ぬいぐるみがボロボロなのよ

はに丸

ぬいぐるみがボロボロなのよ

 ぬいぐるみがぼろぼろなのよ。

 さくの言葉に、室生むろうちゃんが、捨てたほうが良くない? と言った。容赦ない言葉に朔が席に座ったまま、ため息をつくと、立ったまま室生ちゃんが机に片手を置いて首を傾げていた。

 昨今、ぬいぐるみを巡るトラブルは多い。子供の頃から大切にしていたぬいぐるみが汚れほつれ綿が出て、どうしようかと途方に暮れる。大人になればよくある話なのかもしれない。朔のウサギのぬいぐるみも物心つく前からあるもので、いつも一緒に寝ていたりする。

 が、最近、ほつれて綿が出だした。長年の垢やよだれですっかり薄汚れ、淡いピンクの毛並みは茶色じみている。

「えっと、申し込めば処分してくれるよ。私もお母さんにやってもらった」

 短く切った髪に未成熟の少女独特のうなじは清潔ながらもどこかなまめかしい。健康優良児を絵に書いたような室生ちゃんでさえ、どこかエロティシズムを醸し出すのだから、放課後の教室、夕方の日差しはなかなかの演出家である。

 朔は長い髪を指で弄りながら、ため息をつく。こちらは演出がなくても、憂いを帯びた女学生そのものであった。教室の隅で一人本を読むのが似合いそうな、文学少女然としている。いかにも体育会系の室生ちゃんと文化系のように見える朔はバンド仲間という、なかなかに興味深い関係であるが、ここでは触れない。

 ぬいぐるみを捨てるなら然るべき機関へ。修繕するならそれ相応の備えをもってお覚悟を。そのまま放置するなど、言語道断。

 世間の常識である。室生ちゃんは思い出ごと捨てた。

 最後に記念写真撮ったんだよ

 といつか出された画像データの猫のぬいぐるみは、綿がいくつも飛び出し、汚れ、顔も長年の圧縮か崩れており、お世辞にもかわいいとは言えなかった。その頃は、かわいそう、と朔は思った。覚悟を決めて治してあげなさいよ、とも。

「いざ、自分の身になると気持ちが重いね。あのときの室生ちゃんは偉いよ」

 朔は机に寝そべり、伸びをした。それで、どうするの? と室生ちゃんが無邪気に問う。

「んー。明日考える」

 学生には時間がたくさんあるのだ。朔は明日の己に託すことにした。

 自室に戻って鎮座ましましてるのは、幼稚園児ほどの大きさのぬいぐるみだった。かなり大きなウサギである。朔の、最初の友達であったが、いまや手足がもげかけ、綿ははみ出て、毛はバサバサ。手垢やこぼした食べ物で薄茶色に汚れ、シミも目立ち、元の色がわからなくなっている。抱きしめたり寝潰したり、投げ飛ばしたりを繰り返し、顔つきはすっかり歪んでいた

 朔はぬいぐるみを手に持ち、少しの悲しさを込めて優しく話しかけた。

「ちーちゃんとずっと一緒にいたいの」

 友達、兄弟、ペット。どれでもあり、どれでもない。このウサギのぬいぐるみのせいで、朔はウサギ好きにもなった。水疱瘡で苦しんだ朝、熱が冷めて最初にちーちゃんが視界に映ったときは、安心したものだった。

「そりゃ、処分は簡単らしいけど」

 市役所に連絡して、手数料を引き渡して終わり。あとは溶鉱炉にぽい。想像するだけで、胸が苦しい。

「修繕は、お金がかかるし……なんか、詐欺する人もいるって」

 専門業者の見積もりの高さをテレビで見たことがある。それを逆手に取って素人が安く請け負い、悪化する問題も多く聞いていた。専門家でないと、ぬいぐるみを無事に修繕することは難しい。

「難しいことは明日。……ふふ、ずっと一緒がいいもんね、ちーちゃん」

 朔が目尻に涙をにじませて、微笑み、ぬいぐるみに話しかけた。もう十何年、このように話しかけている。

 ちーちゃんであるところの、ウサギのぬいぐるみの腹がパクリと割れて、ぐぼりと大きな口が飛び出し現れた。その牙は鋭く、口には蜘蛛の脚のような長い歯も多数にあり、朔を抱きしめるように捉えた。

「あ」

 朔は叫びだすこともできず、長く太い舌に巻き取られ、ゴリュリと背骨をおられる。折ってたたまれた朔は、そのままぬいぐるみの中に飲まれ、バキン、バキン、という噛み砕く音、グチュングチュンという咀嚼の音ともに、消えた。

 このぬいぐるみ、少々粗忽もので、朔の左足だけ、噛み切ってしまい食べそこねてしまった。

「朔ちゃん、晩御飯よ」

 そう言いながら、部屋に入ってきた母親が、朔の左足、床に散らばった血痕、そして新品のように生まれ変わったぬいぐるみを見て、頭を抱え絶叫した。

 頻発するぬいぐるみとの同化死亡事件により、政府は一律期限を決めてぬいぐるみの回収処分すべき、と議論を重ねている。

 ただ、ぬいぐるみを禁じようという議論は、なぜかされない。世界はぬいぐるみに支配されているようなものなのだろう。

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