酒の匂い。
「今すっごく触りたい気分なの」
「さ、さわ……」
その言葉の艶に、俺は一瞬にして気が狂いそうになった。心臓が爆ぜるかと思い、そしてさっきの……卵焼きを、何故か思い出した。
すっと、細くて柔らかい何かが、服の上から俺の胸を触った。
「触られるの、嫌?」
どう答えるべきか困ったが、しかし首を横に振った。やがてこの闇の中ではそんなジェスチャー意味がないことを悟り、答えた。
「い、嫌じゃないです……」
すると闇の中の柔らかい何かは、すっと俺の胸筋を撫でて……それから鳩尾を触った。声が、出そうになる。
「私に触ってもいいけど」
闇の中の女の声。
「あとでね。今はじっとしてて」
それからは、されるがままだった。
柔らかい指は俺の腹筋を撫でて……それから鎖骨や、短くしたばかりの頭を撫でて……鼻の先をちょんっと跳ねた。かと思うと唇をなぞって……再び胸板を触ってきた。俺はずっとそれに耐えていた。声を殺して、耐えていた。
それから、何かの擦れる音が聞こえた。
不意に、本当に不意に。
柔らかくて温かい何かに包まれた。鼻先と、頬。いや、顔全体が。
呼吸が苦しくなって、俺は悶えた。頭上から声がした。
「ふふ」
笑われている。
「かわい」
この頃になって、ようやく目が闇に慣れてきた。
長い影が見えた。多分、髪だ。すだれみたいに俺の顔のあたりにかかっている。ぼんやりと顔も見えた。やっぱりさっきのお姉さんだ。
そして耳のあたりに触れる何かがあった。何となく、だが、レーズンくらいの柔らかさのあるもののような気がした。甘い匂い。俺は深く息を吸った。そしてまた少し、身悶えた。
さっきまで俺の体を撫でていた細い何かが、ズボンのベルトに触れた。
夏の暑さに蒸れていた下半身。腰を浮かすと不思議な開放感があった。太腿の裏に椅子の金具が触れた。冷たかった。
「あ、ああ……」
それから続いた感触に、思わず声が出た。
俺が、俺が、柔らかくて、湿った何かに……。
「ああ、あ……」
再び、俺の顔が甘くて優しい何かに包まれる。
「じっとして」
頭上から、声。
「大丈夫だよ」
頭が撫でられた。しかし俺の下半身はまるで陸にあげられた魚みたいにびくびく跳ねていた。
「あっ、ああ」
と、情けない声を出した後。
俺は初めての感触に体をぶち抜かれた。死ぬ……そう思った。
ここにきてようやく気づいたのだが、俺の下腹部から太腿にかけては温かい何かに包まれていた。
ああ……。
心臓が落ち着いてくる。と、同時に抗議の気持ちが湧き上がってきた。
「ど、どうして」
と言いかけた口を、何かが塞ぐ。
甘い匂い。酒の匂い。
「お姉さんね」
暗闇の彼方に滲むような声だった。
「……ううん、なんでもない」
「どうしたんですか」
俺は訊いた。
「何かあったんですか」
それから続く、すするような音。俺は口を動かしたが、だが、適切な言葉が思い浮かばなかった。
すると、女の人の声がした。
「君さ」
寝る前の読み聞かせのような、温かい声だった。
「バイク乗るの?」
「乗ります」
俺は答えた。そして質問した。
「お姉さん、も?」
「乗るよ」
旅は好き?
続けてお姉さんは訊いてきた。俺は柔らかい何かに包まれたまま頷いた。
「好きです」
「私も好き」
じゃあさ、と、頭上のお姉さんは続けた。
「あなたはこれから、いっぱい、荷物を得る。どれも旅に必要なもの。でもいつか、また会えたら」
その時は、とお姉さんは続く。
「お互いの荷物を放り投げて、喜び合おうか」
はい、と言いたかったが、俺は疑問を口にした。
「俺、お姉さんをどうやって見つけたらいいですか」
鼻の先に心臓の音を感じた。とくとくと続いたそれからさらにこう聞こえた。
「バイクのキーに、小さなクマのぬいぐるみつけてるから……」
お姉さんは続けた。
「それと、あとは、声で」
すっと、耳元がくすぐられる。甘い匂いと、声が、した。
「この声を覚えてて」
*
「ちょっと!」
揺すられて、目を覚ます。
いつの間にか眠っていたらしい。
体の芯が、固まっていた。ズボンの中はひどく窮屈だった。
まぁ、あんな夢を見れば、そうか。
「何寝てんの。もう行くよ」
妻に叩き起こされる。俺はよたよたと立ち上がると財布を出した。しかしすぐに、
「注文した時にもう払ってるでしょ!」
と怒られた。これだから田舎者は、というニュアンスも少し、感じた。
「まったく、もういい加減に……」
そう、妻が小言を垂らそうとした時。
目に留まった。向こうの席の女の人。トレイに乗せたマグカップ。片付けようとしている。
そんな彼女が手にした鍵からぶらりとぶら下がった、クマのぬいぐるみ。キーホルダー。
「ふふ」
笑い声が、聞こえた気がした。
了
みちづれ 飯田太朗 @taroIda
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